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桔梗の巻 第三章

  一

 ――五条橋にもののけが出るらしい。宮中でそんな噂が流れ始めたのは、紫苑が桔梗と出会ってから十日ほど過ぎた頃だった。
「藤原助友どのも襲われたとか」
「そうじゃそうじゃ。命からがら逃げられたと聞いたぞ」
「牛飼いの童は未だ行方不明じゃと」
「それが三日前のこと。今も臥せっておられるそうな」
「童も食われたのかも知れませぬな」
「恐ろしや」
「いかようなもののけだったのか」
「それは分かりませぬ」
「助友どのも覚えておられぬのか」
「まだそのような話が出来る状態ではありませぬぞ」
 紫苑は眼を軽く閉じてそれらの話を聞いていた。
 場所は朝議の間。簾の向こうに帝が座るまで、貴族たちは好き勝手に会話をしているが、紫苑には特に話し相手がいるわけでもない。彼に好んで話しかけようとする者も居ないし、彼から話しかけることもない。しかし、こと妖物のこととなると無視を決め込むわけにもいかず、紫苑は聞くともなく彼らの話を聞いていた。
 ――結局のところ、五条橋にもののけが出ている、それ以上のことは彼らの話からは得られない。推量や憶測、噂の数々。貴族たちの暇つぶしとも言えるそれらの中に、信じるに値する情報が含まれているはずがない。
「紫苑どの」
 不意に声を掛けられ、紫苑は振り向いた。
「は」
 声の主は彼と同い年くらいの男で、名を藤原雅哉(まさや)という。年若い今上の、摂政藤原時雅の長男で、宮中一の貴公子との誉れ高い人物である。
「お話、耳に入りましたでしょうか?」
 彼は無闇と紫苑を敵視する他の公卿たちとは違い、あくまでも慇懃な物腰であった。紫苑は彼に向き直って答える。
「少々は……」
「それで結構。我々はあやかしのことは分かりませぬし」
「はあ」
 丁寧な言葉の中に含まれた皮肉に気付きながらも、紫苑は口数少なく同意する。雅哉は微笑を浮かべ、
「それでも、日暮れ以降五条橋を通れなくなったのは事実。陰陽博士である貴方に何とかして頂きたく思いまして」
「畏まりました」
 紫苑はそう言い軽く頭を下げる。どうせ大したもののけではあるまい、と思う。何故かひとはあやかしともののけを混同するが、それは全くの間違いだ。もののけを作り出すのは、こころ。闇を恐れ、怨みを募らせ、想いを滾らせる。その念が下等なあやかし、時にはひとをも狂わせ、もののけとするのだ。
 ――あやかしとひととの狭間に生まれるのがもののけ。
 紫苑は軽く眉を寄せた。あやかしと、ひととの交わりで生まれる唯一のものがもののけなのか。それでは自分は――半人半妖の自分ももののけだというのだろうか……?
「御門どのがもののけを退治して下さるそうな」
 遠くから、雅哉の声が響いてくる。それを耳にして、紫苑はため息をついた。宮中で自分の名が取り沙汰されるとろくなことはない。経験上、彼はそのことを良く知っていた。
「おお、御門どのなら安心」
「あやかしのことならわが身のごとく詳しゅうございましょうからな」
 湧き上がる悪意に満ちた笑い声。慣れたこととはいえ、紫苑は身を強張らせた。
「お静かに!」
 折も折、今上が簾の向こう側に腰を下ろす気配がし、ざわついていた朝議の間は水を打ったようにしん、とした。紫苑に対する帝の厚い信頼を慮ってであろう。
 ――下郎どもが……。紫苑は口汚く胸中に吐き捨てた。

