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伴雅の巻 第一章

  一

 ――からから、と。通りを牛車の進む音がする。濡れ縁で書物をめくっていた紫苑は、軽く顔を上げて音の方向を探った。誰か、自分に用事がある者かもしれない。
 都で怪異が起これば、大抵は自分のところに持ち込まれてくる。それが公のものであれば宮中にて相談を受けるし、私的なものであれば――こうして屋敷を訪れてくるのだ。
 秋が進んで屋敷の中庭は淡い枯れ草色になっている。紫苑はそこに視線を落とし、ため息をついた。
「菊」
 呼ぶと、ひとりの女房が音もなく彼の背後に現れ、畏まる。
「お呼びですか?」
「桔梗を連れて奥に行っていろ。彼女が見つかると厄介だ」
「はい」
 菊は頷き、姿を消した。
「…………」
 紫苑はもう一度ため息をついた。桔梗と出会ってから、既にひとつきが経つ。平穏に日々は過ぎていたが、それは実際まだ何ごとも起こっていないというのと同義だった。桔梗のこと、水龍のこと。彼女のうちに潜む青龍の魂のこと。そして――自分のこと。何も明らかにはなっていない。
「紫苑さま」
 季節が移り、藤野は役目を終えた。代わって現れたのがこの式神、馨である。
「ご来客です」
「誰だ?」
「女の方ですが」
「……女?」
 紫苑は眉を寄せた。
「名乗らぬのか?」
「はい」
「……通せ」
 紫苑は袖を払って立ち上がる。藤色の衣がはさ、と音を立てた。

 女は部屋に用意されていた帳の向こう側に座っていた。こちらから窺えるのは衣の裾だけだが、かなり高級な服地であることが分かる。――貴族の子女、か。
「突然お伺いして申し訳ありません」
 女は深々と頭を下げたようだった。声の調子からすると、紫苑より少し年上かも知れぬ。
「いえ」
 紫苑は言葉短かに告げると、正面に腰を下ろした。
「……さて、お話とは何でしょう?」
 女は躊躇うように身じろいだ。
「あの、内々にお願いしたく思いまして……、今からお話することは、どうぞお胸のうちに」
「承知しております」
 紫苑は無表情に告げる。声から自分への不信感がまざまざと感じられて、不愉快だった。――私がひとではないからか。相手に見えぬことをさいわいと、紫苑は苛立ちもあらわに顔をしかめた。
「…………」
 長い沈黙をはさみ、やがて女は口を開いた。
「まじない、を」
 一度息を呑むような気配の後、
「まじないを解く方法はありまして……?」
 思いつめた調子で問うてくる。
「…………」
 紫苑は眼を細めた。
「つまり、(のろ)いを解く方法を知りたいというのですね?」
「は……はい」
「その質問に答えるためには、幾つかこちらの問いにも答えていただく必要があります。差し障りのない範囲でお答えください」
「……はい」
「呪いを掛けられたのは誰です?」 
「…………」
 再び長い沈黙の後、女はぽとりと言った。
「藤原雅哉様」
「掛けたのは?」
「……それは、お許しくださいませ」
「術者の名前をお聞きしたいのです。依頼者ではありません。呪いを掛けるのにも鍛錬が必要、それなりの力を持った者が請け負っているはず」
「…………」
 躊躇う女に、紫苑は言葉を重ねた。
「術を解くためにはそれが必要なのです。早めに解決すれば、この件そのものを明るみに出さずに済むのですよ」
「…………」
「術を失敗すると、依頼者に累を及ぼす可能性もある。ご存知ですか?」
「まさか……!」
 女は大声を上げた。
「本当です」
 対照的に静かな声で紫苑は言う。
「……でも」
 女は苦しげな呼吸になって、
「でも、陰陽師の方であれば……きっと、上手にやって下さっているはずですわ」
「……陰陽師?」
 紫苑は聞きとがめた。
「陰陽寮の陰陽師が?」
 陰陽博士である彼が統治している陰陽寮。その中の者が彼に断りもなく危険な呪いを行うとは考えがたい。何しろ、紫苑は彼らの生年月日と出生地を把握しているのだ。生殺与奪の権を彼に握られているのも同然である。それが、何故こんなことを……?
「いえ、違います」
 女は覚悟を決めたのか、張りのある声で言った。どこか、紫苑を責めるような響きも伴って、
「術者は御門蘇芳さま。貴方様のお父様でいらっしゃいます」
 そう、言い切った。

