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伴雅の巻 第五章

  一

 騒然としている屋敷の中を駆け抜けながら、紫苑は見覚えのある従者の顔を見つけて声を掛けた。
「女子供を連れて屋敷から出ていろ。危険だ」
「しかし伴雅さまが……!!」
「彼のことは私が何とかする」
「…………」
 一瞬の逡巡の後彼は頷いたが、その時には紫苑は再び駆け出していた。
「桔梗!」
 先ほど聞こえた絶叫は恐らく伴雅のもの。ならば恐らくそこに「桔梗」は居る。
「ききょ……」
 奥まった部屋の前、紫苑は足を止める。――「彼女」が居た。足元には苦悶する伴雅の姿。皮膚の色がどす黒く変色している。
「伴雅どの!」
 駆け寄ろうとした紫苑の目の前に、「桔梗」がふわりと降り立った。
「桔梗……!」
「殺しはしていない」
 美しい眼差しの中に一際凄絶な光を宿し、「彼女」は紫苑の乱れた髪に触れる。
「ただ、返しただけ」
「何を……だ」
 視線を「桔梗」の瞳に吸い寄せられたまま、紫苑は祭壇が破壊されていることに気がついた。
「術を返したのか――?」
 蘇芳が名を使った浅葱という男を思い出す。彼の生死を思って顔を強張らせた紫苑に、「桔梗」は首を横に振った。
「返してはいない。術者が死んだら、紫苑は嫌がるだろう?」
「…………」
「この男と術者の間にあった念の流れを断ち切っただけだ。そして」
 「桔梗」は伴雅に冷ややかな目を向けた。
「呪いの念をこの男に返した」
「……ぐ……っ」
 伴雅は蹲って脂汗を流し、苦しげに息をついている。言葉を出せるだけの余裕はないようだ。「桔梗」は伴雅の目の前に軽く膝をつき、屈み込んだ。
「苦しいか?」
 長い銀髪がさらさらと零れる。伴雅はかろうじて顔を上げた。
「お前が今苦しんでいるのは、お前自身の呪いの念によってだ」
「わ……私……自身の?」
「そう」
 「桔梗」は頷く。立ち上がり、紫苑をちらりと見遣った。微笑んでいる。
「……この男が本当に呪っていたのは誰なんだろうな?」
 ――その答えを、既に紫苑は知っているような気がしていた。

  二

 牛車に乗り込み伴雅の屋敷へと向かっていた雅哉は、長らく体を覆っていた痛みと重さが同時に消え失せたのを感じていた。だが、その顔は晴れない。
「……何故」
 そう問われて、心当たりが全くないとは――残念ながら言えない。妾腹として常に日陰の身であることを余儀なくされた伴雅とは違い、彼の母親は藤原時雅の正室であった。しかも皇族である――生まれながらにして境遇が違った。しかも、伴雅の母の両親は早くに亡くなったと聞いている。婚姻生活において、経済的な負担は全て女の家が背負うもので、その親を亡くした女がどうなってしまうか――想像には難くない。
「しかし……」
 雅哉は何かと伴雅の面倒を見てきたつもりだ。母親が違うとはいえ、彼にとっては兄弟に違いないのだから。伴雅も雅哉を慕っていたはずだ。少なくとも彼はそう思っていた。それなのに何故……。
 いつだって思い出せる。泥にまみれて泣きそうになっていた幼い弟の顔を。初めて時雅の屋敷にやってきた伴雅――幼名は確か「ともや」とか言った――は雨上がりのぬかるみに足をとられて転び、一張羅だっただろう袴をどろどろにしてしまったのだ。
 彼はあらかじめその少年が弟だと知っていたせいもあって、あまりに可哀想で見ていられず、父にせがんで新しい袴を用意させた……。いや、実のところ父親とてそれを見て平静ではいられなかったのだ――なぜなら、伴雅と時雅の顔はとても良く似ているのだから。
 時雅と雅哉。時雅と伴雅。それぞれが良く似ている。そして、雅哉と伴雅も……。
「急げ」
 雅哉は童を叱咤した。鞭が唸る。牛車は一際激しく揺れながら速度を速めた。