  二

 ここ数日間ほど、桔梗は菊と二人で昼を過ごしていた。紫苑が留守にしている間、桔梗は屋敷で留守番をしていなければならない。当然、都を出歩くことなどできるはずがなかった。
 この日もはじめは菊の奏でる琴の音に聞き入っていた桔梗だが、直に飽きてしまったらしい。
「暇ですね……」
 桔梗がつぶやくと、菊は困ったように首をかしげて手を止めた。
 桔梗がその身にまとうのは藍色のかさねで、銀の髪によく映えている。これを見繕ったのは実は紫苑自身なのだが、意外な趣味の良さに式神たちは少々驚いた。
 式神となった精霊たちが、彼らの孤独な主人に寄せる思いは優しく、深い。菊もまた例外ではなかった。だからこそ彼が桔梗を拾ってきたとき、菊は驚いた。ただでさえ難しい立場にある彼があやかしの――それも今は滅びたはずの水龍族の子供を拾ってくるなど、尋常なことではない。しかも彼は彼女と出会った経緯について誰にも一切語ろうとはしない。また、菊も藤野も敢えて尋ねはしなかった。心配でないわけではないが、主人には主人の考えがあるのだろうと信じてのことだった。
 それにこの少女は、警戒心を抱かせるにはあまりにも幼く、あまりにも愛らしく、あまりにも純粋だった――まるで生まれたばかりの赤子のように。
「絵合わせでもなさいますか?」
「…………」
 並べられた貝を手に取り、桔梗はつぶやいた。
「紫苑がこの間、これで遊んでくれた」
「そうですか」
 菊は微笑む。それは、さぞかし微笑ましい風景だっただろう。紫苑は相変わらず気難しい顔で貝を睨んでいたのだろうか。あの大きな手に、小さな貝はすっぽりと隠れてしまうことだろう。
「もう一度、遊んで欲しいな」
「お暇があれば、きっとお相手してくださいますよ」
「そう?」
 桔梗は起き直り、瞳を輝かせる。
「ええ。勿論ですとも」
 桔梗に対し、紫苑には保護者の自覚が芽生えているらしい。彼女に字を教え、歌集を与える。衣も見目麗しいものを選び、惜しげもなく買い与えていた。――都びとの間に妙な噂が広がらなければ良いのだが。
 そもそも、あの方は歌をお詠みになられるのかしら? 菊はそれがおかしくてたまらない。
 桔梗は桔梗で素直に紫苑に言われるまま字を覚え、最低限の作法も身につけた。菊や藤野には少し逆らってみることのある桔梗だが、紫苑の言うことには異議を差し挟まない。
「桔梗さまは、紫苑さまがお好きですのね」
「…………」
 貝を弄っていた桔梗の手が止まった。
「……うん」
 白磁の肌が薄桃に染まった。赤い顔で菊を見上げる。
「紫苑に言わないでね?」
「いけないのですか?」
「うん」
 桔梗は俯いた。
「何故?」
「……紫苑を困らせることになるかもしれないし」
「…………」
「だから、秘密にしていて」
「……はい」
 菊は微笑んで頷いた。幼い少女の胸に生まれた好意は、まだ恋に分類するには早すぎるものだろう。それでも、大事に育んで欲しい。
 菊は桔梗の銀髪をそっと撫でる。そして――紫苑さまは、いつまでおひとりでいらっしゃるつもりなのだろう。いつもは思わないそんなことを、ふと思った。
 紫苑は誰も信じない。ひとも、あやかしも、異端の存在である彼を受け入れることはない。この広い屋敷で暮らすのは紫苑と式神のみである。
 しかし、桔梗も孤独な身の上には違いない。彼女の属する水龍族は既に絶えたといわれている。彼女の家族や知り合いがどうなったかは分からないが、恐らく生きてはいないだろう。
 水龍族を滅ぼしたのは、ひと。
 何度となく戦われたひととあやかしとの戦いで、数の圧倒的に少ないあやかしたちはその強大な力にも関わらず常に圧されていた。水龍族も四天王と呼ばれたほどの力を誇っていたにも拘らず、結局絶滅に追い込まれた。
 あやかしとの戦いに、現在最強の陰陽師である紫苑は参加したことがない。彼の裏切りを恐れているのだろうか。そもそも何故ひととあやかしが戦わなければならないのか、菊にはわからない。紫苑もきっとわからないというだろう。
 桔梗とひとの少女との間に、何の違いがあると言うのだろう。髪の色? 眼の色? 尖った耳? 額に描かれた文様? 何て下らないこと……。菊が小さくため息をついたとき、
「あ」
 側に伏せていた桔梗が身を起こした。
「どうされました?」
「うん……」
 曖昧に呟いて桔梗は辺りを見回す。
「紫苑が帰ってきた」
 抑揚のない口調。眼はどこか中空を彷徨いながらも、らん、と輝いていた。まるで何かに憑かれているようだ――菊の背中がぞわりと粟立った。
「紫苑が、帰ってきた」
 桔梗はもう一度、繰り返す。
「え?」
 菊は驚いた。彼自身のかけた術で彼と繋がっている菊ですら感じ取れない気配を、この少女は感じ取ったというのだろうか。半信半疑で桔梗を見つめていると、つと彼女は立ち上がり、廊下を小走りで駆けていった。ちらりと見えたその顔は、既にいつもの幼い表情に戻っている。
「やっぱり!」
 廊下の向こうから桔梗の弾んだ声がして、菊はぴくりと体を震わせた。やはり、紫苑の帰りを感じ取っていたのか――あの少女は一体何者なのだろう……?
「何がやっぱり、だ?」
 桔梗に対する時だけに聞かれる、柔らかい主人の声がする。
「さっきちょうど紫苑が帰ってきたって思って。そうしたら、やっぱり帰ってきていたから」
「そうか」
 紫苑は何も疑問には思っていないようで軽く受け流していた。菊の居る部屋の前まで二人は歩みを進め、紫苑は中を覗いた。
「菊」
「はい」
 その穏やかな表情に、菊は胸中にあった不安を忘れることにした。――紫苑は、今この少女とともにあることがしあわせなのだ。彼女は、彼が初めて得た家族のような存在なのだから。
「桔梗は大人しくしていたか?」
 袖をぎゅっと掴まえている桔梗の髪を軽く押さえ、紫苑は尋ねる。
「ええ」
 菊が頷くと、桔梗はほっとしたように息をついた。
「近々調伏に出る」
 紫苑は表情を引き締め、そう言った。
「五条の橋にもののけが出るそうだ」
「はい」
 菊は口元を引き締めた。紫苑は時に供として式神を連れて行く。その任に当たるのがどの式神かは分からないが、菊はその心積もりをした。
「桔梗、一晩留守にすることになるが、大人しくしているのだぞ」
「…………」
 桔梗は虚をつかれた様に黙り込む。
「どうした?」
 紫苑が畳み掛けると、桔梗は紫苑の腕をぎゅっと掴んだまま頭を横に振った。
「桔梗?」
 珍しく紫苑の言うことに逆らう桔梗に、菊も驚く。
「……って下さい」
「何?」
 紫苑が眉を潜める。桔梗はばっと勢い良く顔を上げた。
「連れて行ってください!」
「…………」
 紫苑がぽかんと口を開ける。その間抜けな表情は、菊にはたいそう面白い見物であった。