  二

 ――女の泣き声が聞こえる。彼は夢うつつにその声を聞いていた。聞き慣れた、懐かしい声。だが、同時に胸を締め付ける悲しい声。――自分にはどうしても泣き止ませることができなかった、母の声。鷹狩で沢山の獲物を獲って帰ってきても、詩文で先帝より直々に褒められても、母の涙は涸れることはなかった。
 彼は父親に家で会ったことがない。彼が生まれた後、妾であった彼の母親の家に父親は寄り付かなくなった。
 兄のことを彼に教えたのは母親だった。そのときは何ということもなく聞いていた。成人して宮廷で会ったときも特に何とも思わなかった。兄は腹違いの弟をちゃんと弟として扱ってくれたし、時には彼の才能を素直に賞賛すらしてくれた。――あのまま普通の兄弟になれれば良かったのに。心のどこかで、そう思っている。それなのに……。
「兄上が悪いのだ」
 伴雅はつぶやいた。文机に散らした書類を押しやり、頭を抱える。
「貴方が私の邪魔をするから」
 その存在全てが目障りになった。自分より常に上位にある彼が、いつだって少しだけ優位に立つ彼が。
「邪魔なんだ」
 ――私の劣等感を刺激するから。
「きっと母も喜ぶ」
 今は亡き母親を思った。
「母があれほど憎んだ女の子供なのだから」
 ――だがその女の姪が私の正妻なのだと知ったら、貴方はどう言うのだろう。
「私は、愛している」
 兄も妻も母も、愛しているのだ。そんな彼がただ一人、愛せないもの。――それは、
「私自身だ」
 伴雅は絞り出すようにつぶやいた。そう――これは儀式なのだ。私が私を愛せるようになるための。

  三

 女が帰った後、紫苑は鳥型の式神を飛ばして彼女のあとをつけさせた。依頼者の名は要らないと言ったのは、嘘である。
「しかし……蘇芳が」
 彼はつぶやき、苦笑した。蘇芳のことを父上と呼ばなくなったのは、いつからだろう。実の父親ではないし、父親だと思ったこともない。蘇芳が欲しかったのは、御門家の家督を継ぐ優秀な陰陽師で、紫苑自身では決してなかった。家柄を存続させるためにはひとではない紫苑を手元に置くことすら厭わなかったという、ただそれだけのことだ。それほどまでに家柄に固執していた彼が、何故今になってこのような危ない賭けに出たのだろうか。
 誰が何と言おうと、藤原雅哉はときの実力者である。恐らく彼の父親が隠居すれば、次に実権を握るのは彼であろう。事実、彼の妹のひとりは既に中宮として参内している。そんな彼に呪いを掛けて、ことが露見すればただでは済まない。
「どういうことだ」
 視線を落とす。
「蘇芳を動かしたのは、一体誰なんだ」
 想像もつかない。
 ――この件は厄介なことになりそうだ。じっと考え込んでいると、背後からさらさらと衣擦れの音が近付いてきた。
「誰だ?」
 無愛想に問いかけると、足音がぴたりと止まる。
「…………?」
 無言が気になって振り向くと、そこには桔梗が立っていた。彼女の怯えたような表情を見て、紫苑は慌てて表情を緩める。
「すまない、少し考え事をしていた」
「……いいえ」
 首を左右に振り、桔梗はほっと息をつく。
「お客様だったんですか? 珍しいですね」
 と言って紫苑の隣りに座った。
「そうでもないぞ。ややこしいことになると、途端に他人の力を借りようとする輩は多いからな」
「ふうん……」
 桔梗は頷いて宙を見上げ、ふと、思い出したように紫苑を見た。
「菊さん、もう少ししたらいなくなってしまうんですか?」
「何?」
 紫苑は聞き返す。桔梗は目を伏せた。銀色の長い睫毛が小さく震える。
「藤野さんもいなくなってしまったし……、菊さんももうすぐお役目を終えるって言ってたから」
「……ああ」
 紫苑は頷いた。精霊とはその力の強い季節の間だけ契約を結んでいる。秋も深まってきたことであるし、菊はそろそろ消える頃だろう。無論、来年の同じ季節になればまたまみえることになるのだが。
「また、来年会える」
「でも」
「死ぬわけではない。しばらく眠るだけだ」
「…………」
 桔梗の手が紫苑の袖をつかんだ。悲しげな瞳の色に、紫苑は眉を寄せる。
「どうした?」
 桔梗は首を曖昧な方向に振り、俯いた。
「知ってる人がいなくなってしまうのは……寂しいことだから」
「…………」
「私の知ってる人は、紫苑と藤野さんと菊さんだけで……、最近馨さんとも知り合いになれたけど、でも」
 ――やはり、一番付き合いの長い式神は菊だった。
「そうだな。……お前が寂しく思うのも無理はない」
「…………」
「だがな、桔梗」
 紫苑は桔梗の頭に手を載せた。
「世に出会いと別れはつきものなのだぞ。一々心を痛めていては、身がもたない」
「……はい」
「式神たちはまた会える。心配するな」
「ねえ、紫苑」
 桔梗は紫苑をじっと見上げた。
「紫苑はずっとここにいるよね? どこにも行かないよね?」
 ――紫苑との別れなんて、ないよね? 真摯な青い瞳に見つめられ、紫苑は瞬いた。やがてゆっくりと頷く。
「……ここにいるさ」
 ――私には他に行く場所もないのだから……。その言葉を、紫苑は胸の奥深くに仕舞い込んだ。
 ちょうどその時、羽音と共に式神が帰ってきた。紫苑はそれを手に止まらせ、声にはならぬ報告を聞く。
「……何?」
 彼の顔色が変わった。
「紫苑?」
 桔梗の声が耳に入っているのか入っていないのか、紫苑は顔をしかめて顎に手をやる。
「……これはほんとうに、厄介だな」
 彼の脳裏に男の顔がよぎる――藤原伴雅。