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桔梗の巻 第二章

  一

 桔梗が眼を覚ましたとき、既に日は高かった。一瞬自分がどこにいるのか分からず、辺りを見回す。
 静かな屋敷。近くにひとの気配はない。中庭に面した部屋の外からはかすかに緑の香りがした。遠く近く、鳥の囀りが聞こえる。
「お目覚めになりましたか」
「…………?!」
 不意に掛けられた声に驚いて飛び上がる。振り返ると、側に美しい女房がひとり、微笑みを浮かべて座していた。萌黄と若葉色の衣が、目にまぶしい。
「あ、あの……」
 突然出現した女に桔梗が戸惑うと、彼女は静かな笑みを湛えたまま囁くように告げた。
「私は紫苑さまの式神でございます。桔梗さまの身の回りのお世話を言い付かりました」
「は……、はい」
 間の抜けた答えを返し、桔梗は頷く。
「まずはお召し物を」
 女は一揃いの着物を差し出した。桔梗は紫苑に借りた大き過ぎる衣の袖をたくし上げ、それを受け取る。
「ありがとう」
 女はふわりと立ち上がり、彼女の身支度を手伝った。女から甘い匂いがかすめる。
「私の名前は、菊と申します」
 振り向くと女と視線がかち合って、桔梗はその瞳が黄金色に彩られていることに気付いた。
「菊……さん?」 
「はい」
 菊は桔梗の着替えを終え、立ち上がった。
「朝食の用意があちらにできてございます」
 菊が彼女を先導するように歩む、その足の裏は床についていない。
「紫苑さまがお待ちでございますよ」
「……あ」
 その名を聞いて、桔梗はかすかに頬を染めた。

 ここが今日からお前の家だ――昨夜、紫苑はそう言った。そして、答えを待つようにじっと桔梗を見つめた。暖かい瞳。優しい瞳。紫の色の中に、自分が映っていた。まだ抱きかかえられたままだった桔梗は、何だかくすぐったくなって顔を紫苑の肩口に寄せ、彼の視線から逃げた。
「行くあてがないのなら、いつまでもここにいればいい」
「はい」
「だが――いたくなくなったなら、いつでも勝手に出て行けばいい」
 平坦で冷ややかな紫苑の口調に驚き、桔梗は紫苑を見上げた。
「どうした?」
 再び向けられた瞳は先ほどと同じ温度を保っていて、桔梗は安堵する。冷たく聞こえた言葉は、そんなつもりではなかったのかもしれない。
「ずっと……居たいです」
 桔梗の小さな言葉が耳に届いたのか、紫苑の口元がぴくりと動いた。
「私、きっと何にも思い出せないと思うし」
「思い出すかもしれないぞ」
「いいえ」
 桔梗はそう言って微笑んだ。長い間、眠っていた……そんな感覚が彼女の体には残っている。そして――ずっと、誰かを待っていた。きっと、紫苑を。
「……お前も物好きだな」
 そうつぶやいた彼の顔は、少し悲しげで――けれど微笑んでいた。彼の言葉の意味が、桔梗には分からない。
 紫苑は、おそらく桔梗以上に戸惑っていた。異端の存在。禁忌の半妖。そんな自分と、この子供はずっと一緒に居たいという。
 ――まあ、いい。紫苑は口元を皮肉に歪めた。いつか、彼女の気も変わるだろう。いずれ、桔梗は自分の元を去るに決まっている。けれど――今、少しだけ夢を見ていたい。誰かと共に生きる夢を。自分も誰かに必要とされているのだという夢を。
「秋の夜は、長いからな……」
 その声が聞こえたのか聞こえなかったのか、桔梗は彼の胸元で丸まっていた。小さな体温が心地よい。紫苑は何となく、彼女を自分で歩かせる気にはならなかった。手放すのが惜しく、そのまま寝具を用意させた部屋まで抱きかかえて連れて行く。
 ――だが、離れたくなかったのは桔梗も同じこと。そっと床に下ろされた後も、桔梗はじっと紫苑の残像を目で追い掛けていた。

