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飢餓と怪

 都の郊外に物の怪が出る、と噂になったのはその年の秋のことであった。犬が食われたらしい、道に鳥の死骸がばら撒かれていたときくぞ、などの話がまことしやかに公達(きんだち)の間で囁かれた。そして、彼らは決まってちらちらと年若き陰陽博士を流し見るのであった。
 平安の世に現れた、稀代の陰陽博士――御門紫苑。彼はたいてい、一人で座している。無表情に庭を眺めていることも多い。まだ、二十歳は超えていない。人目を引くのは、その瞳である。
 紫電の瞳。ひとにはあり得ぬいろ。禁忌のいろ。ひととあやかしの間に生まれた、呪われたいのち。
 彼の父母が何者であるか、表立っては誰も語らぬ。知られていないからである。どうやら、彼の母親があやかしであったということだが、真実はわからない。
 とにかく――紫苑は半妖(ばけもの)である、と都人は結論づけている。それでいて彼を陰陽博士に据えたのは、彼の養父が先代の陰陽博士だったことと、何より彼が陰陽師として非常に優れていたからだ。まだ少年に過ぎない彼が、陰陽寮の誰をも圧倒する力を見せる。あやかしの血ゆえかとひとびとは噂し、彼を恐れ、蔑んだ。その矛盾に気付かぬひとびとに囲まれながら、紫苑は孤独に育った。公達の中にはただひとり、生涯の友となる男がいるが――それでもやはり、彼は孤独であった。
 その紫苑はというと、いつもの通りに聞くとも聞かぬともなく、公達たちの噂話を耳にしていた。
「その物の怪、角や牙の生えた、鬼のような姿をしていたと聞くぞ」
「馬も食われたとか。骨すらほとんど残っていなかったらしい」
「恐ろしいのう。いつわれわれも食われるかわからぬぞ」
「たちの悪い冗談はおやめくだされ」
「冗談ですめばよいがなあ」
 ――その公達の危惧が現実になった、翌日。紫苑に正式な命がくだった。その物の怪を調伏するように、というものである。
 食われたのは公達ではなかったが、確かにひとであった。以前から物の怪が出ると噂されていたあたりの、地主とその妻である。話通りに骨すらほとんど残さぬありさまであったが、一方妻の長い髪はごっそりと残されていたという。
 なぜそれほどまでに食うことに執着するのだろうか――紫苑はちらと不思議に思ったが、いずれにせよひとに仇なす物の怪を野放図にはしておけぬ。朧月の夜、紫苑はその物の怪が出るという、都の西に向かった。自ら馬を駆り、ひとりきりで向かう。ここでもやはり、彼はひとりであった。
 都大路から離れるにつれて人家が減り、田畑が増える。紫苑は冷たい風にその長い髪をなぶられながら、目を細めた。物の怪を恐れてか、あたりにひとけはない。虫の音だけが控えめに響いていたが、いつしかそれも消えた。
 ――しゃり、しゃり。しゃり。
 どこからともなく、奇妙な音が聞こえる。
 それに気付いた紫苑は馬を止め、鞍から降りた。とん、と馬の背を叩くと、それは一枚の紙になってはらりと地面に落ちる。紫苑はそれを懐に仕舞い、辺りを注意深く見回した。
 ――さく、さくり。
 これは、誰かが何かを食べる音だ。紫苑は袂から宝剣を取り出し、印を結んだ。
『――ギャアアアアアア!!』
 辺りに光が満ち、悲鳴が響いた。
『誰ダ! 食事ヲ邪魔スルノハ!』
 ずるりと、叢から頭をもたげる物の怪――髪は抜け、目は飛び出し、歯はほとんど抜け落ちてしまっている。口の周りは真っ赤に汚れているが、噂にあったような角や牙などは生えていなかった。ひどく小柄で、みすぼらしい格好の物の怪が二体、じっと紫苑を見つめていた。その足元には、馬だったであろうものの残骸が転がっている。たてがみと尾が、あたりに散らばっていた。
 紫苑は顔色を変えることもなく、彼らをじっと見つめた。
「……食事、か」
『腹ガ減ッテルンダ。腹ガ減ッテ』
 しわがれた声が、紫苑に向かう。
『邪魔ヲスルナ』
『邪魔ヲ』
『スルナラ』
「おい、待て」
 紫苑が声を上げた。宝剣はすでに懐におさめている。
「誰もお前の食事を邪魔するとは言っていない。話を聞け」
『…………』
 土気色の唇を引き結び、二匹の物の怪は押し黙った。紫苑との距離は、十数歩ほど。突然飛び掛かられたとしても、紫苑は彼らを倒せる自信があった。今はそれよりも――。
「お前たち……」
 紫苑はその紫電の眼を薄くすがめた。――この気配、あやかしではない。むしろ、……。
「記憶はあるか? ひとであった頃の……」
『…………』
 その言葉を聞いた物の怪は、顔を見合わせ――そして次の瞬間、汚れた顔をさらにくしゃくしゃにして、わあわあと泣き喚き始めたのだった。

