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桔梗の巻 第一章

  一

 初秋の夜更け。都の外れに位置するこの(みち)は人通りもなく、時折聞こえる虫の音だけが透明な空気を揺らしている。男がひとり、ゆったりと歩んでいた。黒を基調とした直垂、烏帽子。だが髪は結わず、長く垂らしている。まだ若く、年は二十歳くらいであろう。
 男はゆっくりと視線を月に向ける。闇を照らす月光が白々と男の顔を映し出した。紫電の瞳――ひとにはあり得ぬ色。
 彼はひとではない、否、半分はひとである。しかし残り半分の血は、あやかしであった。
 父はひとで、母はあやかしであるという。滅多にはおらぬ半妖――それは古来より忌むべき存在とされており、本来ならば赤子のうちに殺められていても不思議はない。しかし彼は例外的に生を許され、なおかつ従三位という高位についていた。それは、彼が代々続く陰陽師の家柄である御門家の養子になり、比類のないほど強力な術者に成長を遂げたからであろう。
 御門(みかど)紫苑(しおん)――それが男の名前であった。

 さて、紫苑はただひとり、歩いている。宮中には牛車に乗って参内したのだが、帰り道の途中で先に返してしまった。牛を先導していた(わらわ)もひとではなく、式神である。彼の屋敷ではひとを使わず、式神で用を済ませていた。半妖である彼に仕えたいという物好きなどいないということも理由のひとつだが、それだけではない。紫苑は、ひとが不得意だった。
 宮中で飲んだ酒が、徐々に醒めていく。
 ひとが嫌いというわけではない。嫌うほど付き合いを深めたことがない。友と呼べる唯一の男は今は遠方にいる。宮中の者たちのほとんどが、彼を忌諱していた。
 ――人妖(ばけもの)……か。紫苑は苦笑した。宮中の口さがない者たちの間で、自分がどう呼ばれているかくらいは知っている。紫苑が強力な術者であればあるほど、都を(よこしま)なもののけから守れば守るほど、彼は悪しざまに言われ、貶められる。
 くだらない。怒る気にもならない、というのが本音だった。先帝、今上と二代通して帝の信頼が厚いことが救いかもしれない。それでも――どうせ私はひとりだ。
 紫苑は足を止めた。冷たい風が吹き抜ける。道の両側の(すすき)がざわざわと音を立てていた。眼を閉じ、虫の音色を聞く。――こうしてひとりで居る方がずっと気楽だし、寂しくもない。だから、私はこれからもひとりで……。
 そう思ったとき、虫の音が消えた。
「…………?」
 少し遅れて気配を感じた紫苑は、軽く辺りを見回した。何も見当たらない。――否、

 とくん。

 小さな音。
「誰だ……?」
 返事はない。

 とくん。

 二度目はより強く響き、音はその方角を明らかにした。紫苑は警戒をあらわにしながらも、音に向かって一歩、踏み出す。

 とくん。

 意を決して彼は道を逸れ、その方角に向けて薄の原を歩き始めた。音は何度も彼の耳に届き、徐々にそれは大きくなっていく。まるで彼を呼んでいるようなその音は、どこか懐かしい。この音を自分は良く知っている、きっと聞き慣れている。そんな気がした。
 
 とくん。
 
「もしかすると……」
 これは鼓動の音、だろうか。気付いた紫苑は、何かに憑かれたように駆け出した。鼓動。誰のだろう。何故、彼を呼ぶのだろう。

 どくん!