  二

「…………」
「…………」
 食膳を前に向かい合い、ふたりはただ黙々と食事をしていた。ひと付き合いの苦手で、元来無口な紫苑は、時折桔梗の方を眺めるものの特に何を言うでもない。桔梗は桔梗で、黙り込んでいる紫苑に自分からは話しかけづらい。陽光の中で見る紫苑は、何故か闇の中で見たときよりも近づき難く見えた。
「……ふう」
 彼女が小さく漏らした吐息を聞きつけたか、紫苑が目を上げた。暖かな紫電の瞳と目が合い、桔梗の緊張は緩む。
「昨夜はよく眠れたか」
「はい」
「菊は、ちゃんとお前の面倒を見てくれているか」
「はい! 菊さん、とても綺麗な方ですね」
「そうか?」
 紫苑は無頓着に首を傾げる。
「彼女は式神だからな」
「式神って……」
 先ほどは聞きそびれたが、桔梗は式神が何なのか知らない。
「菊は言わなかったのか?」
 紫苑は眉をひそめる。
「あれは菊の精だ。うちの庭の菊に宿った、精霊。それと私が契約をしている」
「……契約?」
「式神となって私の為に働くという、契約だ」
「紫苑は菊さんに何かしてあげるんですか?」
「来秋も我が家で咲けるよう計らってやる」
「……それだけ?」
「それで、十分なのだ」
 紫苑は食器を置いた。桔梗は慌てて残りの飯を口に頬張る。
「慌てなくてもいいぞ」
 紫苑は笑って白湯(さゆ)を口にした。彼の笑顔はとても優しくて、桔梗はつられて微笑む。――だが、彼女はすぐに真顔になった。
「あの……、私も、その」
「うん?」
「私も、ここに居ようと思ったら式神にならなきゃ駄目なんですか?」
「……は?」
 紫苑は意味が分からないというように聞き返した。
「えっと、だから」
 桔梗はもじもじと指先を(いじ)りながら繰り返す。
「菊さんみたいに、来年もここに居ようと思ったら、紫苑のために働かなきゃ駄目なのかな……って」
「…………」
 紫苑はきょとん、としていたが、やがて声を上げて笑い始めた。
「え? え?」
 桔梗は顔中に疑問符を浮かべ、きまり悪げに紫苑を見つめている。紫苑はやがて笑いをおさめ、彼女の頭にその大きな手を置いた。
「何もしなくていい」
「え……、でも」
「何もしなくていいんだ」
 不意にふわっとしたものに包み込まれた。紫苑の身にまとっていた白い狩衣の文様が、今目の前に広がっている。焚き染められた香の薫りだろうか。甘い、どこか懐かしい匂い。緊張に強張っていた桔梗の体から力が抜けていく。小さい子供にするように――事実、桔梗は小さい子供だが――紫苑は桔梗の髪と背中をよしよしと撫でる。
「でも、私……」
「いいんだよ」
 紫苑は桔梗の言葉を遮った。
「まだお前は子供だろう。子供は大人に養われるものだ」
「私、子供ですか?」
 桔梗は不満げに紫苑を見上げるが、
「子供だ」
 紫苑は断言した。紫苑は特別長身だが、彼と比べなくとも桔梗は小さな少女だ。しかし、桔梗が本当に水龍族だとするならば……。知らず知らずのうちに険しい顔になっていたのか、桔梗が心配げに紫苑の顔を覗き込んでいた。煌く銀髪と、光に照らし出された深い湖面のような瞳。
 紫苑は表情を緩め、桔梗の肩を抱きなおすとそっと体を離した。
「とにかく、何も考えないことだ。知恵熱が出るぞ」
「ちえねつ?」
「それも気にするな。さて……、そろそろ私は宮中に参内しなければならぬ」
 紫苑は立ち上がり、奥から新たな式神を呼び出した。
「藤野」
「はい」
 今度の式神は男の格好をしていて、名の通り藤色の狩衣を身にまとっていた。おそらくは藤の精なのだろう。
「出かけるぞ」
「はい」
 しずしずと歩んできた藤野は、ちらりと桔梗を見て微笑む。
「可愛らしい奥方さまで」
「違う」
 紫苑は眉をしかめて答える。藤野は笑顔のまま紫苑に頭を下げた。
「おめでとうございます。藤野が紫苑様にお仕えし始めてから早幾年(いくとせ)……藤野はうれしゅうございます」
「だから違うと言うのに」
 桔梗はただ一人意味が分からないというように、目を瞬いている。紫苑は藤野に背を向け、桔梗の頭を撫でた。
「少し留守にする。夕暮れには帰って来るが」
「……紫苑、居なくなっちゃうの?」
 じんわりと眼を潤ませる桔梗に、紫苑は苦笑した。
「帰って来ると言っているだろう? 待てるな?」
「……はい」
「菊がいるから、遊んでもらえ」
 紫苑は桔梗の髪から手を離した。
「…………」
 桔梗の幼い視線が紫苑をとらえ、やがて微笑んだ。少し無理をした――紫苑を心配させまいとしているのだろう、明るい笑みを浮かべて。
「行ってらっしゃい!」
「…………」
 初めて聞いたその言葉に、紫苑は戸惑う。――ずっとひとりだった。誰かから側に居て欲しいと望まれることも、誰かに帰りを待ち望まれることも、なかった……。
「行ってくる」
 紫苑は言って微笑んだ。それは藤野もついぞ見たことがないほど、自然で優しげな笑みであった。

