instagram

伴雅の巻 第二章

  一

 暫く考え込んでいた紫苑は、やがて手を高く打ち鳴らした。どこからともなく現れた黒衣の男が、中庭に畏まる。紫苑は口の中で呟くように、彼に何事か囁きかけた。
「……承知仕りました」
 男は低い声で頷き、その場を立ち去る。桔梗は不思議そうにその背中を見送った。
「紫苑、あの人は誰?」
「あれも式神だ。名は羽櫻(はおう)。真の姿は鴉なのだが、この庭で子育てをすることを許した代わり、こうして一族の長が仕えてくれる」
「からす……」
「桔梗」
 紫苑は彼女に向きあうように座り直した。
「呪いとは、何だと思う?」
「呪いって、憎い相手に何か良くない事を起こすために行われるもの……ですよね」
 考え考えしながら、桔梗は言う。だが、紫苑は緩く首を横に振った。
「呪いの本質は、もっと別のところにあるのだ」
「別……?」
「そう」
 紫苑は桔梗のふっくらとした掌に、「呪」という文字を書いた。
「ひとが誰かを呪う時、その者は必ず無意識の内に自分をも呪っている」
「自分を……?」
 桔梗の長い睫毛が瞬いた。
「どういうことですか?」
「…………」
 紫苑は少し眼を細めて桔梗を見つめる。
「できればお前にそのような感情を知って欲しくはないと思うよ」
「…………」
 大きな手が桔梗の銀髪をくしゃくしゃと撫でた。
「自分を呪う気持ちほど、どうしようもないものはない」
「自分を、呪う?」
 桔梗の青い視線が紫苑を捕らえる。
「つまり、自分を憎むということだ」
「…………」
 彼女は少し首を傾げて何事かを考えたようだった。やがて、ぽつりとつぶやく。
「もし紫苑が自分のこと嫌いになりそうになっても」
 一度言葉を切り、はにかむように顔を伏せた。
「私は、紫苑を嫌いにならないから」
「…………」
「だから、その……」
 顔を赤らめて深くうつむく彼女に、紫苑は苦笑した。
「……大丈夫だ。私は誰のことも呪いはしない」
「うん」
 腕にしがみつく暖かな温度。紫苑はそれを受け止める。――たとえ自分を愛せなくても、私は大丈夫。今までも、これからも、私は愛などなくても……。
「紫苑?」
 桔梗が顔を上げる。
「……いや」
 紫苑は首を振った。
「何でもない」
 桔梗は紫苑をじっと見つめる。その横顔はひどく寂しそうで、桔梗はぎゅっと彼の手を握りしめた。

  二

 紫苑の元を辞した羽櫻は身を翻して烏の姿へと戻り、藤原雅哉の屋敷の屋根に止まった。黒く澄んだ眼が、じっと中の様子をうかがう。
「雅哉さま」
 彼の北の方の声が聞こえ、羽櫻は耳を傾けた。
「ご気分はいかがでいらっしゃいます?」
 妻に付き添われるようにしてようやっと中庭に出てきた雅哉は、やや蒼白い顔をしていた。
「……ああ、今は少し良いようだ」
 霊鳥である羽櫻が近くにいることで、呪いの波動が少しは中和されているのだろう。しかし、完全には打ち消せていない――羽櫻は喉の奥で小さく鳴いた。
「流行り病ではない、と薬師が申しておりましたが」
「ああ、流行り病の症状とは明らかに違う。それに」
 雅哉は眉を寄せる。
「何かが……おかしい」
「何がです」
「…………」
 雅哉の目が羽櫻を捕らえる。だが、それは一瞬のことですぐに眼は逸らされた。
「近頃、夢を見るのだ」
「夢を?」
「ああ」
「どんな、です」
「幼い頃の夢だ」
 雅哉は微笑を浮かべる。
「父上や母上と共に暮らしていた頃の……な」
「おしあわせな思い出が沢山おありなのでしょうね」
 雅哉はどこかあどけない表情で微笑んだ。
「ああ」
「それが、今回のことと関係ありますの?」
「……さあな」
 雅哉は緩く左右に首を振った。
「私には分からん。その道の者でなければな」
「その道の者、とは」
「決まっている」
 雅哉は妻を見つめた。
「陰陽師だ」
「陰陽師」
「……そう」
 雅哉はもう一度、羽櫻を見た。
「御門家当主になら……分かるやも知れぬな」
「あの人妖の世話になるのですか」
 眦をきっとあげる妻の腕を、雅哉は軽く叩く。
「そうまで言わずとも良いではないか」
「今回のことも、あの男が何か術を掛けているのやもしれませぬのに」
「……あれはさほど馬鹿な男ではない」
 雅哉は苦笑を浮かべた。
「私は彼を昔から知っている……あれはなかなかどうして、大した男だよ」
「でも」
「もう良い」
 妻を遮った雅哉は下男を一人呼び、何事かを言いつけた。
 羽櫻は一声鳴いて屋根を飛び立つ。もうすぐ雅哉からの使者が来ると、主人に知らせるために。

