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母の巻 第三章

  一

 ――夢を見ていた。
 部屋には女がひとり。それは、華やかで美しいあやかしだった。赤く長い髪は真っ直ぐに床に流れ、伏せられた瞳も赤く宝石のように輝いている。そこは豪華な調度で飾られた一室だったが、壁には異様なほどの枚数の札が貼られていた。
 ――このひとは誰なのだろう。桔梗は疑問に思いながら、ただ黙ってその光景を見つめる。
 女は日がな一日何をするでもなく部屋に閉じこもっていた。もしかしたら出られないのかもしれない。しかし、一体何故だろう。
 日が暮れた頃、帳を開けてひとりの男が姿を見せた。人間だ。どこかで見たような顔――だが、思い出すことはできない。
「つつがないか」
「……はい」
 涼やかな男の声にこたえる女の声は冷たく、それでもその中に秘められているどこか待ち焦がれていたような響きを、桔梗は鋭く感じ取った。
 男は女の向かいに腰を下ろし、何をするでもなく黙って彼女を見つめている。
「…………」
 しばらくそのまま沈黙が続いたが、やがてしびれをきらしたように女が口を開いた。
「何かご用ですか」
「いや? 何もない」
「名乗りもせぬくせに態度ばかり大きい。見張りの者も貴方のことは見逃している様子」
 女はその瞳の中に静かな炎を燃やした。
「高貴な身分の方なのかしら? それなら」
「私を殺すか?」
 男は鷹揚な笑みを浮かべる。
「いつ、そう言い出すかと思っていたよ」
「…………」
 女は顔を顰めた。
「殺されたいの?」
「さあ、どうだろう」
 男は首をかしげる。
「私は死にたいとは思わない。だが君の放つ炎に焼き殺されるのなら」
 床に触れている女の指先から順に視線でたどり、男の眼差しはやがて彼女の顔に固定された。
「それも悪くはないような気がしてしまうのだよ」
「馬鹿げている」
「そうだね」
 男はあっさりと頷いた。翻した袖がゆったりと揺れる。
「……支配されることに、憧れがあるのかもしれぬな」
 独り言にも似た口調でつぶやく。女は彼に興味を失ったように視線を他所へうつした。
「殺して欲しいのなら、いつでもそうして差し上げます」
 男はくすくすと笑った。
「とはいえ、ただで殺されたくはないな」
「どういうこと?」
「情熱の炎になら、いつでも焼き焦がされたいのだがね」
「……本当に馬鹿ね」
 女は吐き捨てるように言う。
「人間なんて、愛せるわけがないでしょう?」
「あやかしなど愛せるわけがない」
 男は女の言葉そのままの調子で言葉を返し、微笑んだ。
「私も君に出逢う前はそう思っていたよ」
「いい加減にして」
 女は顔を背けた。華奢な肩が小刻みに震える。
「私から全てを奪ったのは人間。こんな風に閉じ込めているのも人間。憎みこそすれ、どうして愛せるというの?!」
「それなら」
 男は目を細める。
「何故、私を殺さない?」
「…………」
 女は仮面のような無表情を崩さない。
「ここでは妖力が封じられている? それは本当か? 君の種族は四天王なのだろう?」
「…………」
「どうして私を殺さない?」
「…………」
 彼女の首がゆっくりと回り、その赤い視線が男を射た。
「では、私からも聞くわ」
「何だ?」
「どうして私を殺さないの? 殺せないわけではないわね。同胞をあんなにも沢山殺したのだから」
「…………」
 男は軽く肩をすくめた。
「君が私の質問に答えてくれたなら、私も君に答えよう」
「何故私が先なの?」
「問うたのは私が先だからな」
「…………」
 女は軽く紅唇を噛んだ。無意識なのだろうが、それはひどく妖艶な仕草だった。
「……簡単なことよ」
 再び顔を背ける。眼を伏せ、顔色を悟られまいとしているかのようだった。
「あなたを殺したら……」
「殺したら?」
「殺してしまったら……」
 逡巡の後、彼女は消え入りそうな声で答えた。
「誰も……私のところへなど、来てくれないもの……」
「…………」
 男の手が伸び、女の肩にそっと触れた。
「……寂しいのか」
「最低」
 女の声は細かく震えていた。
「あなたって最低。人間なんて最低」
「ああ、私は最低だ」
 男の顔が歪んだ。
「こんな出会い方をしたくはなかった」
「…………」
「君の高貴な美しい魂を……私のせいで苦しめている」
「そうよ」
 女は顔をあげる。その紅の双玉からは、透明な滴が溢れていた。
「あなたのせいだわ」
「ああ、そうだ」
 男は女を抱き寄せた。女はもう抵抗する気力もないのか、崩れるようにその胸の中に倒れ込む。
「わたしのせいだ」
「……どうして」
 女は男の胸元に指を這わせた。
「どうしてあなたが泣くの? 泣きたいのは私」
「……君が泣くからだ」
「馬鹿」
「ああ、そうだな」
「……いえ、違うわね」
 女は自嘲したようだった。
「馬鹿は、私よ」
 ――あなたが誰だか、もう私には分かっているんだから。
「……名を」
 男は囁いた。
「名を教えて欲しい」
「…………」
 女はやがてぽつりと呟いた。
蘭妃(らんひ)……」

