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燐の巻 第二章

  一

 橘家は由緒ある家柄である。代々式部省に務め、燐の父親である龍秀は式部大輔に任ぜられた。式部省の長官である式部卿は親王が任ぜられるのがしきたりであるため、次官とはいえ事実上の最高位である。彼らは紀伝道に通じた学者の家系であり、藤原氏が台頭してきた昨今とはいえ宮中における発言力は決して小さいものではなかった。燐自身、文章生として大学寮で紀伝道を学び並ぶもののないほど良い成績を収めた。父、龍秀亡き後は若くして式部大夫に任ぜられ、将来を嘱目されていたのだが――。
 紫苑はため息をついた。宮中に出仕して朝議の席に着いていたのだが、どうしてこうも殿上人たちは橘家を潰してしまおうとするのだろうか。確かに不幸続きで直系の血を引くものは燐しかいない。いや、燐がいれば十分ではないのか。しかし、自分が下手に弁護すれば彼の立場はさらに悪くなる。紫苑はじっと黙っていた。
 燐はこの場にいない。いない方が良いのか、いた方が良いのか――どちらにせよ辛い目を見ることだろう。それを思うと胸が痛んだ。
 摂政、藤原時雅がそんな紫苑をじっと見ている。側に控えて座している雅哉がそんな彼の耳元に何か囁いた。彼は重々しく頷く。
「各々方」
 時雅の低く通った声が場を打った。
「ここで今上にお考えを賜ろうと愚考するがいかがか」
 一瞬の沈黙の後、皆口々に同意を示す。
「いかがでございましょうか」
 御簾の前に居住まいをただし、時雅が内側に座す今上に尋ねる。
「橘家の処遇、いかが思し召されます」
「……橘家には、長男がいたであろう」
 澄んだ声が、静まり返った朝議の間に響いた。今上は御年十七歳。無論既に成人していると見なされる年齢ではあるが、それでも若過ぎる節があるのは否めない。未熟な正義感は時として人を傷付ける。――この時もまさにそうだった。
「彼は、陰陽博士と親交が深かったのではなかったか。朕は彼の意見が聞きたい」
「……ほう」
 時雅は頷き、紫苑にちらと視線を投げた。
「との仰せだが。御門殿、何か仰りたいことは?」
「……私めがこのような一大事に口を挟むのはいささか僭越かと」
 深く頭を垂れ、紫苑は静かに言う。
「そう言うな、紫苑」
 今上は重ねて言った。
「そなたは良く知っているのであろう? あの時のことを」
「…………」
 紫苑は体を堅くする。
「あの時朕はまだ幼かった……そなたの口から教えて欲しいのだ」
 その時、空の一角が一瞬赤く染まった。同時にぱん、と乾いた音が小さく響く。皆一斉に腰を上げた。
「…………」
 時雅の元へ末子、蓮が走りより何事か囁く。それを耳にした時雅は顔色を変え、紫苑を手招いた。
「橘の屋敷が燃えておるそうだ」
「……何ですって?」
 紫苑は思わず大声を上げた。――燐……!

  二

 御門家の屋敷と橘家の屋敷はかなり離れている。それでも、桔梗の耳には路傍で騒ぐひとびとの声が聞こえていた。側に控える小雪は厳しい顔をしている。桔梗は落ち着かない様子でそわそわとしていた。
「ねえ、何が起こっているの?」
 折しも、烏の姿をした羽櫻が飛び込んできた。小雪の耳元で何か嘴を動かして囁くような仕草をした後、またぱっと飛び去っていく。小雪の表情はさらに険しいものとなった。
「小雪さん?」
「……火事だそうです」
 桔梗の不安そうな様子に気付いたのだろう、彼女は少し表情を緩めた。
「紫苑さまはすぐにはお帰りになられないかもしれませんが、心静かにお待ち下さいませ」
「火事って、どこが? どうしてこんな騒ぎになっているの?」
「それは――」
 小雪は言葉に詰まった。
「紫苑は危なくないの?」
「それは、大丈夫だと思いますよ」
「…………」
 桔梗の水色の瞳が憂いを湛えて外を見遣る。
「紫苑……」

