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桔梗の巻 第五章

「桔梗!」
 紫苑は叫んで橋の欄干に駆け寄ろうとした。途端、再び瘴気に吹き飛ばされる。
「ぐっ……」
 肩を強打した紫苑は、朱雀に向けて印を結んだ。朱雀が人には聴くことの出来ない咆哮を上げ、炎を生み出す。もののけは怯んだようにあとずさった。
 ――そうか。そのとき、紫苑は思い出していた。
「お前は……華子!」
 数ヶ月前――とある男の妻が大病に伏せった。いよいよ命の灯火が尽きようかというときになり、彼女は夫と約束を交わした。決して再び正室を迎え入れることはないと。
 瀕死の正室は鈴を所望し、やがてそれを握り締めたまま事切れた。男はその後しばらくは独り身を通したが、彼がまだ若かったこともあり、周りがそれを許さなかった。やがて若い後妻が屋敷に入り――殺された。首をもがれるという無残な死に様で。そのとき周りの者が聞いたのは後妻の悲鳴ではなく、ただ鈴の音――。
 あの正室の名は確か、華子だった。後妻を殺しただけでは飽き足らず、その妄念が凝り固まったままもののけと化したらしい。
「……ちっ」
 川に落ちた桔梗が気になるが、水のあやかしである彼女が溺れ死ぬなどということはあるまい。とにかく、先にもののけを調伏しなければ……紫苑は心を決め、呪符を取り出す。もののけも彼の気配を察したらしく、瘴気を強めた。
「…………!」
 紫苑が最初の一音を発したのと、川面が爆発したのとは同時だった。

  二

 川面に落ちた桔梗は、そのままずうっと下に沈み込んだ。
「っ……!」
 冷たさに身をすくめるが、水は彼女を優しく受け入れた。――この感じを、私は知っている。桔梗は気付いて眼を見開いた。彼女の着ていた衣が徐々に落ちていき、彼女は薄物を一枚纏っただけの姿となる。力を抜くと、体はそのままゆらゆらと水の中を漂った。
 ――この感じ……。桔梗は目を閉じる。髪を揺らす波紋。指先をすり抜けていく泡。肌に馴染む水温が心地よい。
 ――昔、私はこの中にいた……誰かを待っていた……。
 とくん、
 とくん、
 体を丸め、自分の鼓動に耳を傾ける。私は――誰かを待っていて、そして……。
 ――桔梗!
 水を響かせる強い声。彼女を見つめる優しい紫の瞳。
 ――桔梗!
 どくん、
「しおん……」
 桔梗はつぶやき、目を開ける。彼女の体の中で何かが爆発した。

  三

 ざあっ、と水柱が立ち上がり、水面に叩きつけられる。まるで、突然空中に滝が生じたようだった。
「なっ……?!」
 水を苦手とする朱雀は空高く舞いあがって、警戒の声を上げた。
「これは……」
 凄まじいまでの妖気が空間を席巻する。紫苑の皮膚までもがぴりぴりと痛みを感じた。もののけはその醜い姿を橋のたもとに隠している。
 やがて水柱が消え――上空にゆったりと浮かぶあやかしの姿があらわになった。
 長く、白い手足。腰までも伸びた銀髪。額の青い印と、青水晶のように輝く瞳。弧を描く赤い唇――。
「き、きょう……?」
 紫苑は呆然と呟いた。
 まるで違う――まるで違う気配をまといながらも、それは桔梗だった。桔梗でしかあり得ない。だが、その体は成熟したおんなのものだ。
「何故……何故いきなり成体に?」
 声音が震える。
 水龍族の成体――彼らは「水の殺戮者」と呼ばれていた。そのふたつ名は、邪魔なものは見境なく殺すというその苛烈な性質から付けられたもので、伴侶を得た一人前の成体ではよりその傾向が顕著となる。その非常に強い殺性は、同じあやかしたちからも恐れられていたという。その水龍が――ここにいる。
「…………」
 「桔梗」はふわりと笑った。何の屈託もない、純真な笑み。紫苑の視線が吸い寄せられる。
「……桔梗」
 唇が勝手に彼女を呼んだ。
 すらりとした足が空を蹴り、「桔梗」は紫苑の側へと降り立った。薄物一枚を纏っただけの体は、その大人びた体型をくっきりと浮かび上がらせている。
「紫苑」
 澄んだ声は、桔梗と同じ。
「少し待っていて」
 「桔梗」の唇が艶やかに微笑んだ。
「すぐ片付けるから」
「桔梗!」
 とどめようとした手を、彼女のひんやりとした指先が握った。眼を合わせると、「桔梗」は少女めいた笑みを零す。――その純真さと残酷さは、紙一重だった。紫苑は体を強張らせる。
「その名前……、『私』も気に入ってるの」
 くすくすと微笑みながら、「桔梗」は紫苑の手を離した。
「待っていて」

