instagram

燐の巻 第一章

  一

 その屋敷は、主が住まう様子もなくひっそりと静まり返っていた。東大路に面した大きな屋敷である。放っておけば荒れ放題になるはずのところだが、何故かここはそうなっていない。
 年の瀬も押し詰まった頃の夕刻、その門の前に一台の牛車が止まり、中から人影が降り立った。御門紫苑である。
「…………」
 どこか懐かしいような、それでいて哀しいような表情で屋敷をしばらく見つめていた彼は、やがて振り向いて牛車の中に声を掛けた。
「桔梗」
「はい」
「出てきていいぞ」
 銀髪が宙を舞い、牛車の中から一人の少女が降り立った。幼女の装いをした彼女は、実はあやかしである。だが、陰陽師である紫苑の側にいることがさいわいして、彼女はまるで式神であるかのようにひとびとの目に映った。
「ここは、どなたのお屋敷ですか?」
「…………」
 紫苑は口を噤んだまま桔梗の背を軽く押す。踏みしめられた枯葉がかさかさと音を立てた。

  二

 中庭に面した奥の間に進んだ紫苑は燭に火を灯した。まだ闇には間があるが、手元で作業をするには不自由である。
「…………」
 きょとんとした表情で見守る桔梗をよそに、紫苑は取り出した符を人型に切った。口中で呪を唱え、ふっと息を吹きかける。人型の紙はふうわりと舞い上がり、庭に落ちてひとになった。簡素な平服を纏った、従者風の男。
「わあ」
 桔梗が感嘆の声を上げる。口元に小さく笑みを浮かべた紫苑が小声で何ごとか告げると、その男はすうっと虚空に溶け消えた。
「桔梗」
「はい」
 男の行方を追ってきょろきょろしていた桔梗に、紫苑は声を掛けた。
「今夜、この屋敷の主が帰ってくる」
「……はい」
「その男は、私の友達だ」
「ともだち?」
 聞きなれない言葉に桔梗は首をかしげる。紫苑は苦笑した。
「ああ。私の唯一の友達だ」
 紫苑は彼女に向き直った。
「お前をあの屋敷に置いてくるのが不安だったから連れてきたが、いくらあの男でもいきなりお前を見れば驚く。おいおい話していくつもりではあるが、とりあえず今夜は帰京祝いが先だ。だから」
「だから?」
「お前は別室に」
「あれ?」
 突然、中庭に人影が現れた。
「紫苑、もう来ていたのか、早いなあ。まだ何のもてなしの用意もしていないよ?」
「……紫苑? 大丈夫ですか?」
 突然床に突っ伏してしまった紫苑を心配するように、桔梗は小さな手のひらで彼の背中を撫でた。
「おや」
 中庭の男は目を瞬かせ、桔梗をじいっと見つめた。物腰の柔らかな、というよりもどこか力の抜けた、温厚そうな好青年である。年は紫苑と同じくらいであろう。髪も眼も、色素が薄い。
「水龍、かな?」
 ぽつり、と呟いた瞬間、彼の眼に一瞬だけ凄みのある光が射した。桔梗が驚く間もなく、その光はすぐに消えてしまう。
「はじめまして」
 男は桔梗の方に右手を差し出して微笑んだ。
(たちばな)(りん)といいます。よろしくね」
「よ、よろしく……」
 やわやわと握り返すと、燐はますます笑み崩れた。
「水龍にもこんな可愛い女の子がいるんだ。紫苑、良く探してきたなあ。てっきりもう絶滅してるもんだと」
「燐!!」
 紫苑ががばっと体を起こした。
「お、お前何故急に」
「急にって。今晩って文で知らせただろう?」
「しかし、宮中に参内するとかしてもっと遅くなるものだと」
「宮中?」
 燐はひょい、と肩を竦めた。
「あんなところに用はないよ。まあそんなことはともかく」
 燐は再び笑みを浮かべた。
「紫苑、この子どこから見つけてきたの?」
 桔梗の銀髪をふわふわと撫でながら尋ねる。
「見つけてきた、というか、その……」
「うん?」
「拾った、というか」
「拾った?」
「後で話す」
 紫苑はそう言うと、手を高く打ち鳴らした。するすると簾が巻き上がり、そこから何人かの女房たちが幾皿も料理を運んでくる。
「家神たちを借りたぞ」
「うん」
「おいしそうですね!」
 嬉しそうに笑う桔梗の髪を紫苑はくせのように撫で、そして微笑んだ。
「…………」
 まるで仲睦まじい親子のような様子のふたりを見て、燐は瞬きを繰り返していた。

