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燐の巻 第三章

  一
 
 屋敷に戻った紫苑を出迎えたのは、蒼い顔をした小雪だった。
「どうした?」
 胸騒ぎを抑えながら紫苑が尋ねると、
「桔梗様が……どこにもいらっしゃいません」
 小雪の唇が震える。
「何?」
「少しの間目を離した間に、忽然と」
「消えたというのか?!」
「はい」
 紫苑は小雪を軽く押し退け、桔梗の部屋に向かった。確かに人気はない。だが、文机の上に置かれた紙にふと眼が止まった。
 ――呼ばれた。山へ行く。
 それだけの文字が、流れるような筆跡で書かれている。
「これは誰が書いたものだ?」
 後に続いてきた小雪に尋ねる。小雪は首を左右に振った。
「存じません。桔梗様がいらっしゃらなくなって、この紙だけぽつんと置かれていました」
「そうか……」
 桔梗の筆跡とは似ても似つかない。だが、これを「桔梗」が書いたとすれば……。
「山……比叡か」
 山といえば、比叡山を指す。都の北西、鬼門の方角に位置し、都を災いから守る役目を果たす山だ。
 紫苑は小雪に問いかけた。
「誰か、屋敷を訪ねてきたものはいたか?」
「いいえ」
 即答した彼女に、紫苑はあることを確信した。
「出掛ける。馬を出してくれ」
「はい」
 小雪の後ろ姿を見送り、紫苑は深々とため息をつく。「桔梗」がどうして「呼ばれた」と書き残したのかは分からない。だが、彼女を呼んだと思われる相手なら分かっていた。
 燐。彼はどうして「桔梗」を――水龍の御子を呼んだのだろう。一体何を望んでいるのだろう。
「…………」
 脳裏に閃く可能性を打ち消すように、紫苑は髪をぎゅっと束ね、出掛ける用意をした。
 
 
  二
 
「それはできません」
「どうして」
 貴女を困らせていることなんて百も承知だった。
「山を降りて。僕の屋敷に来て」
 ――愚かだったと今なら分かる。貴女の危惧は正しかったのだから。
「ここに通っていただくわけには行かないの? 遠過ぎる?」
 僕はあの頃毎夜のように貴女の元へ――比叡の山深くにある貴女の庵へと通っていたね。あの時、出逢って数ヶ月は経っていた。
 確かに都からは遠かった。でも、そんなことが理由じゃなくて。
「ずっと側にいて欲しいんだ」
「…………」
 貴女は少し頬を染め、でも困ったように微笑んでいた。
 貴女はとても優しかった。豊かな自然に囲まれて育ってきたせいか、繊細な感受性と大らかな包容力を同時に持ち合わせていて、だから貴女の側はとても居心地が良かったんだ。
 他人の眼ばかりを気にして競い合うことしか知らない宮中の者たちよりも、貴女はずっと気品があった。半妖である僕の友人が口さがなく貶められていることを聞いて、貴女はとても哀しそうだったね。
 そういえば、貴女は一度紫苑に会っている。貴女が山を降りる決意をする少し前、僕らは三人で花見をした。貴女の庵の近く、そう、あの峠。貴女の髪や眼と同じ色をした花びらが、ひらひらと舞い散って……紫苑は眩しそうに僕らを見つめていた。
 彼は貴女が山を降りることにはあまり賛成していなかった。身をもってあやかしへの風当たりの強さを知っていたからだろう。僕もそれは知っていた。いや、知っていたつもりだった。それでも僕は貴女を守れると思っていた。誰にも貴女を傷付けさせはしないと。
 ――傲慢だったね。
「儚いな」
 花びらを見つめて言った僕に、貴女は笑って首を左右に振った。
「また、来年も咲きますわ」
 優しい眼差しで木々を見つめ、
「花を落として葉をつけ、実をならせて……命は続いていく」
「そうだな」
 紫苑は酒盃を重ねながら、顔色一つ変えずに頷いていた。
「たとえ私たちの目には見えなくとも、生きていることには変わりない」
「ひとは目に見えるものにとらわれがちだね。気をつけなきゃ」
 ――本当に儚かったのは、貴女の方だったのに。
 
 ああ、僕は帰ってくるべきじゃなかった。ずっと唐にいれば良かった。この国には、貴女との思い出が溢れている。部屋にも、屋敷にも、街にも、山にも、風にも、空にも、全て。貴女と重ねた記憶が僕を苛むんだ。
 それでいて、僕は探している。貴女との思い出を、一つ残らず集めようとしている――それが、僕を殺すことになろうとも。
 
