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伴雅の巻 第三章

 翌朝、桔梗が起きると既に紫苑は出掛けた後だった。早朝に雅哉からの使いの牛車が来て、馨と共に雅哉の屋敷に向かったとのことだ。
「起こしてくれれば良かったのに……」
 ぼそぼそと文句を言いながら顔を洗い、菊の揃えてくれた食膳の前に座る。ちょうど箸をつけ始めたとき、背後から声を掛けられた。
「おはようございます」
 振り向くと、昨日見た羽櫻という名の式神が自分を見て穏やかに微笑んでいる。
「あ、おはよう……ございます」
 羽櫻はす、と膝を落として畏まった。
「紫苑さまに言い付かりました。貴方をお守りするように、と」
「私を? どうして?」
「それは」
 お食事をお続けくださいと言った後、羽櫻は簡単に説明した。
「貴方の存在は藤原伴雅に知られている。そして」
「そして?」
 羽櫻は少し視線を落として言う。
「ふつう、ひととあやかしが同じ場所で生きるということはない。貴方の存在を知れば、ひとは必ず貴方を排除しようとするでしょう」
「…………」
 排除されているのは、紫苑も同じかもしれない……。桔梗はぱたん、と箸を置いた。
「……ねえ、羽櫻さん」
 ぽつり、と言葉を唇に載せる。
「はい」
「紫苑は、ひとなの?」
「…………」
「それとも、あやかし?」
「…………」
 羽櫻は答えない。桔梗の斜め前に座る菊は困った表情でふたりを眺めた。
「もしかして」
 桔梗はつぶやく。
「今度のこと……私のせい……?」
「そういうわけでは」
 羽櫻が口調を強めたとき、
 ――たっ!
 彼の背後の壁に矢が突き立った。菊がはっと立ち上がる。
「曲者?!」
「ちっ」
 羽櫻もすぐさま飛び起き、どこからともなく長剣を取り出した。刃は黒く、鋭く輝いている。
「桔梗さま!」
「な、何?」
 桔梗は事態が飲み込めていないのか、目を大きく見開いて体を強張らせていた。
「失礼」
 羽櫻は片手を伸ばし、桔梗を抱えあげた。主である紫苑に桔梗を守れと言われたのだ。それが何にもまして大切な、優先すべきこと。
 荒々しく帳が切り裂かれ、覆面をした数人の武装した男たちが雪崩れ込んできた。
「あれだ!」
 そのうち一人が桔梗を指差す。
「あやかしだ! あやかしを殺せ!!」
「あ……!」
 あからさまな殺意にさらされ、桔梗の体が震えた。
 ――ぎん! 羽櫻は黒い刃で一人の刀を受け止め、打ち払う。そのまま返す刀で峰打ちにした。鈍い音は、おそらく彼の骨の折れた音だろう。言葉もなく男は横転する。
「きゃあ!」
 悲鳴に桔梗が振り向くと、別の男の刀によって菊が袈裟切りにされていた。血の一滴も零すことなく、菊の姿は虚空に消える。そのあとには、菊の花が――。
「菊さん!!」
 桔梗は叫んだ。
「桔梗さま!」
 羽櫻の腕から抜け出し、舞い落ちた菊の花を手に取る。ほんのりと甘い香りを漂わせる花。それは茎の部分を真っ直ぐに断ち切られており、やがてみるみるうちに――枯れ落ちた。
「菊さん……」
 桔梗の頭上に、男が刀を振り上げる。
「桔梗さま――!!」
 羽櫻の声が、遠くで聞こえた。

