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燐の巻 第四章

  一

 「桔梗」は顔色ひとつ変えず、先を促した。
「それで?」
 燐は言葉を続ける。
「僕が屋敷にあやかしを囲っているという噂は、あっという間に都中に広がった。あることないこと陰口を叩く奴らもいたけど、さくらの耳には届かないようにしていたし、僕自身何も気にならなかった」
 彼女が側にいてくれれば何も要らない。そう思っていた。
「さくら――というのか、そのあやかしは」
「僕のつけた名前だよ」
「……そうか」
 ふわり、と微笑む。鋭利な印象を残す美貌があまやかにとろけて、燐は虚をつかれたように瞬きを繰り返した。「桔梗」は表情を華やがせたまま言う。
「私の名も紫苑にもらったものだ。さくらはきっと嬉しかっただろうな」
「……うん」
 そう思いたい。少しでも、彼女にしあわせを与えられたのだと……。燐の眦を涙が伝った。
「彼女が僕の屋敷に来てしばらく経った頃ね。彼女の身体に異変が起きたんだ」
「異変?」
 燐は泣き顔のまま微笑む。
「僕らの子供を、授かったんだ」
「……そうか」
「嬉しかった。本当に嬉しくて嬉しくて……毎日毎日名前を考えた」
 二人で顔をつき合わせ、女の子だったらどうしよう、男の子だったらどうしよう……そうやって考えている時間が何より楽しかった。
「紫苑は最初とても複雑そうだったんだ。ひととあやかしの子供は禁忌、そうやって身をもって扱われてきたのが彼だから」
「…………」
「でも、僕は言った。僕らは決して子供を捨てない。そして」
 燐は親友の顔を思い浮かべるように目を閉じた。
「どうか、僕らの子供を可愛がってやって欲しいって」
 ――半妖でも幸せになれると、知って欲しい。
 「桔梗」はひどく穏やかな顔をして燐を見つめていた。その視線の先で、燐の表情が歪む。
「だけど」
 ――その子供は生まれることはなかった。
「今日と同じ、こんな天気の日だよ」
 燐の頬は雪に叩かれ、すっかり冷たくなっていた。
「僕の屋敷に賊が侵入したという知らせがあって、僕は宮中から慌てて戻った」
 そこで彼が見たものは……。
「……屋敷にいた使用人たちは、皆縛り上げられていた。そして」
 燐の喉が詰まる。
「……さくらは……」
「殺されていたのだな?」
 「桔梗」の静かな声が辺りを打った。
「…………」
 燐は頷く。
「……あれは、さくらを殺すための刺客だったんだよ。あやかしが都に住んでいることに耐えられない、そう思ったものがいたんだろうね。どこの手の者かは今でも分からない。でも、使用人たちは彼らの目的が分かっていて、あっさりと縛り上げられたんだ。わざわざ身を挺してあやかしを守ろうとするものなんて、いなかったんだ」
 彼女を守ってやれなかった……。脳裏に彼女の最期の言葉が浮かぶ。
 ――ごめんなさい……赤ちゃん、守れなかった。
「燐」
 「桔梗」の強い声が彼の耳に響いた。
「お前は私がさくらの二の舞を踏むのではないかと――ただでさえ敵の多い紫苑のことなのだから、と……そう考えたというわけだな?」
「…………」
 燐は頷いた。
 「桔梗」は冷たい笑みを刻む。
「安心しろ。私は強い。紫苑に守られなくとも……生きていける。私が紫苑を守る。それに」
 燐は続けられた言葉に慄然とした。
「私には都の人間を皆殺しにするほどの力がある」
 私や紫苑に仇なす者たちの巣窟なら、滅ぼすことに何の躊躇いもない。あっさりとそう言い放つ。
「だが、紫苑は殺生を嫌がる。無下にそのようなことはしない」
 「桔梗」はその氷の結晶のような瞳で、燐を見つめた。
「お前のさくらと私は違う。安心したか」
「……でも」
「私は、自分の身ひとつ守れぬ弱いあやかしではない」
「さくらは悪くない!」
 燐は身を起こした。
「元々彼女は都に降りてくるのは反対だった……それを無理に連れてきたのは僕。彼女を身篭らせたのも僕。全部僕のせいだ」
「――だからここで死にたい、と?」
 「桔梗」の声には呆れが含まれているようだった。
「お前はつくづく阿呆だな」
「え……?」
「さて、私はそろそろ消えることにしようか。紫苑が来るまでどれくらいあるかはわからないが、この山には野犬も住んでいような。食われてしまうかもしれぬぞ」
「あ、貴方は……?」
「言っただろう。自分の身は自分で守ると」
 「桔梗」は笑う。
「ただし、お前を助けるつもりはない。ここで冷たくなるのも食い千切られるのも自由だ。私は紫苑とともに帰る。埋葬くらいはしてやろう」
「…………」
「それとも――罪悪感を引き摺りながらおめおめと生き長らえることを選ぶか? どちらも無様には違いないが」
 その挑発的な調子の奥に、燐はもう一つの彼女の言葉を聞き取っていた。

 ――お前の愛しいさくらが、本当に望むのはどちらだ?