  三

 貴女と出会ったのは、雪深い比叡の山の中。気紛れに遠出したところ吹雪に見舞われ、もはや馬で駆けることもままならず、僕は轡を引いてどこか避難できる場所を探していた。
 ――はっきりと覚えているよ。貴女を初めて見たときのこと。真っ白な雪の中、そこだけが色づいていた。貴女はさくら色の髪をしていたから、とても目立っていたよ。
 馬のいななきに気がついて、振り向く。驚いた顔。大きく見開かれた瞳。
 一瞬は警戒したようだったけど、僕のあまりに情けない姿を見てすぐに手を差し伸べてくれたね。
「おひとりですか?」
「……ええ」
 馬の轡を貴女の手が受け取ってくれた。
「私の家にご案内します。このままでは凍え死んでしまうわ」
「でも」
 ――悲しいことだけど、僕の中にも警戒はあったのだ。あやかしの家に呼ばれていっていいものかどうか……。でも、それは貴女をひどく傷付ける考えのような気がしたから。そして、友人のことが思い浮かんだ。彼はいつだって冷静を装っている。でも本当は、ひと一倍傷つきやすい繊細な男だ。それを僕は良く知っているから、口に出したのは別のことだった。
「ご迷惑でしょう? ご家族は?」
「居りませんわ」
 そう言うと貴女は僕から目を逸らした。
「比叡の山寺の者の手にかかって――命を落としました」
「…………」
 あのとき、僕は正直凍死してもいいから貴女の前から消えたいと思った。僕が余程ひどい表情をしていたのか……貴女は気を遣うように笑って、首を横に振ったね。
「貴方のせいではないのだから、そんな顔をしないで」
「…………」
「遠慮せずにいらして下さいな」
「しかし」
「お代のことなら後ほどしっかり頂きます。心配なさらずとも、ね」
 冗談めかした口調は、あまりに優しかった。貴女の気遣いが胸に沁みて、何だか泣きたくなったのを覚えているよ。
 ――さくら。
 貴女にこの名前をつけたのはいつだっただろうね。本当の名前を教えてくれなかったから、あの後僕が勝手にそう呼んでいたのだっけ。
 ――さくら。
 この名前を気に入ってくれていたのかどうか、確かめる術はもうないけれど……でも僕が呼ぶたびに貴女は嬉しそうに頬を染めていたね。
 ――さくら。
 もうどれだけ呼んでも届かない。どうして、どうして、どうして、どうして……。
「さくら……」
 ――貴女の側に、ゆきたい。

  四

 紫苑が橘の屋敷の前に駆けつけたときには、既に中に入れる状態ではなかった。燃え盛る炎が冬空を舐めている。火の粉が時折ぱっと舞い上がって、野次馬の中から悲鳴が上がった。
「中から誰か出てきたか?!」
 紫苑は辺りにいた若者に問うた。
「いや……見ていません」
 彼の剣幕に気圧されるように、若者は首を横に振る。紫苑は唇を噛み締めた。
「……燐」
 中にいなかったのならいい。しかし……もし巻き込まれているとしたら。最悪――自ら火を放ったのだとしたら。いや、そんな馬鹿なことはしないはずだ。燐はそれほど弱い男ではない。紫苑は彼を信じている。
 紫苑は呪札に術をかけ、それを鳥形の式神にして屋敷の中へと飛ばした。念を込めて人の気配を探るが、特に何も感じられない。――ということは中には誰もいないということか。ほっと息をついたとき、紫苑の隣りに立ち並ぶ者の気配がした。振り向くと、遠野有平だった。
「燐……さま」
 力が抜けたようにがくりと座り込む。その顔色は蒼白だった。
「有平どの、お気を確かに」
「……み、御門どの」
 有平はかろうじて顔をあげた。
「わ、私が要らぬことを申したばかりに……!」
「落ち着かれよ。中には誰もおらぬ。無人だ」
「…………」
 有平は口元を喘がせ、やがて大きく息をついた。
「で、では燐さまはご無事で……?」
「居場所はわからぬが、無事だろう」
「……良かった」
 有平は涙を零した。
「本当に……良かった」
「有平どの」
 紫苑は控えめに問いかけた。
「先ほどの……要らぬこととは何です?」
「…………」
 有平は少し俯いたが、ぽつりぽつりと答えた。
「橘家が断絶の危機にあると聞いたので、燐さまにお知らせ申し上げたのです。自ら朝議の場に出て抗議していただきたいと思い……」
「……そうか」
 紫苑はため息をついた。彼は敢えて燐には言わなかったのだが――無論有平に悪気はない。彼の気持ちも理解できる。しかし、燐にとっては打撃だっただろう。三年前、愛するものを奪われると同時に京での居場所も失った。そして彼は留学との明目で遠く唐の国へと追い払われ……ようやく帰ってくることが出来たと思えば、自らの血筋が断絶の危機に見舞われていたのである。
 ――燐が何の罪を犯したか。紫苑は声を大にして叫びたい。
 彼がしたこと。それは愛したこと――あやかしを愛したこと。それだけだった。