 
  三
 
 さくらの住んでいた庵のあった場所を、燐の体は覚えていた。庵は跡形も無く、すっかり荒れ果てていたがそれでもなお、風景は当時の名残をとどめている。
 粉雪がはらはらと舞い散っていた。
 燐は馬を降り、冷たい土の上に体を横たえた。灰色の空から、白い雪。まるで花びらにも似た。この冷たい土の下、さくらがいる。彼女の亡骸を運んだ日のことを思い出し、燐の眦を涙が伝った。
 ――もう、何もない。
 父母はとうの昔に死んでいる。姉妹もまた、流行り病で命を落とした。そして、
「貴女はいない……」
 ふと、旧友の顔を思い出す。紫苑にも家族ができたようだった。純粋な、水晶のような眼をした少女。彼女が水龍族だと気付いたときは慄然としたが、彼女の言動を見ていると本当にただ幼い子供で――そして紫苑をとても慕っていて。親子のようで微笑ましかった。もう、紫苑は独りではない。ただ、彼らの行く末は気になるところではあるのだが……。
「できれば、あの子に」
 桔梗、と言っただろうか。あの水龍の子供には、
「僕らのこと……知って欲しかったな」
 ひとりでも多くさくらのことを覚えていて欲しい、それだけのことなのかもしれない。それでもひととあやかしの間に育まれた愛が辿った悲劇は、決して彼らと無関係ではないはずだ。――桔梗が、紫苑を想うのならば。
「紫苑は知っているはずなのにね……」
 それでも紫苑は彼女を手元に置こうと決めたのだ。彼らの悲惨な末路を見届けていながら。
「何故なんだろう……」
 少しずつ、手足の感覚がなくなってくる。どこか柔らかな綿の上を浮遊するような錯覚を覚え、燐は眼を閉じた。その睫毛の上にも雪が降り積もる。少しずつ、雪は大粒になってきていた。――このまま大地に埋まってしまいたい。
「もう、疲れたな……」
 燐は大きく息を吸い込んだ、そのとき。
「逝くのは少し待て」
 涼やかな声が空間を震わせた。
 燐は眼を開け、声の方角を探る。彼の右方、葉を落とした木の太い枝の上。雪と見紛うほど白くすらりと伸びた足がぶらぶらと宙を蹴っていた。
「誰……?」
「私を呼んだのだろう?」
 一瞬の後、燐は頭上から彼女に逆さまに見下ろされていた。長い銀髪が、彼の凍えた頬に落ちかかってくる。冷たい瞳は、まるで雪の結晶のようだ。
「正確には私ではなく、もう一人の『私』だが……『彼女』にはお前の呼びかけに応えるほどの力はないからな」
「え?」
 燐は瞬きを繰り返す。そのあやかしは静かに微笑んだ。
 燐ははたと気付いた。彼女は水龍族。絶滅したはずの。そして現存する最後の水龍族とは……。
「……桔梗……ちゃん?」
「そう」
 「桔梗」は艶然と微笑んだ。
「姿もこころも違うが、確かに私は『桔梗』だ。そして」
 長い指先が自身の胸元を滑る。
「水龍族最後の『御子』――」
「みこ……?」
「お前の『声』に呼ばれたのだ。あまりにも強い『声』だったものだから」
 燐は呆然と「彼女」を見上げ、問いかける。
「どうして貴女は姿形を変えているの? それに……人格も違うみたいだし」
「そんなことは後で紫苑が説明してくれる。間に合えば、な」
「間に合う?」
「彼は、お前を逝かせたくないようだ」
「…………」
 燐は眼を伏せた。「桔梗」は彼の動揺には気付かぬように、
「私は違う。お前が死のうが死ぬまいが、そんなことは知らない。お前の望みを妨げるだけの理由など私にはないからな。ただ」
 「彼女」の言葉は淡々として、なおかつ厳しさを秘めていた。
「お前は『私』を呼んだ。『私』に何らかの話を聞かせたいと望んだ。それは現世に対する心残りとも言えるだろう。『私』はそれを解消してやるつもりだ。それが終わったなら」
 「桔梗」は薄く微笑んだ。優しくもなく、それでいて嘲っているわけでもない。何ともいえない笑みだった。
「好きにするがいいさ」
「…………」
 燐は暫く黙然と「彼女」の顔を見ていた。やがて意を決したように言葉を発する。
「僕の妻は、あやかしだった。――そして」
 彼の血の気の失せた喉元がごくりと動いた。
 
「人間に殺されたんだ……」