 彼らが泣きながら語ったのは、簡単に言えば以下のような身の上話だった。――彼らはとあるおんなのもとに生まれた、双子であった。父親は誰かわからぬが、どうやら公達であったようである。だが、子供たちが五つになった頃おんなは捨てられ、やがて彼らは飢えるようになった。子供らを里子に、とのすすめをおんなは断った。やがておんなは病に倒れ、それでも彼女は子供を誰にも渡そうとしなかった。いくら言っても聞かないおんなに周囲のおとなたちも彼らを捨て置くようになり、そしてある日おんなは死んだ。子供らは飢えた。飢えに飢え、そして――。
『おれたちは、おっかあを食った』
 物の怪は泣く。
『食って、やがて死んで、気付いたらこうなっていた』
『腹が減って、腹が減って』
『食わずにはおられない』
『おれたちは死んだはずなのに』
『死にきれないのだ』
『どうしたらよいのかわからない』
『食っても食っても』
『腹が満ちない』
 彼らは交互に言葉を紡ぐ。
『食わせてくれと頼んでも』
『皆、悲鳴を上げて逃げた』
『だから、おれたちは』
『勝手に食った』
『食って、食って』
『なあ』
 ふたりはじっと紫苑を見上げた。
『あんたがはじめてだ』
『おれたちの話を聞いてくれた』
『あんたは誰だ』
『誰なんだ』
『助けてくれるのか』
『おれたちを』
『助けてくれるか』
『助けてほしいんだ』
「……腹は減っているか」
 紫苑の問いに、彼らはこくりと頷いた。
「そうか」
 紫苑は暫し黙考し、やがて懐から紙を取り出して折り始める。その様子を、二体の物の怪は黙っておとなしく見つめていた。紙は車へと形を変え、次に牛がその車に繋げられた。
「乗れ」
『…………』
「顔は出すなよ」
 顔を見合わせたふたりは、紫苑に言われるがままに牛車の中へと乗り込んだ。
 紫苑はそれとは別に作り出した馬に跨り、牛車とともにぽくぽくと己の屋敷に帰っていった。

 御門の屋敷に、ひとはいない。住まうのは紫苑と、式神たちのみである。紫苑を主とする式神たちは、彼の連れ帰った物の怪に驚いたようではあったが、何も言わず紫苑の命じるままに食事を用意した。
 物の怪たちはがつがつと食物を貪り、流し込むように水を飲んだ。その様子を、紫苑は部屋の隅から眺めている。嬉しそうでもなく、悲しそうでもない。いつもと変わらぬ無表情だった。
『うまい』
『うまいな、あんちゃん』
『うれしい』
『うれしいな』
 ――いつしか、物の怪たちははらはらと泣いていた。
『もういいか』
『もういい』
『もういいな』
『もういいよ』
 泣きながら、彼らはやがて手を止めた。
『もう……』
 物の怪たちの身体が、崩れていく。まるで砂のように床に積もったその中には、先ほどここで食べたばかりの魚の骨が混じっていた。
「…………」
 紫苑は袂から小さな壺を取り出し、何事かつぶやいた。物の怪の亡骸を、その中に吸い入れて栓をする。
「紫苑さま」
 式神のひとり、菊がつと彼の背後に立った。
「お食事はもうよろしゅうございますか」
「……ああ」
 振り返り、菊を見上げる。黄金色の髪と、瞳。名前の表す通り、菊の精である。
「もう、いい」
「はい」
 紫苑は手の中の壺を見つめた。慈しむように、握りこむ。――朝が来たら、墓を作ってやらねばなるまい。愚かなまでに我が子を愛したおんなと、愚かなほど生きようとした子どもたちの、墓を。
「……おっかあ、か」
 紫苑はその言葉をちいさくつぶやいた。彼は今だかつて、その言葉でもってひとを呼んだことがない。義母のことは、決してそうは呼べなかった。
 自分の母親は、自分を手放したとき――何を想っていたのだろうか。何も想わなかっただろうか。
 己の手を、そっと自らの胸にあてる。
 ――私の中にも、飢えた子どもがいる。食事にではない。もっと別のものに飢えた、飢えて飢えて、それでいて何に飢えているのかもわからない、泣くこともできない、無力な子どもが。

 彼の飢えが満たされるのは、その数年後。
 彼が己の運命と出逢い、「桔梗」と名付け――そして、彼は己の血のさだめを知ることとなる。