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桔梗の巻 第四章

  一

 藤原雅哉邸の一角。簾からは夕日が薄く何層にもなって差し込んでいる。
 雅哉は彼の異母弟、伴雅と向き合って座っていた。雅哉には幾人もの異母兄弟がいるが、同じ母親から生まれた者は弟の蓮しかいない。蓮は今帝の側仕えの蔵人(くろうど)として宮中に参内し、雅哉の邸には居ない。
 ――さて、伴雅である。
「兄さま」
 低い声で囁くように伴雅は言った。
「いつまであの人妖(ばけもの)を宮中にのさばらせておくおつもりですか」
「どういうことだ?」
 雅哉は緩く足を組み、扇で自らに風を送る。
「お分かりのはずですが」
 伴雅は底冷えのする目つきで雅哉を睨みつけた。時雅の北の方の息子である雅哉に比べ、妾腹である伴雅は冷遇を受けている。能力はあるが少々狭量だ、と父は伴雅を評していた。
「しかし」
 雅哉は扇をぱちん、と閉じた。
「彼への帝の信頼は厚いであろうが」
「今上は誑かされておいでなのです」
「言葉を慎め、伴雅」
「…………」
 伴雅は五位。紫苑よりも位が下である。おそらくはそのことが伴雅の紫苑に対する敵意をかきたてているのだろう。
「私も彼を好くわけではない」
 宥めるように雅哉は言った。
「お前の気持ちも良くわかるのだよ。ひとである父親も誰なのかはわからず、母親はあやかしという。御門家を名乗ることができるのも養子に入ったおかげだ」
「蘇芳殿も少々短慮でした」
「そうかもしれぬ」
 先代の御門家当主、蘇芳は既に隠居の身である。決して紫苑と折り合いは良くない。
「しかし、だからといってどうする? 彼を宮中から追い出せとでも言うのか。都を誰が妖異から守るのだ」
「陰陽寮には他にも陰陽師たちがおります」
 雅哉はゆっくりと首を横に振った。
「彼らが束になってかかっても彼には勝てまい」
 彼は意外と冷静に紫苑を評価している。ただ毛嫌いするだけの他の公卿たちとは異なっていた。
「馬鹿なことを考えるのはやめるのだな。彼に何か落ち度があれば……考えても良いが」
「……分かりました」
 伴雅は低く呟いた。
「彼の監視は怠りません」
「…………」
 ――伴雅の放った忍の存在など、紫苑は気がついているかもしれない。
 雅哉は紫苑を敵に回したくはなかった。彼のことは好きではないし、半妖という存在を受け入れるつもりもない。だが、都にとって紫苑は必要な人材だ。無駄に敵視するよりは味方に取り込んだ方が良いだろう。
 雅哉は再び扇を開く。伴雅を観察しながら、彼はそれで自らの口元を遮った。

  二

 長い髪をきゅっと高く結び、背中に垂らす。つややかな黒髪はそっと手で触れてみたくなるほど綺麗だ。白い狩衣の要所を縫いとめる紫の糸は、術で強化されているらしい。手首の数珠は護符で、その袖口には呪符が何枚か入れられている。腰にさしてある小刀も普通の刃ではなく、特別に鍛え上げられたものであった。
 桔梗は支度を進める紫苑の側に座りこんで、ぼうっと彼を見上げていた。ひとともあやかしとも違う匂いのする彼の隣りは、とても居心地が良かった。隙のない所作、鋭いがどこかに優しさを宿す眼光……。
「桔梗」
「は、はい!」
 不意に名前を呼ばれて飛び上がる。紫苑はいつの間にか支度を終え、桔梗をまじまじと見つめていた。
「お前、本当に行く気なのか」
 五条橋のもののけを退治しに行くという紫苑に、無理やり同行を頼み込んだのが一刻ほど前のこと。はじめは反対していた紫苑も最後は折れたのだが、それでもどこか心配そうである。
「行きます」
 ぐっと唇を噛み締めて頷くと、紫苑はやれやれ、と言った様子で苦笑を浮かべた。
「大したもののけでなければ良いのだがな。いざとなればちゃんと逃げるのだぞ。戦えとは言わぬからな」
「は……はい」
 桔梗は頷く。
 紫苑は緊張した面持ちの桔梗を見つめた。――彼女は間違いなく水龍族である。水龍といえばあやかしの中でも最強の妖力を誇る一族で、その殺性は非常に強く、自分に刃向う者を殺すことに罪悪感を持たない。逆に自分の味方は命を懸けて守ろうとする、そのような一族であったといわれている。桔梗は本当にそんなあやかしなのだろうか? 紫苑は自問する。――その白く細い手で、本当に誰かを傷つけることができるのだろうか?
「……紫苑?」
 さらり、と銀髪が零れた。
 紫苑は首を横に振って彼女から眼をそらす。――たとえば彼女の手が血に汚れても、私はちゃんとその手を取ってやろう、そう思った。一族からはぐれ、たったひとりで生きていかねばならぬ桔梗の身の上は、どこか自分と重なって見える。
「先に飯だ。その後行く」
 紫苑はそう告げて菊を呼び出した。いつもの通りどこからともなく現れた菊は、首をかしげて紫苑を見る。
「桔梗さまはこのままのご装束でよろしいのですか? あまり動くには適さないと存じますが……」
「何?」
 紫苑は桔梗を見た。桔梗の大きな青い目が紫苑をとらえる。
「……何を着せれば良い?」
 菊に問うと、彼女はふわりと微笑んだ。
「菊にお任せ下さいませ」
「ああ、任せる」
 紫苑は照れ隠しのように、意味もなく重々しく頷いた。