  三

 背後から気配が近付いて来ていたが、蘇芳は振り向く気にもなれなかった。
「お疲れですか、蘇芳どの」
「…………」
 声を掛けられて仕方なく振り向くと、そこにはやはり藤原伴雅が居た。ここ数日、彼は毎日蘇芳の屋敷に現れる。優雅な物腰は兄の雅哉と同じく貴公子然としているが、穏やかに微笑む眼の表面はぎらぎらと油膜が張ったように光っていた。――蘇芳の背にぞくりと冷たいものが這う。
「呪いは効果を表しているようですね」
 手に持った扇をぱちり、ぱちりとさせながら、伴雅は言った。
「兄は一昨日から伏せっているようですよ」
「左様ですか」
「流石は蘇芳どの……兄の髪の一房を渡しただけで、このような」
「陰陽師ですからな」
 蘇芳は目を伏せた。――紫苑がこの呪いに気付くのも時間の問題だ。そうすれば、彼はきっとこの呪いを解こうとするに違いない。それこそが彼の仕事、彼の役目なのだから。
 私は紫苑には勝てない。蘇芳は苦々しくもそれを認めていた。陰陽術の力量は、ほぼ生まれつきの才能によって左右される。蘇芳は紫苑と術の応酬をやり合うつもりはなかった。いくら伴雅に御門家の不祥事を握っていると脅されようと、自らを危険にさらす気はない。
 しかし、水龍がまだ生きているとは……。水龍族と戦ったとき蘇芳は未だ御門家当主であり、紫苑は幼子であった。蘇芳が経験したあやかしとの戦いの中で、水龍は最も苦戦した相手である。奇策を使ってかろうじて勝つことができたが、もし本当に生き残りがいたとしたら――考えるだけでぞっとする。
 とにかく――今回のことが露見しても、御門家には累が及ばぬよう手は打った。
 伴雅は微笑を浮かべたまま蘇芳を見つめている。――この男を狂わせたものは何なのだろう。蘇芳はふと思った。妾の子として冷遇された恨み? 出来の良い兄への妬み? それとも……。
 蘇芳は伴雅に一礼した。
「失礼。所用がありますので出かけ申す」
「おや、そうですか」
「私が居らぬ間の祭壇の管理は、これに任せておりますので」
 背後を目線で指し示す。そこには二十歳前くらいの若者が居た。
「若いが有能な陰陽師で、私の弟子です」
「お初にお眼に掛かります」
 男は深々と頭を下げた。
「浅葱と申します」
「あさぎ、」
 伴雅は穏やかに笑って手を差し伸べた。
「……よろしく」

  四

 雅哉の使者が帰った後、紫苑は文机に肘を突いてため息をついた。
「明日お伺いします」
 とのみ告げておいたものの、症状を聞けばそれは明らかに呪いによるものだ。
「蘇芳は何を考えている」
 自分と敵対するつもりだろうか。そんな訳がない。蘇芳は確かに自分を疎んじているが、彼の力が紫苑のそれに遠く及ばないこともよく知っているのである。
「……分からぬな。弱みでも握られたか」
 つぶやいたとき、羽櫻がゆらりとその姿を現した。
「何事だ?」
「お越しにございます」
 からから、と牛車の音が聞こえてくる。紫苑が眉を顰めるのと同時に、羽櫻が言葉を継いだ。
「御門蘇芳様」