  三

 宮中についた紫苑は、打って変わって能面のような無表情を張り付けていた。
 陰陽博士、御門紫苑。従三位という高位にあるものの、殿上人の視線は決して温かいものではない。ひとにはあり得ぬ紫電の瞳。そして、彼の奮う不可思議な力。それはあやかしと同じ妖力であるとされ、忌諱された。――都を守っているのは、紫苑であり、彼の力であるのに。
 藤野を背後に従え、紫苑は歩みも早く廊下を渡っていく。自分に対する悪意が渦巻いている空間など、早々に脱してしまいたい。――しかし、
「御門どの」
「…………」
 声をかけられては立ち止まらぬわけにもいかず、紫苑はむっつりとした顔のまま声の主を見遣った。同じ陰陽寮に属す占星術に長けた老人、菅野が立っていた。紫苑は陰陽寮における最高位の陰陽博士だから、菅野は彼の部下といってもいい。とはいえ、紫苑が陰陽寮の陰陽師の力を借りることなどほとんどない。
「少々、お時間をよろしいですか」
「ああ」
 菅野に導かれるまま部屋に入る。何かと陰陽の術に長けている紫苑であるが、占星は専門外だ。その白い眉の下の瞳を眇め、菅野は囁くようにつぶやいた。
「星が、軌道を変えました」
 紫苑は尋ねる。
「凶か? 吉か?」
「わかりませぬ」
 菅野は首を横に振った。
「どちらとも言えぬ星にございますれば」
「いつ、軌道を変えた?」
「昨夜。丑の刻一つばかり」
「……丑の刻、一つ……」
 桔梗を拾ったのがちょうどその時間だったが、まさか桔梗がその星だとは思えない。――たとえ、彼女がひとに滅ぼされたはずの水龍族であっても。
「吉凶がはっきりせぬ以上、主上に言上するのも憚られまして」
「そうだな」
 紫苑は頷いた。
「様子を見ていれば良いのではないか? その星が今すぐ主上に仇をなすわけではあるまい」
「は」
 紫苑に告げて荷が降りたのか、菅野はほっとした様子で頭を下げる。そして――頭を上げたとき、菅野は紫苑をじっと見ていた。まるで何かを試すような……。
「何だ?」
 促すと、菅野は低い声で言葉を紡いだ。
「その星――貴方様に近うございます」
「…………」
 紫苑の動きが止まる。菅野はゆっくりと続きを告げた。
「どうぞ……お気をつけなさいませ。御門紫苑どの」
「…………」
 立ち尽くす紫苑を横目に、菅野は部屋を出て行く。
 ――行ってらっしゃい。紫苑は桔梗のその言葉と菅野の言葉を胸に反芻し、やがて歯をきりりと食いしばった。その唇の隙間から押し出すように、
「……それが、どうした」
 つぶやかれた言葉を拾ったのは、すぐ側に立つ藤野だけであった。