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記憶の色彩

 ――思い出せるのは、ただどこまでも透き通った水。ゆらゆらと揺らめく光と、儚げに散らばる影。
 私はただ、じっとそこにいて……すべてを忘れて……運命を待ち続けて……そして。

「…………」
 ふと、目を覚ます。そこは見慣れた部屋の中だった。紫苑と私が眠る為の場所。重たげな帳に囲まれた、閉じた世界。しん、と静まり返っている。
 私は隣に眠る紫苑にそっと手を伸ばした。頬の輪郭をたどり、乱れた長い黒髪を指にゆるく絡める。紫苑は目覚めない。疲れているのか、眠りは深いようだ。
 最近都で頻発している怪異の招待を探るべく、紫苑は奔走している。何やらきな臭い気配は感じているものの、一体何が起ころうとしているのか、私にはまだわからない。ひとの都であやかしである私が表立って動くことはできないから、ただ毎日紫苑の帰りを待つ日々だった。
 ひどく、歯がゆい。
 私は先日、彼の妻となった。共に生きようと、私達の大好きな友人たちに囲まれて、誓った。なのに、私は今、彼に何もできない。疲れて帰る彼を、抱きしめて眠ることくらいしか……。
 紫苑の、薄く開いた唇。私はそこに、そっと口づける。
「…………」
 紫苑の睫毛がわずかに震え、そしてその奥から、私が恋してやまない、美しい紫電の瞳が覗いた。
「目が覚めたのか」
 低くかすれた声。私は微笑んで、紫苑の瞼に唇を寄せた。
「ごめんなさい……起こしてしまいましたね」
「構わん」
 紫苑は私の髪をさらさらと梳いた。暗がりの中にその軌跡を刻む、白銀の糸。
「夢を見ていた」
 紫苑はぽつりという。
「昔の夢だ――色のない、夢だった」
「いろ?」
「ああ」
 紫苑は私の首元に頬を擦り寄せるようにしながら、ぽつりぽつりと言った。
「私の幼い頃の記憶には、色がないのだ。何故か、白と黒と灰色でできている。いくら何かを思い出そうとしても、全部そうだ。着物の色も、花の色も、全部。思い出せない」
「…………」
 私は口をつぐんだ。禁忌の半妖として生まれた紫苑が、都でどのような扱いを受けてきたか……私は聞いている。人妖(ばけもの)と罵られ、義父母にも疎まれ――唯一の友人が、燐だった。その燐も、一時は心に傷を負って都を離れていた。紫苑は、本当に、この世の中でたった独りだった……。
「まあ、それは別に構わないんだ。思い出して楽しい記憶があるわけでもないからな」
 私を安心させようとしてだろうか、紫苑はそんなことを言ってかすかに笑った。
「お前と出会ってからの日々が、あまりにも色鮮やかだったから。昔のことは、霞んでしまったのだろう」
「…………」
 私ははと口をつぐんだ。
 ――私だってそうだ。紫苑と出会う前の記憶は、ただただ透き通った水の中。それよりももっと前のことは――遠い光と影の中、陽炎のように揺らめくだけで。
「桔梗」
 低く艶めく声が、私の唇の上で甘く蕩けた。その響きに促されるように、私は目を閉じる。
 
 ――そこに広がる、色彩。
 
 紫苑と出会った夜、道端に咲き揺れていた桔梗の花。月のほの青い光。燐の穏やかな笑顔と、その裏に秘めた悲しい桜色の過去。私と同じ色を持つ一族との――壬、癸らとの邂逅。燐との縁(えにし)を抱いて現れた、桜と琥珀を身にまとう少年。黄金色の髪と碧眼を持つ、囚われの巫女。灼熱の呪いを抱えた紅き亡霊。そして、色などなくてもその存在そのものが鮮やかな――本来、私の一族の敵ではあるのだけれど――人間たち。
 笑い、悲しみ、悩み、怒り、惑い、生きている。
 その全てがこんなにも、鮮やかに――……。
「しお、ん」
 声が詰まる。
 紫苑は私を抱いたまま、顔を覗き込んでくれた。こめかみを優しく啄む唇。
「なんだ?」
 触れあっているところが、ことごとく熱を持つ。私は芒陽と色彩の渦に身を任せたまま、紫苑の紫電を見つめた。
「紫苑の隣で見る世のなかは――こんなにも鮮やかなんだって」
 不意に、涙がこぼれた。
「こんなにも美しくて――愛しくて」
 貴方がいるから、私は生きていける。
「しおん」
 名前を呼ぶ。祈りのように、呪を掛けるように、何度も何度も。
 紫苑が熱い吐息をこぼした。
「桔梗」
 貴方のつけた、貴方のための名前。今では私の大好きな人たちが呼んでくれる、私の名前。
「私も、同じだ」
 夜が、闇が、鮮やかな色に塗りつぶされていく。
「お前という光が照らしてくれるから、私は前に進める」
 痛いくらいの力で抱きしめられて、私は小さく喘いだ。
「桔梗」
 失ったものもある。泣いた夜も、裂かれるように心を痛めたことも、怒りに我を忘れそうになったことも……多分、これまで以上に、これから先にもあるのだろう。未来に待つのはきっと、幸せだけでできた、そんな甘いものではない。そう思うと、私はどうしようもなく怖くなる。今の幸せを手放したくなくて、壊されたくなくて。怖くて怖くて、たまらない。
 それでも――私は戦うだろう。愛するものを守るために、たとえこの手を血で染めようとも。何を犠牲にしようとも。私は負けない。立ち止まらない。
「ききょう――」
 大丈夫。
 私は紫苑の頭を抱いた。
 貴方がいれば、私は何も怖くない。何だってできる。何処にだっていける。
 だがら――……。
「ずっと、傍にいて下さいね……」
 唇が重なる。
 幸せだ、と思った。

 朝日が夜を追い、また鮮やかな日々が始まる。
 影をはらみながらも光に満ちる、そんな日常がやがて欠け壊れていくだろうということ。私達はきっと、予感していた。