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伴雅の巻 第六章

  一

「危ない!」
 咄嗟に紫苑は雅哉の前に飛び出した。伴雅の右手の爪が伸び、紫苑の衣を切り裂く。
「紫苑!」
 「桔梗」が声を上げ、伴雅を蹴り飛ばした。
「この下衆が……!」
 傷口を押さえた紫苑の手が赤く染まるのを見て、「桔梗」の眼差しが冷たい怒りに燃える。
「伴雅」
 床に転がった彼に向かい、雅哉が名を呼んだ。
「ぐぐ………」
 伴雅の歯がかちかちと打ち鳴らされ、その隙間から細長い舌がちろちろと見えた。時折ひゅう、という音と共に鬼火が唇を焦がしている。その姿は生成り――もののけとひととの狭間に、伴雅はいるのであった。
「紫苑殿どの」
 雅哉がぽつりと口を開いた。
「伴雅と話がしたい」
「しかし、雅哉どの」
「良いのだ」
 す、と紫苑の手を退けて雅哉は顔を上げた。
「これ以上貴方の手を煩わせるのは忍びない」
「何をおっしゃいます!」
「良いのだ」
 雅哉は今一度繰り返した。
「あれは私の弟なのだから」
「…………」
「あれにとって、私は唯一の兄なのだから」
「…………」
 雅哉はゆっくりと視線をめぐらし、「桔梗」を見つめた。
「水龍……か」
 ぽつり、とその言葉を唇に載せる。陰陽の知識に通じていない雅哉でさえ、その存在については良く知っている。強大な妖力を持つ四天王の一。滅びたはずの一族。
 紫苑は言葉を失くし、ただ雅哉を見つめていた。このことを宮廷に報告されれば――おそらく自分は反逆者として処罰されるであろう。下手をすれば命はない。それはおそらく彼女とて同じこと……いや、彼女はきっと大人しく殺されまい。
「…………」
 雅哉はそのまま何も言わず、「桔梗」から目をそらした。一歩ずつ、伴雅の方へと踏み出す。
「兄……上」
 伴雅は搾り出すように呻いた。
「来てはなりませぬ……」
「伴雅」
「どうか……」
「伴雅」
「兄上!!」
 伴雅の爪が再び伸び、空に白刃の煌きにも似た軌跡を描いた。
「あ……!」
 血飛沫が飛ぶ。だがそれは雅哉のものではなかった。伴雅の右手に深々と突き立っていたのは、彼自身の左手の爪だったのである。
「伴雅!」
 雅哉は駆け寄り、伴雅の頭をぎゅっと抱いた。
「何をするのだ……手を、手を離しなさい」
「いけません、兄上」
 伴雅は呟いた。
「この右手を離せば、きっと兄上を切り刻んでしまいます」
「……それで」
 雅哉の眼から涙が零れた。
「それでお前の気は済むのか」
「え……」
「私がいなくなれば、お前はしあわせになれるのか」
「…………」
「お前がそれを望むなら」
 雅哉は伴雅を深く抱きしめた。
「この兄を殺すが良い」
「雅哉どの!」
 紫苑が声を上げるが、「桔梗」はその腕に触れて彼をとどめた。
「桔梗……」
 「桔梗」は冷淡に笑う。
「好きにさせてやればいい」
「しかし!」
「伴雅」
 焦る紫苑をよそに、雅哉は伴雅に優しく語り掛けた。
「忘れるなよ」
「何を……です」
「私はお前の兄だ」
「…………」
「お前がいくら私を憎もうと……私がお前を憎むことはない」
「…………」
「いつまでたっても、私にはお前の幼い頃を忘れることができないのだ」
「…………」
「覚えているか。初めて私をお前が会った日を」
「…………」
「お前は新しい袴を泥だらけにしていたなあ」
「……あ……」
 伴雅が小さくつぶやいた。
「あの時、代わりの袴を用意させたのは父上だったのだよ」
「父……上が」
「そうだ」
「私のために……?」
「勿論。お前の名をつけたのも父上だ。私と、父と共通の文字……『雅』を与えてな」
「…………」
「私には沢山の異母兄弟がいるが、その中ではお前が一番年近い。父上もそれは良くご存知で、だからこそ」
 ――ともまさ。
「私とともにあるようにと……」
「…………」
「伴雅。確かに私の父上はお前の母親を捨てた」
 伴雅の体がびくりと震える。
「男と女とはそのようなものだ。所詮他人でしかない。そのことは私にも良く分かっている。酷いことだが、どうしようもない」
「…………」
「しかし」
 雅哉は伴雅を揺すぶった。
「親子や兄弟は、違うのだぞ。どのようなことがあっても決して切れぬ縁なのだ。少なくとも、私はそう思っている。お前は違うのか」
「……あに、うえ」
「だから」
 雅哉の指が伴雅の涙を拭った。
「もう、やめぬか」
「…………」
「その手を離せぬか」
「……私は」
 伴雅は幼子のように首を左右に振った。
「私は……」
「お前には私は殺せぬ」
「…………」
「お前を死なせたくないのだ」
「あ……」
「なあ、伴雅……」
 雅哉の頬を伝った滴が伴雅の肩に落ちる。
「……兄上」
 伴雅は口元を震わせた。
「私は……私は」
 紫苑がはっと顔をあげた。袖の中で印を結び、呪を唱え始める。
「私は!」
 伴雅はがくん、とのけぞった。
 ――怖かった……!
 伴雅の大きく開いた口から何かが飛び出した。