 鼓動が彼自身のそれと同調して大きく響いたとき、紫苑は林の奥深くに居た。袴は既に汚れてしまっていたが、紫苑は気にせずさらに足を踏み出す。
「…………」
 風が吹き渡った。
 紫苑は眼を軽く閉じ――そして眼を開ける。林の中の一際奥、急な滝が切り立った崖を流れ落ちていく、鋭い水音だけが支配する静謐な場所。そこに、それはあった。
「何だ……?」
 紫苑はさらに一歩、足を進める。滝の中腹に、まるで卵のような円形の塊があった。氷のようにも見えるが、表面は波打っている。先ほどから脈打っているのは、恐らくはそれだった。月明かりに照らし出され、水晶のように煌いている。
「…………」
 眼を凝らした紫苑は驚愕に息を飲んだ。――その奥に、幼子が入っている。ぼんやりとしか見えないが、確かに子供だ。年は十歳前後か。細い手足を折りたたみ、背中を丸めて、まるで蛹(さなぎ)のように眠っている。
「これは、一体……」
 そっと手を伸ばす。途端、
「くっ?!」
 紫苑の体がぐぐっと滝に向かって引き込まれた。そして、

 ――あなた、だれ?

 問い掛ける、小さな声。
「な……」
 抗おうとしても抗えず、紫苑の腕はずぶずぶと水の中に入り込んでいった。頭上から水をかぶり、紫苑は全身をしとどに濡らす。
「し、紫苑だ。御門……紫苑」
 紫苑は水を吐き出し、答えた。声は再び、どこからともなく響いた。

 ――しおん……あなたが、わたしをよんだの?

「よ、呼んでなど……!」
 これ以上引き込まれれば、溺れてしまう。紫苑は腰まで冷たい水に浸かり、滝を見上げた。

 ――それとも……わたしが……あなたを……よんだの……?
 
 術を使ってでも抜け出さなければならないかと考えた瞬間、ふっと彼を引っ張る力が消えた。
「…………!!」
 同時に幼子を捕らえていた水晶が消え、小さな体が紫苑の腕の中に落ちてくる。何とかそれを受け止めることには成功したが、
「あ!」
 体勢を崩し、彼らはもろともに滝壺に落ちた。

