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桔梗の巻 第六章

  一

 桔梗が眼を覚ましたとき、既に夜明けが近かった。
「……あれ?」
 身を起こして首を軽く振ってみる。銀髪がぱらぱらと頬にかかった。
「私……」
 ――そうだ。私、あの時川に落ちて……落ちて、その後どうなったんだろう……。
「紫苑……?」
 辺りを見回した視線がぴたりと止まる。彼女の眠っていた寝具のすぐ側、壁にもたれかかるようにして紫苑が眠っていた。結った髪も解かず、服も昨夜のままだ。――ずっとここに居てくれたのだろうか。桔梗の側で、一晩中見守って……。式神に任せることもせず、紫苑自ら彼女の傍らについていてくれたのだろうか。
「紫苑」
 そっとつぶやいて、桔梗は紫苑の俯いた顔に手を伸ばす。指先が触れるか触れないかの距離まで近づいたとき、紫苑が小さく身じろいだ。はっと桔梗が手を引っ込める。
 紫苑の紫電の瞳が開いた。
「桔梗?」
 紫苑は身を起こして桔梗の肩に触れる。
「大丈夫か?」
「はい!」
 心配そうに尋ねる彼に、桔梗はぶんぶんと首を縦に振って頷いた。
「でも、あの」
 桔梗は口ごもる。
「私……昨日のことあんまり覚えてなくて」
「…………」
 紫苑は黙って桔梗を見返した。

 ――あの後、「桔梗」はあっさりと身体の支配権を手放した。まだ時期ではない、という言葉を残して。
 川に落ちたはずなのに濡れもしていない体を――そしてあっという間に幼い少女となった体を抱きとめ、紫苑は暫し黙然としていた。
 ――運命など信じない。「桔梗」にはそう言い放ったが、実のところ気にならないわけではなかった。桔梗と出会ったときの不思議な体験。菅野の警告めいた星見。そして、「桔梗」――私には貴方を殺すことができる。そう聞いても自分は動揺しなかった。むしろ、それならそれでいいとさえ思った。私の居場所はこの世界にはないのだから。だが、それは桔梗も同じかもしれない。そう――私たちはきっと、良く似ている。

「紫苑?」
 間近で覗き込まれて紫苑はどきりとした。昨夜の柔らかな唇の感触が蘇り、さっと顔に朱が指す。
「どうしたんですか?」
「いや……」
 紫苑はやんわりと首を横に振った。桔梗が昨夜のことを覚えていないのなら、わざわざ教えるまでもない。
 紫苑は言葉を選んだ。
「昨夜お前が川に落ちて、もののけは、その……私が退治して」
「紫苑が私を助けてくれたの?」
 桔梗の青い瞳がきらきらと輝いた。
「そ……そうだな」
 自分でも下手くそな嘘だと思ったが、桔梗はあっさりと信じたらしい。
「ありがとう、紫苑」
 桔梗はそう言って微笑んだ――「桔梗」と同じ微笑だった。

  二

 自分の部屋に戻り、紫苑は昨晩を思い出す。――眠り込んでいる桔梗を抱えて帰宅する途中、焔が言ったのだ。
「そのあやかし、ふつうのものではありませぬ」
「どういうことだ?」
 紫苑が振り向くと、焔はその無表情な顔に僅かな緊張を浮かべていた。
「先ほどの『彼女』の妖力の波動に、私は覚えがあります」
「何だと?」
 紫苑は足を止めた。
 焔は――朱雀は、最強の霊獣である四聖獣の一である。
 朱雀。青龍。白虎。玄武。それぞれが火族、水族、風族、地族の守護獣であるとされている。
 己にふさわしいと認める者による召還にしか応えることのない霊獣たちで、大抵の人間たちは伝説だと思っているし、あやかしもそれは同じだろう。
 だが、彼らは確かに実在する。現実に、朱雀は紫苑を主と選んだのだから。
 朱雀――焔はうなずいた。
「『彼女』の波動は、青龍のものです」
「何だって……?」
 紫苑は眉を寄せた。
「青龍の?」
「ええ」
 焔は頷いた。
「恐らくこのあやかしは、その魂に青龍を宿している」
「…………」
 紫苑は口をつぐんだ。――そんなことがあり得るのだろうか。魂に霊獣を宿すなどと、そのようなことが。
 焔は彼の疑問を悟ったのか、淡々とした口調で説明した。
「水龍は、青龍とのつながりが深いのです……」
 ――元々水龍は謎の多いあやかしであった。だが、ほぼ絶滅してしまったと思われる今ではそれももはや知る由もないことである。
「彼らの中には、『御子』と呼ばれる個体が生まれることがある」
「……『御子』?」
 それは、紫苑も初耳だった。
「圧倒的な妖力を持ち、一族を統率する次代の長となるあやかしです」
「それが、青龍を宿すのか」
「いえ」
 焔は首を横に振った。
「今までにそんな例はない」
 青龍は四聖獣の中でも特に力の強い霊獣である。その霊力を制御できるあやかしなど、今までいなかった。
「青龍は……常に誰に属することもなかったのですが」
 しかしあの波動は青龍のものだ、と焔は言った。紫苑はじっと考え込む。もし焔が言うことが本当だとして――それではあの桔梗が水龍の「御子」だということだろうか? 一族が滅ぼされた後も「御子」である彼女だけが死を免れたということか? ――そして、私を待っていたのか?
 腕の中の桔梗をぎゅっと抱きしめた。
「『運命』だと言ったな」
 紫苑は小さく囁いた。
「それは私たちを苦しめるものなのか? それとも……」
 力を失った華奢な体は何も答えない。――それとも、私たちを新たな道へと導くものなのか?
「むしろ両方かもしれない……な」
 紫苑はつぶやき、歩みを再開した。もう、立ち止まるつもりはなかった。