  三

 ――全くいつの間に呑んだのだか。紫苑は桔梗の側に転がる甘酒の杯を見て眉を顰めた。当の桔梗は満腹感と酔いのせいだろう、すっかり寝入ってしまっている。すでに子の刻に近付いているから眠くなって当然かもしれない。
「冷えるぞ」
 紫苑は独り言のようにつぶやくと、彼女の体の上から自分の羽織っていた単の着物を掛けた。
「どうしたの、紫苑」
 燐が杯の端を舌で舐めるようにしながら悪戯っぽく問い掛ける。
「僕のいない間に何があったわけ? どうしていきなり父親になってるのさ」
「父親になどなっていない」
「じゃあ何?」
「…………」
 紫苑は少し首を傾げて考えたが、やがてぽつりと呟いた。
「保護者?」
「最強のあやかしに保護者なんているのかなあ」
「しかし」
 燐の瞳に投げられたのは思いのほか強い眼差しだった。
「あいつはひとりなのだ」
「…………」
 燐はため息をついた。
「だから、拾ったの?」
「…………」
「放っておけなかった?」
 紫苑は曖昧に頷いた。
「敢えて理由をつけるなら、そういうことになるのだろうな」
「でも危険だなあ。水龍といえばかつての朝敵だよ? 他人に見つかったらただじゃすまない」
「わかっている」
「本当に?」
 燐の目が哀しみと怒りを宿した。
「君は全て見ていたはずだ。僕と彼女の辿った運命を」
「…………」
「それでもいいと、そう思うの? それだけの覚悟があるの?」
「…………」
 紫苑は微笑んだ。暖かな、それでいて切なげな笑み。燐は詰問口調になっていたことに気付き、口を噤む。
「もう、始まっているのだ」
 そう切り出すと、紫苑は訥々と語った。桔梗との出会い。もう一人の「桔梗」。青龍を宿すその魂。藤原兄弟とのこと。燐はただ黙って耳を傾ける。
「……きっともうすべては始まっている」
 紫苑はつぶやいた。
「『桔梗』の語る運命が何かは知らない……だが、きっと」
 燐はゆっくりと頷いた。
「君と桔梗ちゃんは出会ってしまった……それは変えようのない事実なんだね」
「ああ……」
「僕と彼女が出会ってしまったように……」
 燐の浮かべた微笑みの中に宿るもの。それはまるで、諦念だった。

  四

 翌日の深夜、橘邸にひとりの男がやってきた。紫苑と桔梗は既に帰宅している。紫苑が貸してくれた式神と共に屋敷の片付けをしていた燐は、突然の来客に眼を見開いた。
「有平」
 遠野有平という名のこの男は、燐の乳兄弟である。
「燐さま」
 有平は小柄な体をすくめるようにしながら、彼の前に座った。
「どうかしたの?」
「まずは無事のご帰京、おめでとうございます」
「ありがとう」
「実は、その、申し上げにくきことがあるのですが」
「何?」
 有平は観念したかのように一息で言った。
「宮中にて……橘家を取り潰そうという動きがあるのです」
「何だって……?!」
 燐はさすがに色を失った。
 彼の父母はもうこの世にいない。妹がふたりいたが、どちらも若くして死んでしまった。確かに今橘家直系の血をひくものは燐しかいないが――いや、彼がいるにも関らず取り潰そうというのである。
「それは……やっぱり」
「ええ」
 有平は痛ましそうに目を伏せながら言った。
「あの方のことが……」
「…………」
 燐はすうっと無表情になった。
「……そう」
「燐様?」
「別にいいよ」
 どこか深く暗い場所から浮かび上がってきたかのような、彼の笑み。
「僕にはもう失うものなんてない」
「燐さま!」
「そうだろ? 有平」
「そんな」
「あの時全部終わったんだよ、僕は……」
「そんなことを仰らないで下さい、私は」
「もういいんだ、有平」
 燐は穏やかに笑った。
「僕は帰ってくるべきじゃなかった」
「私は!」
 有平の瞳から涙が一筋零れる。
「私は燐様にお会いしとうございました」
「僕も君が懐かしかったよ」
 燐は微笑む。
「紫苑にも会いたかったしね」
 ――彼の巻き込まれた運命を見届けたくはあるのだけれど……。
「御門様は反対しておられます。橘家は由緒ある名家。取り潰すことは先人たちに申し訳が立たぬと」
「彼らしいね」
 あくまで私情を見せることなく燐を庇おうというのだろう。あのときと同じだ。――あのときと……。
「ありがとう、有平」
 燐はすっと立ち上がった。
「知らせてくれて助かったよ」
「明日にでも御自ら出仕なされてはいかがですか」
「針の筵に座るのは嫌だなあ」
 冗談めかして燐は笑った。
「ま、とりあえず今日は帰りなよ。もう遅いしね」
 有平は唇をかみ締めた。本当はもっと言いたいことがあるのだろう。しかし彼の燐への遠慮がそうはさせない。
「……夜分遅くに失礼致しました」
「ううん、君の好意はわかっているよ」
 取り潰されかねない橘家を訪れれば、遠野家にまで類を及ぼしかねない。それでも訪ねてきてくれた有平の想いを――自分は無駄にするかもしれない。
「おやすみ、有平」
「……おやすみなさいませ」
 彼を戸口まで送り届けて、燐は夜空を見上げる。厚い雲に覆われた寒空には、星の一つさえ見せる優しさもなかった。