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伴雅の巻 第四章

  一

 あれはいつだっただろう……。自分は五歳くらいだったような気がするが、はっきりとは分からない。しかし記憶にあるのは――優しかった手。
 今から思えば、多分あれはどこかの屋敷の庭だったはずだ。石に躓き転んで、泥だらけになった。着付けてもらった一張羅の袴も汚してしまい、母に怒られてしまうことを思うと身が竦んだ。そのとき、差し伸べられた手があった。
「大丈夫か?」
「…………」
 うつむいて泥にまみれた膝を見つめていると、手の持ち主は苦笑したようだった。――でも、あの手はそんなに大きくはなかった……。
「こちらへおいで」
「え?」
「いいから、早く」
 屋敷の濡れ縁に上がりさらに奥へと導かれた。
 どれだけ歩いただろうか、奥まった一室に通された彼は、そこで自分の履いていたものと寸分違わぬ袴を目にした。
「え……?」
「これはね、……」
 隣りで何か言っていたような気がしたが、良く覚えていない。ただ、これに履き替えることが出来れば母に叱られなくてすむ。そのことだけが頭にあった。
 結局その袴をもらい受け、何もなかったような顔で彼は母の元に帰った。礼さえも言わなかったような気がする。そのことだけは悔やまれるが、思い出すたびに何となく胸の奥が少し温まるような……、そんな思い出なのだった。
 
「……ふう」
 宮中からの帰り道、牛車の中で伴雅はため息をついた。
「妙なことを思い出したものだな……」
 軽く頭を振って幼い日の幻影を振り払い、ひとりごちる。
「上手くやっただろうか」
 参内する前、御門紫苑の屋敷に居るあやかしの殺害を命じた。この判断そのものは一般常識に照らしてそれほど逸脱してはいない。あやかしはひとの世界における異分子。それも飛び切り危険な。排除することに何も躊躇うことはない。それも、あのあやかしはかつて朝敵とされ討伐された水龍族であるというではないか。
「……言い訳か」
 伴雅は苦笑した。実際のところは兄が一目置いている紫苑が気に食わないという、それだけの理由のような気もする。
「まあ、どうだっていい……」
 もうすぐ兄は居なくなるのだから。そうしたら――そうしたら?
 牛車がごとん、と音を立てて止まった。屋敷に着いたのだろうとは感じたが、それにしては牛飼いの童が何も言わないし、下男たちがやってくる気配もない。
「どうした?」
 御簾をあげた伴雅は小さく息を飲んだ。牛飼いの童は牛の横で腰を抜かしへたり込んでいる。伴雅はきゅっと唇を噛んで牛車から降りた。
「何者だ」
 鋭く誰何の声を上げる。
 屋敷の門の上にふわりと腰掛け、じっと彼を見つめる一匹の美しい妖獣。長い銀髪が風に流れ、青い瞳が笑うように瞬いている。
「お前が藤原伴雅か?」
 薄い唇が花のように綻びる。伴雅が気圧されたように黙っていると、あやかしは門をたん、と蹴って伴雅の目の前に降りてきた。
「どうした? 私が自ら来てやったのだぞ」
「……何だと?」
 あやかしの手が伴雅の肩にかかり、その端正な顔が間近に近付いた。吐息が触れそうなほどの距離で囁く。
「私を殺したいのだろう?」
「…………!」
 伴雅は顔を強張らせて一歩退いた。あやかしは美しい顔を残酷に歪めて笑う。
「お前が帰ってくる前にこの家中の人間を殺してやっても良かったのだが、お前を待ってやっていたのだ。感謝して欲しいものだな」
「……私を、殺すつもりか」
 伴雅は青ざめた顔でそう言った。あやかしは大して興味もないような顔で彼を眺める。
「私がひと殺しをするのを、紫苑は好まない。だが……」
 青い眼光を煌かせる。
「水龍の『御子』を殺そうとした奴には、それ相応の報いが必要だ。そう思わないか?」
「……お、お前は一体」
「我が名は『桔梗』」
 あやかしはゆっくりと、滑るような足取りで伴雅に近付く。
「水の四天王、水龍族最後の『御子』だ」

