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雨、のち

 その日は朝から雨だった。彼は雨が好きだというわけではなかったが、水汲みの回数のずっと減るのがありがたかった。何しろ邑の井戸は彼の体に比して随分と深く、そして水桶は大きい。体力には自信のある彼も、夏の晴天時などには音を上げたくなるほどの重労働であった。しかし、今はまださみだれの頃である。やがて井戸に流れ込むはずの地下水を、土は蓄えているところだ。
 ふだんの寝床は雨漏りがひどいから、今日は社から張り出した屋根の下で寝るより他にあるまい。それでも、彼は現状に不満はなかった。今は亡き先代の巫女――彼女がここに置いてくれなければ、身寄りのない彼はとうに命を落としてしまっていただろうから。ここでは、働きさえすれば食べさせてもらえる。生きているだけ良いというものだ。
「暇だな……」
 今日はあまりに雨が激しくて、彼の仕事はほとんどなくなってしまった。時間の潰し方を知らない彼は、広い社をひさし伝いに歩き回った。袴に泥がはねるのも気にせず、口笛など吹いてみる。――いつの間にか、見覚えのない辺りにまで来ていた。
「まずいな」
 彼はつぶやいた。この社には、踏み入れてはならない場所というものがある。巫女の住まう神殿はその最たる場所で、……もしかすると随分と近付いてしまったかもしれない。辺りに人影はなく、そもそもこんな大雨の日に外に出ているものなど、彼のほかにいるはずもなかった。彼とて屋内に居場所がないから仕方なく、こうして外にいるだけのことなのだから。
「戻らなきゃ」
 踵を返し――そのまま彼は立ち止まった。目の前に、大きな建物がそびえ立っている。そこが何という場所なのか、彼は知らなかった。ただ、そこが本来近付いてはならない場所なのだということ、それだけは直感的に感じた。その建物の縁側に、ひとりの少女が佇んでいた。
「…………」
 少女はじっと、彼を見ている。彼はあっと息を飲んだ――少女は何か、きらきらと輝くものをかぶっている。少女の赤い唇が、小さく動いた。
「あんた、誰?」
 彼よりも少し年下だろうか、まだ造形にもあどけなさを残す彼女は、年齢に似合わずひどく冷たい表情をしていた。
「お、おれは……」
 少年は言葉につまる。この少女は誰だろう。まるでこの世のものではないように美しく、そして寂しい――。
「聞こえないわ。こっちにおいで」
 少女に呼ばれ、彼は歩み寄った。近付いてみると、彼女がかぶっていると思った光るものは、どうやら毛髪のようだった。だが、こんな黄金色の髪を彼は見たことがない。そして、彼女の瞳は晴天の空よりももっともっと青い。彼は地面に立ち尽くし、ぼうっと少女を見上げた。少女はしばらくの間彼を見返していたが、やがてすっと視線を逸らした。
「おまえ……何も言わないのね」
「え?」
 彼はきょとんと聞き返す。だが、少女は繰り返さない。
「早く戻った方がいいわ。私と話しているところを誰かに見られたら――」
 少女は冷たい声でつぶやいた。
「おまえは、きっと殺されるから」
「…………」
 彼はぞっとしてあとずさる。片足が水溜りに踏み込んだ。
「私のことは、忘れなさい」
 彼は顔をあげた。少女は彼を見ている。そしてその瞳は如実に語っていた――自分を忘れないで欲しい、と。行かないで。ひとりにしないで。
「だいじょうぶ、誰にも言わないよ」
 彼はにっこりと微笑んだ。できることならこの少女にも、笑って欲しかった。
「それから――忘れない」
「…………」
「きみのこと、忘れないから」
「……なんで、そんな」
「また会いたいんだ。きみに」
 少女の青い目が、大きく見開かれた。彼は右手の小指を立て、つき出す。それが彼女に触れることはないとわかっていても、約束したかった。
「会いたくなったら、いつでも呼んでよ。おれ、いつだって会いに来るから」
「馬鹿を言うな。そんなこと、できるはずが」
「うん。おれ、ばかだから」
「…………」
 硬直した少女が、やがて少しだけ頬を緩めた。寂しげな微笑み。
「……本当に、馬鹿だな」
 彼は軽くうなずき、手を振った。
「それじゃあ、またね」
「! ……お、おい」
 少女の声は、そのまま途切れた。彼にやや遅れてひとの気配を感じたらしい。少女は俯き、やがて顔をあげる――仮面のような無表情が、少女を覆っていた。

「はあ……」
 彼は元いた場所まで駆け戻り、左胸に手をあてていた。心の臓が、早鐘を打っている。それはきっと、走ったせいだけではない。
「すっげえ、きれいな子だったな」
 彼は目を閉じる。
「また、会えるかな……」
 いつか呼ばれたら、その時はすぐに会いに行こう。きみは、ひとりじゃないから。おれがいれば、寂しい想いなんてさせないから……。

「会いになんて来なかったじゃない」
 あの時の少女――昴は眉をつりあげ、透流を睨んだ。だが透流の胸に頭を預けているこの状態では、たいして怖くはない。透流は首を傾げた。
「おれ、呼ばれましたっけ?」
「名前もわかんないのに呼びようがないでしょうが!」
「あ、そっか。当時おれ名前なかったし……」
 彼に名前が与えられたのは、昴に再会したとき。それまで、彼を名付けようとするものなどいなかった。
「……それでも、あんたを呼んだこともあったのよ」
 昴は俯いた。長老たちによって、神殿の奥に隔離されていた日々――名も知らぬ少年を、心のうちで呼んだ日は確かにあった。来るはずもないと知っていながら、それでもどこかからひょっこりと現れるのではないかと……。
「あんたが初めてだったの。私の髪や目を見て、悲鳴を上げなかったひと。ふつうに話し掛けてきたのも、あんただけだったわ」
「だって、きれいだったから」
「…………」
 素直に答えた透流に、昴は顔を背ける。
「そんなこと言ったって、騙されないんだからね」
「騙してなんていませんってば」
 透流は苦笑し、彼女を強く抱きしめた。
「これからは、ずっと側にいますから。呼ばなくたって、一緒にいますよ」
「…………」
「ね?」
 昴は知らないのだろう。雨の降るたびに、彼がうろうろと彼女を探していたということ。こっそりと神殿の周りに近付いたこともあるということ。だからこそあの日、あの夜――透流は昴に会えたのだ。
「雨、上がったわね」
 透流の腕の中で、昴がつぶやく。透流は顔をあげ、外を眺めた。澄み切った青空、雲間から溢れ出す光。そのまぶしさに、透流は目を細める。――そうだ。どんなに降り続いた雨も、いつかは上がる。そして現れる青空はいつもに増して澄み切り、きらきらと光を躍らせて美しい。
 透流はふと腕の中に目を落とした。澄んだ青と、煌く黄金。
「昴さんって……雨上がりの空みたいだね」
「どこが?」
 ――そんないいものじゃないわよ、おだてるのもいい加減にしてよね……。ぶつぶつとつぶやいていた昴が、やがて何かを思いついたようにくるりと振り返った。
「じゃあ、透流は太陽ね」
 空を太陽が輝かせるように――昴に光をもたらすのは、透流なのだ。
 だが昴の言葉を聞いた透流は、顔を曇らせた。
「おれ、そんなに禿げてるかなあ……」
「え?」
「おでこ、光ってますか?」
「……ぷっ」
 何を勘違いしたのか生え際を気にし始めた透流に、昴は小さく噴き出した。