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母の巻 第一章

  一
  
 羅城門に美しき女のもののけが出るそうな――。年の改まった頃、そのような噂が都で囁かれるようになった。
 羅城門は朱雀大路の南端に位置する城門である。今上から数えること十数代ほど前、桓武天皇の御世に建設された。だが、彼の意向により都の規模は当初より縮小されることとなり、壮麗な羅城門の周りは閑散とした寂しい風景が広がっている。そのためか、羅城門には常に怪奇譚が付き纏う――現在紫苑の持つ笛の先代の持ち主、源博雅もまた、羅城門で怪異に遭遇したうちのひとりであった。
 村上天皇の御代、天皇が大事にしていた玄象という琵琶が盗難にあった。行方は杳として知れず、天皇をはじめとして楽を愛する公達は皆心を痛めた。無論、天皇の甥にあたる源博雅はその最たる人物であった。
 ある夜、清涼殿で博雅がその玄象のことを考えていると、あたりに琵琶の音が響くのに気付いた。彼の耳が聞き紛うはずもない。玄象である。
「これは一体どういうことだ」
 驚いた博雅が供の小童ひとりを連れて音の源を辿っていくと、都の大路を南下し、朱雀門を過ぎ、やがて羅城門にまで行き着いた。音はその羅城門の二階から聞こえているらしい。一体何故それが遠く離れた清涼殿まで響いたのか……博雅はちらと訝しく思ったが、その琵琶の妙なる響きに、博雅はこの状況も忘れて酔いしれた。怯える小童を宥め、楽曲が終わるまで身じろぎもせずに聞き入った。
 最後の音の弦の震動が、やがて空気の中で減衰して消えるまで、博雅はただ待っていた。――やがて、口を開く。
「その琵琶を弾いておられるのはどなたですか? その琵琶は先日今上の元から消え失せたものです」
 深夜の羅城門に勿論燭など灯されているはずもない。小童の持つ灯りが唯一の光源である。博雅の前に立ち塞がる城門は日中見るよりもずっと巨大に、圧倒的な存在感を持っていた。怖気づいた小童が主人の顔を見上げ、はっと息を呑んだ。博雅の顔にはひとかけらの恐怖もなく、むしろ慈愛に満ちた穏やかな表情をしていたのだった。
 ――分かり合える。博雅は確信していた。あれほどの楽を奏でられる人物なら、器を愛で、この手の中で慈しみたいと思う気持ちが分からぬはずがない、と。
 沈黙が場を支配することしばらく。羅城門の上から、するすると縄に結ばれた玄象が降ろされてきた。博雅は慌てて駆け寄る。
「御礼申し上げる!」
 受け取った博雅はその玄象を内裏へ持ち帰った。ひとびとはもののけの奪った玄象を博雅朝臣が取り戻したと言い、その功績を讃えたという。
 ――その博雅の吹いた笛、葉二つは今紫苑の元にある。元々はもののけの持ち物であったと伝えられるその笛は、いかなる笛の名手にあっても吹かれることを拒んだ。ただ例外は、もののけから直々に受け取ったと伝えられる博雅と、その体にあやかしの血を流す紫苑だけである。
 繊細で、尚且つ場を圧巻する力のある音色――博雅のものは優美に、紫苑のものは哀愁を帯びて。そう表現する古老もいた。いずれにせよ美しいことには変わりなく、今上もまたその音を愛するひとりであった。この正月にも、若菜の行事で紫苑に葉二つを吹かせている。美しく装った公達はそれを聞きながら若菜を(あつもの)にしていただき、一年の息災を願ったのだった。
 紫苑が羅城門のもののけの噂を聞いたのは、ちょうどその行事の最中であった。幾人かの殿上人から同じ話を聞かされ、調伏して欲しいと頼まれたのである。とにかく調べてみると返事をしたものの、あまり気が進まない。――嫌な予感がした。それが同居人である桔梗に関わることなのか、それとも旧友、燐のことなのか、もしくは自分に関わることなのか……今の紫苑にはわからなかった。
 