「私は興味深く見せてもらうことにしよう……」
 「桔梗」の体が淡く光り、みるみるうちに丈を縮めていく。目を見張る燐の前でその体は子供のものとなり――ぱたり、と雪の上に倒れ伏した。
「き、桔梗ちゃん」
 放ってはおけず、駆け寄って抱き上げる。彼女の長い睫毛がふるふると震え、ゆっくりと瞼が開いた。
「寒い……」
 つぶやく彼女の服装はといえば薄物一枚である。あちらの「桔梗」は寒さなど感じないのかもしれないが、これではあまりというものだ。燐は慌てて上掛けを羽織らせてやった。
「ねえ……ここ、どこ?」
「えっと」
「紫苑は? 紫苑はどこ?」
「…………」
 燐はふう、とため息をついた。きょろきょろと見回している桔梗に、燐はゆっくりと言う。
「ここはね、僕の恋人の――いや、妻のお墓。僕は、お墓参りに来たんだよ」
「……お墓?」
 表情を曇らせた桔梗は雪の上に座り直し、両手を合わせた。
「じゃあ、お祈りしなきゃ」
 ――死者のためには祈るものだって、紫苑がそう言っていたから。その小さな背中を見守りながら、燐は濃い灰色の空を見上げる。
「ああ……」
 ――僕は阿呆だ。
「燐さん」
 桔梗が振り向いた。
「どうして、死んじゃったの?」
「…………」
 澄んだ湖面のような瞳に、残酷な真実を教える気にはならなかった。もともとそのつもりで彼女を呼んだというのに……。それでも――もうひとりの「桔梗」に話したのだから、もういいのだ。
「僕が、守ってあげられなかったからだよ」
「守って……?」
「うん」
 罪の意識はきっと消えない。永遠に消えることはないだろう。それでも、僕は生きなくちゃいけない。
 ――貴方が無事でよかった。息を引き取る寸前、さくらはそう言った。だから……。
「帰ろうか」
 燐は立ち上がり、桔梗を抱き上げた。
「わ、私歩けます!」
「いいんだよ」
 彼女の体はひどく軽い。乗って来た馬の後ろに乗せ、燐はひらりと鞍にまたがった。ふと上空を見遣ると、どこか見覚えのある烏が舞っている。
「紫苑の式神、かな」
「あ、羽櫻さんだ」
 桔梗は空を見上げ、微笑んだ。
「じゃあ、紫苑が近くまで来てるのかもしれないね」
 燐はそう言って馬を歩ませ始めた。――ぽく、ぽく、ぽく。蹄の下で雪が溶けて行く。厚い雲に覆われていた空が、晴れ間を覗かせ始めていた。
 