  二

 紫苑がそろそろ雅哉の屋敷を辞そうかと考えていた頃、帳の隙間から黒い羽根が舞い落ちてきた。
「これは……?」
 床に横になった雅哉の問いに答える前に、紫苑はその羽根を手に取り軽く額に翳す。彼には羽櫻が届けたものであることがすぐにわかったのだ。
「…………!」
 紫苑の顔色が音を立てんばかりの勢いで変わる。
「紫苑どの?」
「申し訳ありませぬが、これにて失礼仕ります」
「何があったのです? 今回のことに関係があることですか」
「あるともいえますし……ないとも」
「どういうことなのです?! はっきり言って頂きたい」
「…………」
 紫苑は雅哉に袖をつかまれ、返答に窮した。――急いで行かねばあの「桔梗」は何をするかわからぬ。紫苑は覚悟を決めて口を開いた。
「貴方に呪いを掛けたのは、……藤原伴雅どのです」
「…………!!」
 雅哉の顔が驚愕に染まった。
「そして、彼は貴方が私に術の解除を依頼するであろうことを知っていた」
「…………」
「だから、私の屋敷を襲撃させたのです。そして私の屋敷には……あやかしの少女がおります」
「なんですって?」
 雅哉は未だ青ざめた顔のまま、それでもあやかしという言葉には反応して顔を上げた。
「記憶を喪った、幼い子供です」
「しかし」
「そう。子供とはいえあやかしはあやかし。危機に陥れば妖力を使うとも考えられます」
「つまり、伴雅が危ないと……」
「今、そのように連絡が参りました」
「急いで行かねば!」
 雅哉は紫苑の袖を離した。床から起き直り、ひとを呼んで身支度を命じる。紫苑は驚いて彼を制しようとした。
「雅哉殿、まさか」
「何がまさかです」
 ぎり、と雅哉は紫苑を睨みつける。
「私の弟を傷つけたら……、承知しません」
「…………」
 紫苑は思わず口をつぐんだ。雅哉の一族想いは有名であったが、これほどまでとは……。家族というものを知らぬ紫苑にとっては、少し眩しくさえある。
「一足お先に彼の屋敷に向かい、その者を止めて下さい。私もすぐ参ります」
「……分かりました」
 紫苑は懐から護符を取り出し、術をかけてそれを丸薬に変えた。
「これをお飲みください。しばらくは呪いが薄れるはずです」
「かたじけない」
 雅哉はよろめきながらも丸薬を口に含み、飲み下した。紫苑はそれを確認した後、早足に屋敷を出て行く。
 ――桔梗……! 噛み締めた奥歯が鈍い音を響かせた。

  三

 突然、蘇芳の屋敷に置かれていた呪いの祭壇がふたつに割れた。
「蘇芳様」
 祭壇の管理を任せていた、そして実質的には術の拠り代であった浅葱が、息も絶え絶えに蘇芳の元にやってくる。
「術が……返されたか」
 蘇芳は静かに呟いた。
「しかし……これは」
 割れて床に落ちた鏡を手に取り、つぶやく。
「紫苑が返したわけではないな」
 どちらかというと、術を返されたというよりも術が断ち切られたような、そんな印象である。実際全ての術が返されたのであれば浅葱は無事ではすまないはずだ。蘇芳の隣りで畏まっている浅葱は荒い息をついているが、生命に別状のある様子には見えない。
「……ということは」
 藤原伴雅の屋敷で、何かがあったということだろうか。彼の屋敷にもこれと似た、しかしもっと小さな祭壇が設けられており、そこで伴雅は毎夜のように呪いの念を鏡に込めているはずである。
「それが、割られたのか……」
「いかが致しましょう」
 浅葱に問われ、蘇芳は答えた。
「お前は休むが良い。……もう、この件からは手を引いたほうが良さそうだ」
「はっ」
 さがっていく浅葱の背に向けて、蘇芳は声を掛ける。
「浅葱」
「はい」
 振り向いた彼の顔には、疲労の色が濃い。
 今一体何が起こっているのか、蘇芳にも把握できていない。だが、ひとつだけ分かっていることがあった。このまま術が返されず、自然に消滅すれば浅葱は無事にすむだろう。しかし、結果的に術が跳ね返ってくることになれば……浅葱は死ぬかもしれない。
「いかがなさいました、蘇芳さま」
 蘇芳の身代わりとなって死の危険にまでさらされているというのに、浅葱の瞳は真っ直ぐに彼を見て疑うことを知らない。
「お顔の色が優れませんが」
「……いや、大事ない」
 そして蘇芳はぽつりとつぶやいた。
「すまない」
 ――それは浅葱に向けて言った言葉なのか、それとも紫苑に向けて言いたい言葉なのか……蘇芳にも良く分からなかった。

  四

 「桔梗」の放った水の刃に、呆気ないまでに鏡が両断される。彼女は屋敷に入るやいなやまっすぐにこの部屋まで来て、伴雅が止める暇もなく祭壇を破壊したのだ。
「何を……!」
 声を震わせる伴雅に、「桔梗」は嫣然と微笑む。
「これが呪いの元なのだろう? 紫苑が随分悩んでいた」
「…………っ」
 鏡の切断面からは黒い霧のような物がもやもやと出てきていている。思わず伴雅がそれをじっと見つめていると、
「これは」
 「桔梗」は一抱えほどの水の球の中へとそれを吸い取った。
「お前の呪いの念だ」
「…………」
 美しい水の中でどろどろとしたその黒いものが次第に形を変えていく。「桔梗」は表情に微笑を含みながらその様子を見守った。やがて、それは小さな一匹の海蛇の形になる。そして、赤い一対の眼がぎろりと伴雅を睨んだ。
「ひっ」
 伴雅が小さく息を呑んだ。
「想いは持ち主の元へ」
 「桔梗」は水の球を軽く掲げる。
「返さねばならぬな」
 海蛇が水面から飛び出し、伴雅の胸元に飛び込んだ。
「あああああああああああああ!!!」
 広い屋敷内に響き渡った絶叫。それを、紫苑は伴雅邸の門の前で聞いた。