 馨に先導され、蘇芳が座敷に姿を見せた。もう随分会っていない義理の父親が目の前に現れたところで、紫苑の心は全く動かない。義父に愛されないことを悩んだ時期など、記憶にもないほど遠い昔のことだ。
「父上」
 それでも、面と向かっては一応こう呼ぶ。
「お久しぶりにございます。お見受け致すところお変わりなきようで」
 淡々と挨拶をする紫苑に、蘇芳は苦い顔をして言葉を挟んだ。
「用件を言おう」
「……はい」
「お前も気付いているのだろう」
「…………」
 紫苑は緩く首を縦に振った。蘇芳はしばらく口をつぐみ、やがて唐突に問い掛けた。
「水龍の子供を――飼っているのか」
「……は?」
 紫苑の顔色が目に見えて変わる。蘇芳は苦々しげに顔を歪めた。
「お前は自分の立場が分かっていないようだな」
「……存じておりますが」
「分かっておらぬ!」
 蘇芳は語気を荒げた。紫苑が一瞬怯んだところに、言葉を重ねる。
「お前を眼の敵にして、色々と見張らせている公達もおるのだぞ! そういった者たちにとって、お前があやかしを匿っているなど――それもかつて朝敵とされた水龍を……!」
「では」
 紫苑の声のその鋭さに、蘇芳は思わず言葉を切った。彼の紫電の瞳が焔を宿している。――幼い頃から変わらぬな……。不意に蘇芳はそんなことを思った。真っ直ぐな、信念を宿す視線は強く、見る者の心の疚しさを暴く。
「私が殺されなかったのは何故です」
「何?」
「私も鳳凰族の血を引く――謀反人の血を引く者でしょう。何故殺されなかったのです」
「それはお前の父親が」
 言いかけてはっと息を呑む。蘇芳の顔が音を立てんばかりの勢いで青ざめた。
 紫苑はそれ以上そのことについて追究するつもりはないらしく、すぐに話を元に戻した。
「私の拾ったのは幼子でした……しかも完全に記憶を失っております。私の元で養育すれば、ひとに仇なす存在とはなりませぬ」
「……何故言い切れる。いや、むしろそれを皆が信用すると思うのか」
「このことをご存知なのは父上と他にもうひとりだけ……」
 紫苑はすっと眼を細めた。
「問題にはならぬでしょう」
「し、しかし」
「そのことで父上は脅されている、と。意に染まぬ呪いを掛けているのもそのせいですか」
「…………」
 紫苑の洞察力に辟易しながら、蘇芳は頷いた。
「……では、呪いの掛け方が妙に稚拙なのは」
「気付いていたか」
「今日、使いの者から雅哉どのの症状を聞きましたから」
 紫苑はやれやれといったように肩をすくめた。
「とりあえず伴雅どのを納得させるために、というわけですか」
「それだけではない」
 蘇芳は声を低めた。
「あの男は危険だ。それに……お前に対する敵愾心は並々ならぬものがある」
「どうなさるおつもりです?」
 ごくり、と蘇芳は唾を飲んだ。
「私の弟子に浅葱、という者が居る。身寄りのない孤児で」
「私と同じですね」
「同じではない。彼にはお前のような才能はない」
 蘇芳はそう言い切り、紫苑の顔を伺うようにして見遣った。
「私は……呪いを掛けるとき、彼の名を使った」
「なんですって?」
 呪いなどの術の契約は、名を介して行われる。通常、陰陽師たちは自分の持つ隠し名を用いるのだが、今回まだたいして力のない見習いの名を使ったということは……。
「御門家前当主と現当主が争うなどという事態にはしたくない」
「……つまり」
「ああ、そういうことだ」
 紫苑はぎりと歯を鳴らした。このままでは浅葱は死ぬ。恐らく――契約者である伴雅も。
「お前が私の掛けた術を解けば……」
 ――つまり、
「私に……殺せと?」
 唸るような紫苑のつぶやきに、蘇芳が言葉を返すことはなかった。