  二

 紫苑の勧めた薬湯を飲み、雅哉はふう、と息をついた。
「朝早くからすみませぬな」
「いいえ」
 昨晩急に症状が悪化したという。現在は落ち着いているが、頭が割れそうなほどに痛いという。――早急に何とかしなければ。紫苑は眉を顰める。
「紫苑どの」
「はい?」
 雅哉の声に、紫苑は顔を上げた。真っ直ぐな眼差しが、彼の紫電の瞳を見つめる。このように彼の眼を見つめるものなど、普通はいない。忌むべき色――ひとではないという印の色なのだから。雅哉は、紫苑が思っていたよりも器の大きな人物なのかもしれない。
「これはやはり、呪いによるものですか」
「おそらくは」
 紫苑は慎重に言葉を選ぶ。
「ふむ」
 雅哉はやつれた顔に緊張の面持ちを浮かべた。
「私は、死ぬのですか?」
「いえ」
 紫苑は首を横に振る。
「そのようなことはありません。術そのものは非常に拙いもの。現に」
 懐から取り出した細長い紙に、雅哉から借り受けた墨と筆で文言をさらさらと書き付けた。そのようにして作った呪符四枚を、掌底に乗せて軽く息を吹きつける。それらは軽く宙に舞い、東西南北の柱に貼り付いた。
「……失礼」
 右手で印を結び、左手を雅哉の額にあてた。紫苑の薄い唇がかすかに動くたび、雅哉の頬に血色が戻っていく。――やがて紫苑の声が最後の一音を発して消えいく頃には、あれほどまでにひどかった頭痛も治まっていた。
「おお」
 表情を明るくする雅哉に、紫苑は首を横に振った。
「お喜びになるにはまだ早過ぎます」
「何故」
「これを」
 紫苑は右手を開いてみせる。そこには黒い炎がちろちろと瞬いていた。
「そ、それは?」
「呪い手の……念です。そうとう強い」
 紫苑はきゅっと手を握り、その炎を四散させる。その様子を雅哉は呆然と眺めた。
「……つまり」
 紫苑はゆっくりと噛んで含めるように言う。
「その拙い術者に呪いを頼んだ者――その者の持つ貴方への負の感情。それが取り除かれぬ限り、貴方は呪いから完全に逃れることはできないというわけです。そもそも」
 紫苑は四枚の札を順繰りに眺めて、
「このままでは貴方はこの部屋を出られません」
「……誰なのだ」
 雅哉は呟いた。
「私をそこまで憎む者とは……」
「心当たりはございませんか」
「ない」
「そうですか……」
「調べていただけませんか」
 雅哉の言葉に、紫苑は彼の顔をじっと見つめた。
「調べることは、可能です」
 実際、彼は既にその男の名を知っている。
「しかしその者の名を貴方が知るということは、貴方とその者との間に念の繋がりができるということ」
「念の繋がり?」
「貴方がその相手に抱く怒りや憎しみ……そういったものが相手に流れていくのです。今はその者から貴方へ流れるだけの一方通行ですが、それが双方向に流れるようになります」
 紫苑はため息をついた。
「その、ひとの念の媒介となったり、もしくは障壁となったりするのが術を掛ける陰陽師なのですが……」
 彼我にこれほどまでの力量の違いがあるとするならば……。
「術者も、貴方に呪いを掛けた者も。おそらく無事にはすみますまい」
「…………」
 雅哉は黙って自らの指先を見つめている。
「いかがなさいますか。それでも、お知りになりますか」
「…………」
「雅哉どの」
 雅哉は顔を上げた。紫苑に向かい、力強く頷く。
「私は、知りたい」

  三

 閃光が、辺りを焼いた。
「くっ?!」
 羽櫻までもが一瞬眼を閉じてしまう。刀を構えていた三人の男は皆床に倒れ伏し、眼を庇いながら起き上がろうともがいている。
「ぎゃああああ!!」
 凄まじい悲鳴に羽櫻が驚いて眼を開けると――そこに水の龍がいた。体に合わない単から伸びる白い手足、風もないのに逆巻く銀髪。爛々と輝く青い瞳は研ぎ澄まされた刃物のような鋭さを宿す。翳した右手の先から迸る水の縄が、先ほど桔梗に切りかかった男の喉首をぎりぎりと絞め上げていた。
「愚か者が」
 「桔梗」がにっと笑った。紅も差さないのに赤く色づいた唇は、艶かしくも酷薄な笑みに歪んでいる。
「そんなもので、私を傷付けられるとでも?」
 「彼女」の視線が一瞬彼の刀に吸い寄せられ、やがて再び男の顔に向かった。
「『御子』たる私に刃を向けた罪――死を以って贖うがいい」
「あ――」
 声にならない絶叫。男の首は水によって切断され、床に転がり落ちた。血管が急速に収縮したためか、傷口から血は零れない。
「……ふ」
 「桔梗」は微笑み、辺りで硬直している三人の男のうちのひとりに視線を固定した。
「お前たち、どこから来た? 誰に頼まれた?」
「……い、言えぬ!!」
「…………」
 「桔梗」は面白くなさそうな顔で彼の全身をちらりと眺め、
「そうか」
 ――どん、という衝撃と共に、彼の胸には大きな穴が開いた。羽櫻は息を飲む。
「お前は? 言えるか?」
「ひっ」
 死体になど興味はないというように、「桔梗」は次の男へと視線を投げた。男は体中を走る震えを隠そうともせず、
「ふ、藤原伴雅さまだ」
「……そうか」
 「桔梗」は満足げに頷き、やがて視線を羽櫻に映した。今まで感じたことも無いほど強い妖気――羽櫻は激しい緊張で汗が滴るのを感じる。
「このふたり、お前に任せよう。殺すなり生かすなり好きにしろ」
「…………」
 ふたり、というのは殺さずに置いた侵入者のことらしい。
「これから少し、行くところがある」
「い、いずこへ?」
 情けないほどに上ずった声で羽櫻が尋ねると、「桔梗」はゆるく微笑んであっさりと答えた。
「藤原伴雅の屋敷へ」
 そしてあっという間に庭へ飛び出し――姿を消した。
「…………」
 羽櫻はひとまず生きている男たちを縛り上げ、次いで鴉の姿に戻り空に羽ばたいた。急いで紫苑に事態を知らせねばならない。放っておいたらあのあやかしは何をするか――。あの冷ややかな威厳を持つ美しい瞳で見つめられたときの恐怖と陶酔が、未だ羽櫻の体を震わせていた。