  二

 尖った耳、額に描かれた水色の文様、そして銀髪。水の中から出てきた子供――少女は、どう見てもあやかしであった。
 紫苑はずぶぬれのまま、少女を抱えて家路を歩いている。裸のままではまずかろうと、自らの衣を一枚脱いでそれに包んだ。どちらにせよ濡れていることには変わりない。
 先ほど自分を呼んだ声はこの少女のものなのだろうか。彼女は先ほどから意識を失ったまま、ぴくりとも動かない。
「しかし……」
 紫苑は彼女を抱えなおした。華奢な体はとても軽い。
「これは水龍族ではないか……?」
 水族の長、水龍族。
 火族の長、鳳凰族。
 地族の長、白蛇族。
 風族の長、黒鷹族。
 それらは強大な力を持つ妖たちの一族で、四天王とも呼ばれている。紫苑の母親はその四天王の一、鳳凰族であったとも聞くが、実は彼自身良くは知らない。彼の父親が誰かということと共に、誰も語ろうとはしない話であった。
 紫苑は軽く眼を細める。ひととあやかしの歴史は決して平和なものではない。むしろ、ひととあやかしは幾度となく戦を交えた間柄であった。最初にどちらが仕掛けたのかは分からない。半妖の紫苑はともかく、並の陰陽師たちを含めたところで、ひとはあやかしの妖力には勝てぬ。しかし、ひとはあやかしに比べ圧倒的に数が多かった。そのためにこれまでの戦では大抵ひとの側が勝利を収め、絶滅に追い込まれてしまったあやかしの一族も幾つかある。そのうちの一つが鳳凰族であり、
「水龍……なんだが」
 それは既に二十年ほど前の話であり、水龍族については紫苑も話に聞いて知っているのみである。この少女は一体いつ生まれたというのだろうか。あの滝の中、ずっと時を止めていたとでもいうのだろうか。
 ――私を待っていたとでも……?
「……訳が分からん」
 紫苑がそうつぶやいたとき、
「う……ん?」
 少女が小さく呻いて眼を開けた。紫苑は足を止める。家まであともう少し。
「眼が覚めたか」
「え……?」
 ぼんやりした目線で辺りを探り、やがて紫苑に気付いて眼を見開いた。澄みきった、青い瞳だった。
「あ……あれ? ここは……?」
「私の家の前だが」
 少女は驚いたように眼を瞬きながら、紫苑を見つめる。
「あなた……だれ?」
 自分で引きずり込んでおいて、覚えていないのか。喉元まで出てきた問いを飲み込み、紫苑は少女に反問した。
「お前は?」
「私……? 私は……」
 少女は首をかしげて考え込み――やがてつぶやく。細い首筋はまだしっとりと濡れて、銀髪が幾筋も絡みついていた。
「知らない。……わからない」
 紫苑はため息をつく。
「そんなことじゃないかと思った」
「え?」
「名前は?」
 少女は無言で首を振った。
「何も覚えていないのか」
「…………」
 少女は目を伏せた。長い睫毛が震える。
「はい。気が付いたら、あなたがいて……」
「……そうか」
 記憶が今後戻るのかどうか、それすらもどうでもいいような気がした。彼女は自分と出会い、今ここにいる。それだけのことだ。
「どこか行くあてはあるのか」
 念のために尋ねてみるが、やはり少女は首を横に振る。
「言葉は、ちゃんとわかるのだな」
 少女はその問いには首を縦に振った。
「それでは……」
 紫苑は少女に微笑みかける。こんなふうに自然に微笑めたのは、久しぶりのような気がした。この少女に対しては、何故か警戒心が解けてしまう。怪しいとは思っているのに……彼女の無邪気なしぐさのせいだろうか。それとも彼女の心細そうな様子が、少しかつての自分と似ているからだろうか。――何も分からなかった、あの頃。縋るものの何もなかった、幼い頃の自分。澄んだ瞳はまだ何の汚れも知らないのだろう。
「私と、来るか?」
「…………」
 少女は即座に頷き、同時に白い両手を伸ばして紫苑の首筋にしがみついてきた。肌の表面の体温は奪われているが、それでも少し、暖かい。
「……そうか」
 紫苑はその背をぽんぽんと叩いた。
「まあいい。どうせ御門の屋敷は一人で住むには広すぎる」
 少女は紫苑の肩に顔を埋めている。離されまいとするかのように、腕には力がこもっていた。
「そうだ。名前が要るな」
 その言葉に、少女は顔を起こした。紫苑の眼をまっすぐ見つめる真っ青な瞳。それはまるで――。
「……桔梗」
 紫苑はぽつりとつぶやいた。彼らの立つ場所の周りに、その小さな花が咲き乱れている。紫苑は少女に言う。
「お前の名は、桔梗にしよう」
「……ききょう。ききょう」
 少女は何度か呟いてみて、やがてにっこりと笑った。
「ありがとう!」
「…………」
 ありがとう――慣れない言葉に紫苑は戸惑うが、やがて気を取り直したかのように前を向いた。
「早く帰ろう。こんなに濡れていては風邪を引く」
「あ……あれ? ほんとだ。びしょ濡れ」
 少女は小さくくしゃみをした。
「どうして? 雨が降ったんですか?」
 ――本当に何も知らないのだな。紫苑は苦笑する。
「気にするな」
「でも……っくしゅん」
「急ぐぞ」
 少女を抱きかかえたまま、紫苑は家の戸をくぐる。月明かりの元で見た屋敷はいつもと違い、ここが自分の家なのだとしみじみ感じさせる暖かさを纏っていた。
「名乗るのを忘れていたな」
 紫苑は告げる。
「私の名は、紫苑だ」
「しおん」
「ああ」
「しおん……しおん、しおん」
 少女はその名を記憶に刻み付けておこうとするかのように、何度も繰り返しつぶやく。甘いあどけない声に名を呼ばれるたび、紫苑はどこかくすぐったいような、面映いような、不思議な感覚を味わうのだった。