  三

 それから一刻ほど後。五条通を歩む三つの人影があった。紫苑と桔梗、それに式神である。この式神は菊とも藤野とも違い、名を(ほむら)という。その名の通り赤がかった髪と瞳を持つ青年で、まとう狩衣まで赤い。紫苑に流れるあやかしの属性は火。その力により召還した式神だと桔梗は聞いた。焔は桔梗を見ない。というよりも、周りの事物に対して一切関心がないようだった。そういえば声も聞いていない。
「……桔梗」
 突然低い声が振ってきて、桔梗は顔を上げた。紫苑の仏頂面が眼に入る。
「歩きにくいのだが」
「……すみません」
 謝ってみるものの歩きやすくしてやるつもりもないようで、桔梗はしがみついていた紫苑の腕にさらに体重を預けた。
「夜目が利かぬわけでもあるまい?」
「そうですけど……」
 桔梗は目を伏せた。
「でも、寒いですし」
 今の桔梗は童形の少年のような服装をしている。銀髪も頭頂部で一つにまとめて背中に垂らしていた。確かに軽装だから、少々寒いかもしれない。
「だから家にいろと……」
「紫苑は暖かいですね」
 皆まで聞かず、桔梗は見上げてにっこりと微笑んだ。
「最初に私を拾ってくれたときも、暖かかった」
「……そうか」
 紫苑はわざとらしくそっけない返事を返し、宵闇の向こうを見つめた。五条橋は近い。
 ――りん、
 と鈴が鳴った。小さな音だったが、それは闇を震わせ、彼らの足を止める。
「紫苑さま」
 焔が紫苑を呼ぶ。彼が言葉を口にするのは初めてのことだ。
「ああ」
 紫苑は顔を引き締め、桔梗を庇うように袖の中に入れた。
「桔梗。黙ってしがみついていろ」
「はい」
 桔梗は唇を引き結んで紫苑の腕に身を預けた。紫苑の心音が心地よい。
 ――りん、
 さらに鈴の音。先ほどより少し大きい。
 ――りん、
 徐々に近づいてくる。
 紫苑は桔梗を抱いていない方の腕の袖をばっと翻し、顔の前で印を結んだ。
「…………」
 桔梗には意味不明な言葉が彼の唇から紡がれる。訥々とした中にも抑揚をつけて呪を唱える声は、とても綺麗だと思った。
「…………?!」
 紫苑が不意に桔梗を抱えたままうずくまる。途端、熱風が彼らに吹き付けた。
「きゃ……、」
 思わず漏れそうになった声は紫苑の手に遮られたが、桔梗は大きく眼を見開いてその光景を眺めた。それは、焔が一匹の鳥に――伝説の神獣、朱雀に変化する瞬間。闇を焦がして炎を纏うその姿は、神々しく、雄々しい。
 ――りん、
 熱と炎に包まれた中、鈴の音だけが大きく耳に届いて、桔梗はぞっとする。
「桔梗?」
 指先が細かく震えていることに気付いたのか、紫苑が声をかけた。
「大丈夫です」
 桔梗は答えて紫苑にしがみついた。紫苑は黙って彼女を抱えて立ち上がり、橋のたもとへと歩み始める。
「…………」
 袖口から取り出した呪符に念を込め、紫苑は橋の欄干四方へと飛ばした。紫苑の頭よりも少し高いほどの位置で呪符はぴたりと静止し、かっと輝く。
 ――りん、
 音が少し変化した。
「橋に結界を張った。もうここからは出られぬ」
 紫苑は誰にともなくそうつぶやいた。
「しかし……正体が見えぬな」
 上空に静止していた朱雀が羽ばたき、舞い降りてくる。紫苑の唱える呪に呼応しつつ軽やかに動き、朱雀は身を隠しているもののけを探した。
 ――りん、
 また、鈴の音。紫苑は眼を見開いた。
「朱雀!!」
 焦りをにじませた、今まで聞いたこともないような大声。
 朱雀が橋の表面に急降下してくる。皮膚がざわめくような瘴気を感じ、桔梗が身をすくませたその瞬間――、ごう、と強風が辺りを薙ぎ、紫苑と桔梗を吹き飛ばした。紫苑の手が桔梗から離れる。
「桔梗!!」
 紫苑の声――まるで悲鳴のような。
 桔梗の体がふっと軽くなり、そしてそれは落下を始めた。黒い川面に向かい、真っ直ぐに。……そのとき桔梗の目に映ったのは、女……。固く鈴を握り締めた、女。もう片方の手には……髪の長い、女の……、首?
 桔梗の頭から血の気が引く。首を抱えた女が、裂けた口でにっと笑い――桔梗の頭の中で何かが弾けた。