 隙をうかがっていたのか、もののけが「桔梗」に向かって突進した。溢れんばかりの瘴気と、彼女――既に華子ともいえない、もののけを核として吐き出されてくる悪霊たち。その勢いたるや凄まじいものがあるが、「桔梗」は慌てることなくゆっくりと向き直った。紫苑をとん、と後ろに押しやり、彼女は真っ直ぐに手を振り上げる。
「……切り裂け」
 彼女の言葉に従い、川が狂った。どっと逆巻いた川面から刃のような水が打ち出され、橋の中央はずたずたに切り裂かれる。同時に、もののけの体はあっけなく四散した。
 ――おおおおおおおおおおおおおおおお!!
 大気が震える。
 逃れようとする小さな悪霊たちまでも水は捉え、引き裂いて粉々にした。どす黒く濁っていた水の色も徐々に澄んで、やがて――全てが消える。呆気ないまでの殺戮。紫苑が除霊を行うまでもなく、もののけは――華子は――消滅した。
「……もう終わりか。呆気ない」
 「桔梗」はつまらなそうにつぶやいて、呼び寄せた水を返していく。
「下等なもののけだった、というわけか」
「桔梗……」
 紫苑は乾いた喉から、どうにか声をしぼり出した。
「お前、どうして……」
「成体になったかって?」
 振り向いて眼を覗き込まれる。普段よりもずっと身長が近づいたせいで、「桔梗」の顎が紫苑の胸元に触れていた。
「簡単なこと。この体にはふたつの人格が棲んでいるの。……こちらの『私』は嫌?」
「そういうわけではない」
 紫苑は首を横に振る。
「ただ、……その、よくわからない」
 「桔梗」は少し眼を見開き、やがて口元を緩めた。
「そう」
「教えてはくれないのか?」
「教えることなど、何もない」
 「桔梗」は艶やかに微笑む。
「私たちはふたりとも――貴方が名づけたとおり、『桔梗』なのだから」
「何故、お前はふたつの人格を持つ?」
「必要だから」
「何のために必要なんだ? お前は一体」
「そんなこと、今はまだどうだっていい……」
 「桔梗」はそうつぶやくと、少し背伸びをした。
「良くは……ない、が」
 「桔梗」の水色の瞳に追究を拒絶する色を読み取り、紫苑は語尾を濁した。
「だが、聞かれたくないなら聞かないでおく。お前が必要だと思うときに話してくれればいい。それでいいか?」
 「桔梗」は嬉しそうに笑って頷いた。そんな表情はいつもの桔梗と良く似ていて――紫苑は困惑する。
「お前も、桔梗なんだな?」
 確かめるように尋ねると、彼女はこくりと頷いた。
「それだけがわかっていれば、十分だ」
 紫苑は力を抜いてそうつぶやいた。――水龍の殺性を知らなかったわけではない。それでも、自分は彼女を手元に置こうと思った。守ってやろうと思った。それならば最後まで責任を取りたい。桔梗と「桔梗」は外見も中身も異なっている。それでも――彼女の中にある孤独は変わらないのではないか。そんな気がした。彼の中の孤独と惹きあうものを感じる。そして――それ以外にも、何か……。
「紫苑」
 「桔梗」の声に、顔を上げる。と、不意にその唇に柔らかいものが押し付けられた。
「…………」
 眼前にある閉じられた瞼は、銀糸のような長い睫毛に縁取られている。彼女の細い指が紫苑の長い黒髪を優しくなぞった。
「…………」
 紫苑はやがて眼を閉じ、「桔梗」の背中を優しく抱擁した。子供を宥めすかすような動作だが、彼女は気持ちよさそうに彼に凭れる。
「……私は」
 「桔梗」がつぶやく。
「私は、ずっと貴方を待っていた」
 ――ずっとずっと、あの場所で。
「水龍の皆が死んでも……自分自身の記憶を失っても」
 ――貴方を待っていた。
「それは、仕組まれていたこと」
 彼女はゆっくりと眼を開けて紫苑を見上げた。
「私たちの運命」
「運命……?」
「もうすぐこの世界は大きく変化を遂げる」
 「桔梗」はまるで預言者のように言葉を紡ぐ。
「そのために私はいる。もう独りの桔梗に、まだこの定めは背負えないから」
 ――独りで扱うには、この妖力は強大すぎる。彼女は言い換えた。
「貴方も運命の歯車のひとつ。大きな、中心となる歯車」
「…………」
「私も同じ。私たちが出会ったのは、運命……」
「いや」
 紫苑は首を横に振った。
「違う。私はお前に呼ばれた、だから出会ったのだ。運命に呼ばれたのではない」
「……私が、呼んだ?」
「そうだ」
 「桔梗」の瞳が揺れる。
「運命などに呼ばれて、誰が行くものか」
 紫苑は毅然とそう言い放った。――それは、彼がいつも自分に言い聞かせてきたこと。どれだけ孤独でも、どれだけ辛くても、どれだけ疎外されても。
「私は私のしたいように生きてきた。これからもずっとそうだ」
 ――だから、
「お前もそうしろ」
「…………」
 「桔梗」は微笑んだ。意図のつかめない、底冷えのするような笑み。
「私が、怖くない?」
 唐突にそんなことを尋ねる。
「私は貴方を殺すことができる」
「…………」
 紫苑は黙ったままそれを認めた。――どんなに彼が優れた陰陽師であっても、彼女には勝てないだろう。彼女は普通のあやかしではない。いや、おそらくは普通の水龍ですらない。あの残酷な戦い方――全てを洗い流してしまう様子は戦慄を誘うものだった。確かに、紫苑には彼女を恐れるだけの十分な理由がある。しかし……。
「怖くなどない」
 紫苑は彼女をそっと抱きしめた。
「お前を怖がることなどない」
 「桔梗」は為されるがままに紫苑の胸に顔をうずめる。

「世界中の皆がお前を怖がっても、私は怖がってなどやらない」

 ――恐れられるということは、孤独だということだ。紫苑はそれを良く知っている。自分は人から常に恐れられてきたのだから。
「お前が桔梗なら――怖がる理由など何もない」
「…………」
 「桔梗」は深い吐息をついた。
「…………」
 何事か囁く。だが、紫苑の耳はその言葉を捉え損ねた。わざとかもしれない――「桔梗」はそれを、聞かれたくなかったのかもしれなかった。