  二
  
 御門の屋敷は、ひっそりと静まり返っていた。先ほどまで冷たい空気を鳴らしていた琴の音がいつの間にか途絶えていることに気付いて、燐は首を傾げる。
「おや、桔梗ちゃんは?」
 彼の元へと白湯を運んできた小雪は、笑みを浮かべて答えた。
「琴の練習にお疲れになりまして、お休み中です」
「そう」
 燐はくすくすと笑った。
「子供はよく寝るなあ。昨夜は紫苑の部屋で眠ってしまったんだっけ」
「ええ」
「あのふたり、閨を共にしても動物の親子みたいにくっついて眠るだけなんだよね」
「微笑ましゅうございます」
「……確かに」
 閨の隙間だけではなく、こころの隙間までも補い合っているような。
 悪趣味とは知りながらこっそり覗き見たが、紫苑がまるで子供のように無邪気な顔をして眠っていたのが印象的だった。彼にあんな無防備な表情ができるとは思わなかった。
 縁に面した中庭を見遣る。朝下りていた霜が溶けたのか、椿の葉がうっすらと濡れている。それとも粉雪のせいだろうか。昼間から降り出したところをみると、今夜は積もるかもしれない。
「紫苑、寒いだろうな」
 つぶやいて、燐は軽く目を閉じる。
「今夜は遅くなられるとお聞きしました」
「うん。羅城門に行くって、焔さんを連れて行ったよ」
「そうですか」
 焔とは神獣の朱雀が姿を変えたもので、紫苑が調伏のときに用いる式神だ。四聖獣は元来主を持たぬと言われるのにもかかわらず、朱雀は紫苑に従う。そして青龍の魂を宿すあやかし、桔梗は紫苑の元に……つまり四獣のうちの二獣が、彼の元に集っていることになるわけだ。――彼はひととしてもあやかしとしても前代未聞の強大な力を手中にしている。恐らく本人は気付いていないのだろうが。
「……何か理由があるのかな」
 考えようとして、やめる。
「まあ、僕にわかるはずもない……か」
 どうでもいいことだと思った。何も問題はない。――今はまだ、何も。
「どうか、桔梗ちゃんが……ふたりが、幸せに眠っていられますように」
 燐はつぶやいて空へ手を伸ばす。手のひらに落ちた雪の欠片は、その冷たさを伝える前に溶け落ちていった。
 
 
  三
 
 女は暗がりの中に蹲っている。何か、覚えのある気配がここに近付いてきているのは分かっていた。ただ、それが何なのか分からない。あの男のものに似ているような、この身にまとうものに似ているような――その両方であるような、どちらでもないような。彼女には分からない。
 気が付くと何もかもを失っていた。新しく手に入れたと思ったものも、本当は最初からこの手の内になどなかった。愛したと思ったものは幻影に過ぎなかった。
 寂しかった。優しかった。苦しかった。美しかった。愛しかった。
 ――蘭妃。
 心地よい音が甦る。低く濡れた声で、何度も何度も。それが自分の名だったということすら気付かぬまま、唇に笑みが浮かんだ。その紅の瞳は狂気ゆえに澄み切っている。
 ――蘭妃。
 見開かれたままの瞳から一筋、涙が零れた。