  二

 兄上の背中はいつも私の前にあった。いつか置き去りにされてしまうのではないか、見捨てられるのではないかと……怖かった。父に捨てられた母のように。自分も、いつか……きっと。
 ――それならば、私から兄上を切り捨てればいい。
「本当は……」
 伴雅はつぶやく。
「……手を、伸ばして」
 ――兄上に届かせたかった。兄の補佐として立派な人物になりたかった。しかし兄は常に自分の一歩前を行く。決して届かない。
「私では駄目なのだと思ったとき……憎かった」
 兄が――自分が。
「そんなことはない」
 雅哉は言う。
「お前の為にも、私は立派な兄でありたかったのだ」
 伴雅の眼が大きく見開かれる。
「……兄上」
「こんなにも……すれ違うとはな」
 雅哉の手がそっと伴雅の額を撫でた。
「…………」
 伴雅の唇がすっと円弧を描く。穏やかな笑み。
「……そう……ですね……」
 そのまま彼は眼を閉じた。
「伴雅……?」
 雅哉の呼びかけにも答えぬ。雅哉は乱暴に肩を揺すった。
「伴雅!」
「放っておけ。意識を失っているだけだ」
 掛けられた声に、雅哉はびくりと体を震わせた。振り向いた先に立っているのは銀髪の美しいあやかし。紫苑は彼女を押しのけるようにして、雅哉の前に屈んだ。何かその両手に包まれているものがある。
「それは……?」
 雅哉に問われ、紫苑はそっとその手を開いた。そこには一包みの灰。
「伴雅どのの身に巣食っていたもののけにございます」
「おお」
「伴雅どのが自ら体外へと追い出して下さいましたので」
「……そうか」
 雅哉は大きく息をついた。
「……紫苑どの」
 雅哉は伴雅の頭を抱いたまま彼を見上げた。
「ご迷惑をお掛けしたついでに、一つお願いがあるのです」
「何でしょうか」
「……どうぞ、今回のことはお上には内密に願いたい」
「は」
「家人どもには私から申し渡しておきます。紫苑どのにご迷惑の掛かることはございません」
「わかりました」
 紫苑は頷いた。今回のことが露見すれば蘇芳らの立場も危うくなり、ひいては御門家全体の問題ともなり兼ねない。ただでさえ半妖である自分を嫌う宮中の者たちは、それこそ鬼の首でもとったように御門家現当主を非難するだろう。
「それともうひとつ」
 雅哉は視線を「桔梗」に向けた。
「その……あやかしのことです」
 薄い水色の瞳がじっと雅哉に固定される。切れ長の怜悧な双眸の持つ威圧的な力に、雅哉はじわりと汗ばむのを感じた。
「雅哉どの……」
 紫苑の声が遠く感じるほどに、圧倒される。
「私は」
 「桔梗」は不意に口を開いた。
「紫苑に迷惑を掛けたくはない」
「……え?」
「不要な殺生を紫苑が厭うなら、約束しよう」
 厳かとも聞こえる口調で、彼女は言った。
「ひとの世の秩序を荒らしはしない……と」
「まことか」
「私は水龍族の正当なる末裔。そして選ばれし『御子』だ。言葉を違える事はない。それに」
 「桔梗」は皮肉げな笑みを浮かべた。
「あやかしは『ことば』の持つ本当の力を知っている。ひとと違い軽んじはせぬよ」
「……雅哉どの」
 紫苑が口を開きかけるのを、雅哉は手で制した。
「もし……私が否といえばどうする」
 じっと彼女を見据えて問う。
「簡単なことだ」
 「桔梗」はいっそ穏やかとも言える笑みを浮かべた。
「私を目撃した者たちをひとり残らず殺せばいいだけのこと――」
「桔梗!」
 紫苑は「桔梗」の腕を掴んだ。彼女はふわりと振り向く。
「お前……!」
「何がいけない?」
 「桔梗」は水色の瞳を微笑ませていた。
「私は生きようとしている、それだけのことではないか。人間たちとて生きるためには多くの動植物を犠牲にしているだろう? それだけではない。我々あやかしの死の上に今日のひとの世の平穏があるのは事実」
「しかし」
「それに、今の場合はただこの男が秘密を守れば良いだけのこと」
「…………」
「どうだ?」
 雅哉の額から脂汗が滴った。ゆっくりと彼は頷いてみせる。
「ありがとうございます」
 紫苑は深々と頭を下げた。「桔梗」はその姿を見て少し寂しそうに眉を寄せ――やがてその体の支配権を手放した。