 
  二
 
 その日の夕刻、桔梗と燐は式神の小雪が作った若菜の羹を食べていた。
「これ、どこで摘んだの?」
 不思議そうに首をかしげる燐に、桔梗はにこにこと笑う。
「私と小雪さんが庭で摘んだんですよ」
「へえ」
 燐はふと気付いたように手を止め、やがて微笑を浮かべた。
「ありがとう」
 ――今の自分は、宮中に参内できない。宮中で行われる行事にも参加できない。だから、本来なら若菜の羹を食すこともできなかった。それを彼女は気遣ってくれたのだろう。
「そういえばね」
 燐は箸をすすめつつ、口を開いた。
「もうしばらくすれば、県召(あがためし)除目(じもく)がある」
「あがた……めし?」
「諸国の国司を任命する行事だよ。今回は、特別に僕のことも任命してくれることになっている」
「国司に、ですか?」
「いや、違う」
 燐は微笑んだ。
「いきなり以前と同じ式部大夫に復帰することはできないけれど、文章博士として大学寮に務めることができそうなんだ」
 大学寮とは式部省下の教育機関であり、貴族の子弟に紀伝、明経、明法、算堂――すなわち中国歴史、漢文や儒教経典、律令、格式、そして数学を教授する場所である。文章博士は大学教官の最高位で、「史記」「漢書」などの史書や詩文を教え、天皇の侍読や、詩序、書序、願文、申文の作成なども行う。橘家が代々勤めてきたそれに、燐は復帰できるというのだ。
 桔梗は胸の前で手を組み、声を弾ませた。
「良かったですね!」
「紫苑のお陰だよ」
 ――それと、もう一人の「君」のね……。燐は口には出さず、そう付け加える。
「じゃあ」
 ふと桔梗の表情に陰が差した。
「燐さん、ご自分のお屋敷に帰ってしまわれるんですか?」
「うーん、そのことなんだけど」
 燐は困ったように眉を寄せた。
「橘家は焼け落ちてしまったし、新たな屋敷を建設するにも時間がかかる。どちらにせよ、もうしばらくここに居候させてもらうことになりそうなんだよ。……迷惑かな?」
「いいえ!」
 桔梗は勢い良く首を左右に振った。細い銀髪がその動きにつられ、光の軌跡を描く。
「紫苑、燐さんが帰ってきてくれて本当に嬉しいみたいですし」
 紅潮した頬、真剣な眼差し。燐はそれをまぶしそうに目を細めて見遣った。
「私も、燐さんが来てくれて楽しいです!」
 燐は桔梗に様々な知識を与え、また遊び相手にもなってやった。彼らはまるで兄妹のように、仲睦まじく過ごしている。
 ふと、桔梗が遠くに視線を投げた。
「紫苑……今日も遅いのかな……」
 その表情におんなを意識させる色香を感じ、燐ははっとした。そういえば、彼女は徐々に大人びてきている。あのもうひとりの「桔梗」の姿が成体のものだとするなら、彼女はいつかあのようなすらりとした美女になるのだろう。表情だけはきっと「彼女」のように怜悧なものにはならないだろうが……。
 ――紫苑は、「彼女」をどうするつもりなのだろう。
「さあ、正月は何かと行事で忙しいからねえ」
「……そうですよね」
 飼い主に構ってもらえない子猫のような表情になる彼女に、何故か燐までもが紫苑に早く帰って来いと言いたくなる。
 空になった膳を、音もなく現れた式神たちが下げていった。
「さあ、今度は何をして遊ぼうか?」
 燐はことさら明るい声を作った。
「うーん……」
 気乗りのしない様子の桔梗に、さらに問い掛ける。
「それとも、楽器を奏でてみる?」
「楽器?」
「うん。紫苑が笛の名手だというのは、以前話したよね」
「はい」
「僕は、彼ほどじゃないけど琵琶を奏でられる」
「琵琶を?」
「そう。君は琴なんてどうかな。きっとこの屋敷の中にはひとつくらいあるよね」
 背後にかしこまっている小雪に尋ねると、彼女はうっすらと微笑んで頷いた。
「わたくしも多少、嗜んでおります」
「なら、ちょうどいいね」
「小雪さん、琴弾けるんだ!」
 初耳だと驚く桔梗に、彼女は簡単に説明する。
「この屋敷に以前住んでいらした奥方さま――紫苑さまの義母に当たられる方が弾いておられたのを、お庭で聞いておりますうちに」
「あ……」
 桔梗は小さく息を呑んだ。紫苑の義父のことは知っている。彼を決して愛さなかった義父――御門蘇芳。だが、義母のことは聞いたことがなかった。一体どんな人だったのだろう……紫苑にとってはどういう存在だったのだろう……。
「その人は今どうしているの……?」
「…………」
 小雪は口をつぐみ、救いを求めるように燐を見た。燐はため息をつき、困ったように髪を掻く。
「紫苑が言わないことを、僕が勝手に言ってしまっていいのかどうか、わからないけど……」
 燐はためらいがちに口を開いた。
「蘇芳が紫苑を引き取ってしばらく経った後、こころを病んで亡くなったんだよ」
「え……」
「『人妖を我が子にすることはできない』――との言葉を遺して」
 当時、都でも騒ぎになった。元々病弱で子供を産むことのできなかった彼女は、蘇芳が養子を迎えることには賛成であった。しかし、彼の連れ帰った赤子が半妖であったことには耐えられなかった。蘇芳が紫苑を愛さないのは、そういったことがあったせいかもしれない。
「そんなことがあったんですね……」
 眉を寄せてうつむいた桔梗は、しかしすぐに顔を上げる。燐はそれにやや遅れて、屋敷の前に止まる牛車の音に気がついた。紫苑のこととなると、相変わらず彼女の勘にはかなわない。
「紫苑だ!」
 表情をぱっと明るいものに変えて駆け出す。部屋を飛び出す前に小雪の方に振り向いて、
「今度、琴を教えてくださいね!」
 そう、言葉を遺した。小雪は微笑んで頷く。
「……桔梗ちゃんは、今の話を聞いてどうするんだろうね」
 燐のつぶやきを聞いた小雪は、静かに答えた。
「あの方は、紫苑さまの痛みを全て受け止めていらっしゃいます。まるで自分のことのように」
「全て……?」
「ええ。桔梗さまは、紫苑さまのことを一番に想っておられる……」
「……そう」
 小雪は笑みを浮かべた。
「桔梗さまは、紫苑さまに惹かれていらっしゃいますから」
「……そうだね」
 燐も頷いた。それは彼女を見ていればすぐにわかる。わかっていないのは、想われている当の本人、紫苑くらいのものだろう。
「でも、紫苑は?」
「…………」
「いつまでも、桔梗ちゃんを子供扱いするわけにはいかないのにね」
 廊下の向こうから、桔梗の弾んだ声と紫苑の落ち着いた受け答えが聞こえる。燐と小雪は複雑な笑みを交わし合った。