 
  二
 
 迎えに来た紫苑と合流し、屋敷を焼け出された燐は彼の元へと身を寄せた。
 疲労の色の濃い桔梗を自室で寝かせ、紫苑は燐と共にとある部屋に座した。都でも雪が降ったようで、部屋の中央には火鉢が置かれている。
「結局、どういうことだったんだ」
 紫苑は不機嫌もあらわにそう言った。燐は困ったように微笑む。
「屋敷に火をつけたのは僕ではないよ」
「じゃあ、誰だ?」
「さあ……」
 彼が都に帰ってきたのを聞きつけた誰かが、嫌がらせのつもりでやったのだろう。ひとつ間違えば彼の命も、また近接する屋敷の者の命も危うくなるところだったのだから、無論腹立たしい。だがそれだけではなかった。
「何だか、すっきりしちゃった」
「憑き物の落ちたような顔をして……」
 紫苑はため息をついた。
「桔梗は一体何故あそこに?」
「僕が、呼んだんだと思う」
 燐は眼を軽く伏せた。色素の薄い虹彩の中に、赤く灯った炭の色が映る。
「あやかしがひとの中で生きることがどれだけ危険で、かなしいことなのか。聞いて欲しかったんだ」
「……話したのか」
 燐は無言で首を横に振った。
「彼女のもうひとつの人格の方には話したんだけれど」
「……やはり」
 紫苑は眉を寄せた。
「『彼女』が出てきたのか? 何故だ?」
「僕の声が聞こえたのは『彼女』の方だったそうだよ」
「…………」
「とても厳しいことを言われた。僕は阿呆だって」
 紫苑は少し困惑を浮かべて彼を見つめる。
「まあ、あいつはああいうやつだからな……」
「でも」
 燐は笑った。
「紫苑のことは好きなんだね、『彼女』」
「…………」
「結局のところ、『彼女』は僕を止めにきたんだと思う。紫苑じゃ間に合わなかっただろうから」
「……お前はやはり」
「そう」
 燐は頷いた。
「焼け落ちる屋敷からかろうじて抜け出して、本当に僕には何もなくなったと思った」
 胸を襲う虚無感。気がつくと比叡の山へと向かっていた。
「彼女の墓の側で死ぬつもりだったよ」
「お前は阿呆だ」
「うん」
 紫苑の決めつけにも燐は微笑むだけだ。
「僕は阿呆だね」
「……もう死ぬ気はないのか」
「ああ言うのって、一度機会を逃しちゃうともう駄目だね」
 茶化したように言いながら、燐は火鉢に手を翳す。
「だから、もう少し生きてみようと思う」
「…………」
「僕は、僕自身の身を守らないとね……」
 もう、彼を守ってくれるさくらはいないのだから。
「ところでお前」
 紫苑はふと気がついて言った。
「屋敷を失ってこれからどうする? この屋敷に住むか?」
「お邪魔虫みたいで嫌なんだけどなあ」
「……虫?」
「何でもない」
 燐はくすっと笑った。
「じゃあ、しばらくここに置いてもらってもいいかな」
「ああ」
「宮中にもちゃんと行ってみる。もしもう一度官位につくことができたら……橘家をちゃんと復興させたいんだ」
「しかし妻を娶る気はないのだろう?」
「それは紫苑も同じだよね」
 燐はあっさりと頷いた。
「僕は、有能な子供を養子にしてもいいと思っているよ。……紫苑こそどうするんだい? 御門家を断絶させるわけにはいかないだろう?」
「私は妻を娶っても無駄だ」
 紫苑はぽつりと呟いた。
「え?」
 聞き返す燐に、紫苑は無表情を保ち、言葉を紡ぐ。
「半妖は子孫を残す能力がない」
「…………」
「だから、妻を娶ることはない。必要もない」
「でも、紫苑」
「…………」
 燐の言葉など聞こえなかったふりをして、紫苑は立ち上がった。
 
 
  三
  
 桔梗の部屋を覗くと、彼女は気配に気付いたのかぱちりと眼を開けた。闇の中、水晶のようなきらめきが踊る。
「しおん……?」
「起こしたか。すまない」
「ううん」
 何か話したいことがあるのだろうか、唇にきゅっと力を込めて彼女は紫苑を見上げている。紫苑は彼女の側へと歩み寄った。
「どうした?」
「……今日、燐さんの奥さんのお墓に行ったんです」
「ああ」
「ちゃんと、お祈りしてきました」
「……偉いな」
 紫苑はその大きな手のひらで彼女の髪を撫でてやる。気持ち良さそうに眼を閉じながら、桔梗はつぶやいた。
「あんな山の中にまで、燐さんはお祈りしに行くんですね」
「…………」
「死ぬって、悲しい……」
 殺性の強い水龍族とも思えない言葉に、紫苑は優しく微笑んだ。
「そうだな」
「……何だか、寂しいです」
 縋るような眼差しで見つめられ、紫苑は少し怯む。
「紫苑」
 桔梗は無言で身を起こし、紫苑の胸にぎゅっと抱きついた。
「…………」
 外ではまた雪が降り始めていた。しんしんと雪が降り積もるうかすかな音と、互いの鼓動の音と。紫苑はそれに耳を傾ける。冷たい夜なのに、ここはとても暖かい。
 
 ――いつの間にか、桔梗はまた眠りに落ちたらしい。体を離そうとして思いとどまり、紫苑は桔梗とともに体を横たえた。暗がりの中で彼女の寝顔を見つめる。まだ幼い造形だが、ふっくらと艶やかな唇や長い銀糸の睫毛にふと女性らしさを感じ、紫苑は無理に眼を閉じて動悸を押さえ込む。
 燐が最後に呼びかけた言葉――いつまでも一人ぼっちで生きていくのは、寂しすぎるよ。
「寂しい……か」
 紫苑の声が届いたのか、桔梗がかすかに身を寄せてきた。仄かに甘い香りが鼻をくすぐる。柔らかな肢体は紫苑の腕の中で弛緩しきって、高い体温を彼に伝えていた。途方もない心地よさに包まれ、紫苑は徐々にまどろみへと誘われる。
 ――ふと気がついて、紫苑は愕然とした。今この腕の中にあるものが失われるとき感じる感情。それこそが、真の寂しさなのだと。