  三

「うん?」
 立ち尽くしていた紫苑が、眉を顰めた。うずくまったままの伴雅に、微妙な変化が起こっている。噛み締められた歯の間から、ちろちろと青白い炎が立ち上っているのだ。
「そういうことか」
 「桔梗」はにやりと笑った。
「おかしいとは思ったのだ。たかが人間の呪いの念……いくら強いとはいえ、そう簡単に蛟の姿など取れるはずがない。こいつの身には、何かが巣食っている」
「…………」
 どこか腑に落ちぬものを感じながら、紫苑は口中で真言を呟き、袖から呪符を取り出した。一閃、紫苑の投げた符は伴雅の周辺で前触れもなく破れる。目に見えぬ雷光に切り裂かれたようにも見えた。
「何……?!」
 紫苑は警戒を強めた。伴雅の体内では未だ嵐が荒れ狂っている。
「ぐぐぐ……」
 肩甲骨の辺りが盛り上がったかと思えば凹み、続いて腹が突き破られそうなほど膨れた。
「……これは」
 紫苑はつぶやいた。
「手が出せぬ……」
 ――伴雅の体内にもののけが居たとして、何故蘇芳はそれに気付かなかったのか。紫苑は先ほど不思議に思った。いくら引退したとはいえ、蘇芳は間違いなく有能な陰陽師である。その彼が気配を感じ取れなかった、その事実が意味するところはふたつ。ひとつの可能性は、そのもののけが取るに足りぬほどの妖力しか持ち合わせていなかった場合。もうひとつは……。
「ふん」
 伴雅を見下ろす「桔梗」は小さく鼻を鳴らした。
「自らの意志で己を苦しめているのなら、紫苑がいくら助けてやりたくともどうしようもないな」
「私の……意志で?」
 伴雅が喘ぎ喘ぎ言う。
 「桔梗」はその表情から笑みを消した。なまじ造形が美しく整っているだけに、その双眸は鋭利な厳しさを漂わせる。
「お前の体内にはもののけが棲んでいる」
「……もの、のけ」
「お前の負の感情に吸い寄せられてやってきたのであろうが……」
「ふ、の?」
「伴雅どのが」
 紫苑が口を挟んだ。
「誰かを憎む気持ちです」
「だれ、かを……兄を?」
 ――だから、呪いを掛けた。
「そうか?」
 「桔梗」は問う。
「私は先ほどお前に呪いの念を返したと言ったな」
「……あ、あ」
「ならば何故……お前の兄に向かって飛び出して行かぬ? いつまでもお前の胸のうちに留まってお前を苦しめる?」
「…………」
「誰かを呪うものは」
 紫苑はゆっくりと言った。
「自分をも呪うものです。それが誰かを呪うことに対する無意識のうちの自責の念から来るのか、それは私にも分かりませぬ。しかし」
「…………」
 ――いつしか伴雅の体の変形は収まっていた。
「貴方の場合は――そういうことではない」
「わたし……は」
「お前は何故そうまでして自分を苦しめる?」
 「桔梗」の声に穏やかさが生まれた。紫苑ははっと彼女の横顔を見つめる。相変わらずその表情は厳しいが、瞳は和らいでいた。水龍族を束ねるべく生まれた「御子」――青龍の魂を宿す特別な存在。その器の大きさを感じさせる。不用意にその存在に触れれば指を切り落としてしまいそうな鋭利な殺意と同居して、何ともいえない威厳を醸し出していた。
「わたしは」
 伴雅の眼から涙がこぼれた。ぎらついていた瞳が、清らかな液体に覆われている。
「私は生まれてきてはならなかったのだ」
「……何故」
「私が生まれたせいで、母は不幸になった」
「…………」
 紫苑は胸にちりりとした痛みを感じた。彼自身にも覚えのある、痛み。――それは昔、宮中で聞いた噂。鳳凰族と伝えられる彼の母は、彼を産んだ後精神に異常をきたし、そのまま行方を眩ませたという。一族を絶滅へと追いやった憎い人間の子供を産むということ、そのことはどれほど母を苦しめただろうか。そう思うと、紫苑はいたたまれなくなる。
 「桔梗」はそんな紫苑の横顔を見遣っていたが、やがて伴雅に向き直った。
「お前の母は、お前を憎んだのか」
「……いや」
「お前に恨み言を言ったことがあったのか」
「……ない」
 伴雅は身を振り絞るようにして言った。
「私を愛してくれた。愛してくれたが、……いつだって泣いていた」
 ばっと顔を上げる。その顔色は真っ赤になっていた。
「私が居なければ、別の伴侶も見つかっただろう。あんな風に寂しく、荒れた家で死んでいくことなどなかったのだ」
「では」
 「桔梗」は言った。
「お前がもののけに体を食い破られることを、お前の母は望んでいるのか」
「…………」
「里子に出すこともせず、己が手ずから育てたお前が、そんな風に苦しむことをお前の母は望むのか」
「…………」
 紫苑は一歩伴雅に近づいた。ぴくり、と伴雅の体が震える。
「貴方が自らもののけを体から追い出したいと願って下さらなければ」
 紫苑は再び呪符を手に取った。
「貴方の苦しみを取り除いて差し上げることはできませぬ」
「…………」
「伴雅どの、どうか」
 そのとき、廊下を駆ける足音がした。
「伴雅!!」
 飛び込んで来たのは――藤原雅哉。紫苑の体に緊張が走った。
「……兄上」
 伴雅の眼の色が、変わる。