「…………」
 ぼうっと庭を見遣っていた紫苑は気配を感じて振り向いた。視線の先には桔梗が顔を覗かせている。
「どうした?」
 尋ねると、彼女はふるふると首を横に振った。
「何でもないんです。けど」
「けど、何だ?」
「側に行ってもいいですか?」
「…………」
 紫苑は微笑んだ。
「ああ」
 桔梗は嬉しそうに笑って彼の側に腰を下ろす。甘い香りが鼻を掠めた。
「綺麗な空ですね」
 桔梗の声に、紫苑は上を見上げる。改めて眺めた空は、深く澄んで――美しかった。きっと、彼女に言われなければ気付かなかっただろう。
「……そうだな」
 紫苑は呟く。
「綺麗だ」
 ――こんな時間が続けばいい。
 紫苑は頼りなげな桔梗の肩にそっと手を置く。白い雲の軌跡を辿れば、青い天球の形がなぞれそうだと思った。
 ――ひとりでいることは嫌いではない。それなのに、今こうやってふたりでいることをとても心地良いと思う。まるでずっと昔から彼女を知っていたかのような、不思議な安心感。どこか境遇が似通っているからだろうか。根深い孤独を共有しているからだろうか。どんなにその存在が謎めいていたとしても、彼は構わない――ただ一緒に、こうして空を見上げて。
「ねえ紫苑」
 桔梗が甘えるようにもたれかかってきた。
「今日はお出かけしないんですか?」
「ああ」
 短く答えると、桔梗は嬉しそうに笑って、
「だったら、遊んでくれますよね?」
「……何がいい?」
 紫苑は向き直って尋ねた。
「何がしたい?」
 桔梗はしばらく考え、やがて微笑んだ。
「何でも!」
 ――紫苑といられるのなら、何でも……。

  三

 御門蘇芳はその日、藤原伴雅の屋敷を訪れていた。蘇芳は紫苑の先代の御門家当主で、かつての陰陽博士である。隠居の身である彼が突然呼ばれた理由は分からないが、何故この若造に呼びつけられなければならぬのかと思うと少々腹立たしい。
「わざわざお越しいただいてありがとうございます」
 伴雅はゆったりと微笑んだ。
「いえ」
 蘇芳は短く答える。伴雅は扇を軽く揺らしながら尋ねた。
「最近、ご子息とはお会いになるのですか?」
「紫苑と、ですか?」
 蘇芳は一瞬視線を上げ、再び下ろした。
「会いません」
 彼はあの青年が苦手だった。先帝の命により紫苑を養子にはしたものの、結局半人半妖という彼の存在を受け入れられなかった。紫苑もそれは十分承知しており、幼い頃から養父である自分に甘えるということをしなかった。それが余計にふたりの溝を広げ――結果、今では完全に他人同士になってしまった。
「では、最近のご子息の様子もご存知ではないと?」
「ええ、全く」
 蘇芳は伴雅を見据えた。かつて陰陽博士であった頃と同じ、鋭い視線が伴雅を射る。伴雅はさすがにうろたえた様子で視線を逸らした。――紫苑であれば、必ず受け止めていたものを。不意に浮かんだそんな考えは、続いた伴雅の言葉に打ち破られた。
「ご子息が今、あやかしを屋敷に住まわせていらっしゃるのをご存知ですか」
「……は?」
 蘇芳は聞き返した。
「あやかし……ですか?」
 紫苑は人間から受け入れられてもいないが、決してあやかしと近しいというわけでもない。式神の間違いではないか、という顔をする彼に、伴雅は追い討ちをかける。
「それも水龍族と思われる少女です」
 それは、彼が御門邸に放った忍から得た情報だった。蘇芳はすぐさま言葉を返す。
「そんなはずはない。水龍は滅びたはず」
「しかし銀髪に青い眼……そして額の文様。全てが水龍の特徴だったそうですよ」
「…………」
 蘇芳は黙り込んだ。
「紫苑殿は未婚でしたな? 養子のおつもりでしょうか?」
 伴雅は軽い口調で言う。
「しかしお上に楯突いた存在であるあやかしを家族に迎え入れるとは……少々軽率ではありますまいか」
「…………」
「お疑いならご自身でお確かめください」
「…………」
 蘇芳は視線を落としたまま答えない。
「このことは未だ、私ひとつの胸にしまっておきましょう」
「……ありがとう存じます」
 紫苑が罪を得れば、蘇芳もただではすまない。伴雅は頭を下げる蘇芳を満足げに見遣った。
「それで……、ひとつ、お願いを聞いていただきましょうか」
「お願い……?」
 顔を上げた蘇芳に、伴雅は微笑みかける。
「ええ。それほど難しいことではありません。まじないです」
「まじない……」
 ――まじない。呪い。蘇芳は鸚鵡返しにつぶやいた。伴雅は言葉を続ける。
「そう。そしてまじないは、のろいとも読み替えることができる」
 ――のろい。呪い。
「私のお願いを、聞いていただけますな?」
「…………」
 蘇芳はのろのろと頷いた。頷くしかなかった。
「御意」