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月光浴

 ──六条家の三の姫が、不可思議な病で伏せっておられるそうな。そのような噂が流れ始めたのは、夏の終わりの頃。六条の三の姫は月浴(つくあみ)の君と呼ばれ、宮中でもその美しさは評判であった。年明けにも、更衣として今上帝の元に上がることが決まっている。しかし、それも病が治らねばかなわない。
 彼女の父である六条中納言が御門家を訪れたのは、ちょうど中秋の名月の日のことであった。女房姿の式神、竜胆(りんどう)が中納言を紫苑の部屋に通す。この時、紫苑は齢十八。御門家を継いでまだ間もない。息子ほどにも年の離れた男に、中納言は頭を下げた。
「どうしても、御門どののお力をお借り申したいのです」
「病、と申されましたな」
 竜胆よりも淡く、光を宿したような紫が中納言を射る。ひとにはあり得ぬ色。彼がひととあやかしの禁じられた交わりから生まれたのだという、忌まわしい証。気味が悪い。中納言は体の内からわき起こる悪寒を、かろうじて抑えた。
「いつ頃から、また如何ようなご様子なのです?」
「……もうひと月にもなりましょうか」
「ひと月も?」
「はい」
 中納言は苦しげな表情でぽつり、ぽつりと語る。
「ちょうど今上にお仕えすることが正式に決まった頃でした。しかし未だに治る気配はなく……祈祷も怠ってはいないのですが」
「なるほど」
 紫苑はつぶやく。もしかすると六条が今上帝の姻戚になることを快く思わない輩が、裏で呪いを掛けているのかもしれない。
「食事をとらないので、衰弱しきっております。うつらうつらと眠っては飛び起き、突然泣いたかと思えば物思いに沈んで……」
 中納言は探るような視線を紫苑に向けた。
「何かに憑かれているのではないかと思うほどなのです」
「分かりました。……それでは」
 紫苑は裾を払って立ち上がった。白い衣には染みひとつなく、内には藤色がのぞく。
「参りましょうか」
「よろしくお願い致します」
 中納言は深々と頭を下げた。

 紫苑が六条邸に着いた頃には、陽は既に陰り始めていた。
「姫さまは今、起きておられます」
 侍女の言葉に父は頷き、紫苑の方を振り向く。
「それではよろしくご祈祷のほどを」
「畏まりました」
 紫苑は頷き、三の姫の部屋に掛かった帳の内へと入った。
「誰?」
 御簾の掛かった内側から、細く高い声が問い掛ける。
「父君であらせられる中納言さまのご依頼により参りました」
 紫苑は答える。
「御門紫苑と申します」
「…………」
 気配は絶句したようだった。
 しばらくの沈黙の後、姫は小さな声で尋ねる。
「今、あなたさまだけでいらっしゃいますか?」
「え?」
「そこにいるのは、紫苑さまおひとり?」
「そうですが」
 答えた途端、御簾が巻き上げられて紫苑は仰天した。
「な……」
 貴族の姫が他人に、しかも男に姿を見せるなどあってはならぬことである。しかも彼女は未婚で、宮中への参内が決まっているのだ。紫苑には彼女の意図が計り兼ねた。ひとまず目を背けながら、尋ねる。
「何のおつもりです?」
「わ……わたくし」
 鈴の音のような愛らしい声が震えていた。
「紫苑さまに……お会いしとうございました」
「…………」
 紫苑は少し考え、やがて彼女の言葉を理解して小さく叫んだ。
「えっ?」
 思わず振り向いてしまった瞬間、顔を真っ赤に染めた娘と正面から目が合う。潤んだ瞳、艶やかな黒髪。火照った顔の中でも、一際赤く色づいている唇。──あまりのことに、紫苑は目眩を覚えた。
 姫は慌てて顔を伏せる。
「ごめんなさい……はしたない真似を……」
 体つきが華奢であるせいか、今にもかき消えてしまいそうな儚さであった。紫苑は当惑もあらわに問い掛ける。
「あの、病というのは……?」
「それは……」
 姫はためらい気味に呟いた。
「こ、恋の……」
「こい?」
 紫苑は繰り返す。
「つまり、恋の病で飯も喉を通らないし、涙も出たと」
「は、はい」
「…………」
 ──下らない。紫苑は帰りたくなる衝動を懸命に抑えた。
「して、そのお相手とは?」
「で、ですから」
 繊細な細工のかんざしがしゃらりと音を立てる。姫は既に顔を伏せてはいなかった。濃い睫毛の奥の瞳が、紫苑をまっすぐに見つめる。
「わたくしは紫苑さまにお会いしたかったと」
「……はあ?」
 我ながら嫌になるほど間抜けな声だった。
「病だと父上たちを欺いたのも、きっと最後はあなたさまを呼んでくれるだろうと思ってのこと」
「はあ……」
「お会いできて嬉しゅうございます」
 姫は花がほころぶような笑顔を見せた。だが、紫苑の顔は晴れない。
「私と、どこかでお会いしましたか」
「去年の月見の宴で」
 姫の微笑はまさに月光に似ていた。
「わたくし、舞を踊りましたの」
「では、貴方はあの時の」
 紫苑は思い出す。確か、彼は舞に合わせて笛を吹いた。姫は頷く。
「面をつけてはおりましたけれど、わたくしはあなたさまを覚えておりました。本当に、素晴らしい音で……」
「それで?」
 彼女の夢を破るように、紫苑は素っ気なく先を促した。だが、姫は目元を朱に染めている。
「あの時のあなたさまが、わたくし忘れられなかったのです」
「…………」
 紫苑は深々とため息をついた。この世間知らずな姫君に、一体何と言えば良いのだろうか。
「貴方は、私の血筋についてご存知ですか」
「あ……はい」
 姫の眼差しが少し翳った。
「でも、その、わたくし……」
「貴方の父君は」
 紫苑は物静かに言う。
「私をお嫌いですよ」
「え?」
 姫が顔を上げた。紫苑はその無垢な瞳に向かって冷たく言い放つ。
「父君だけではない。私は誰にも忌み嫌われる存在なのです。この体には、あやかしの血が流れているのですから」
「で、でも……」
 姫は身を乗り出した。山吹の(かさね)がざらりと音を立てる。
「そんなこと、ひとを恋するのに何の関係もないではないですか!」
「…………」
 紫苑はすっと立ち上がった。姫に向かい、手を差し出す。
「少し、外を歩きましょうか」
「……はい!」
 嬉しそうに重ねられた手はとても小さく、ほっそりとしてたおやかであった。
 
 姫の部屋は中庭に面していた。月明かりに照らし出され、池を囲む岩や苔むした小山などが、地面に黒い陰影を投げかけている。彼らのほかに、ひとの気配はない。姫はどこか夢うつつな様子で、先を行く紫苑の背中を見つめていた。
「貴方は」
 不意に紫苑が立ち止まった。
「あやかしというものを見たことがありますか?」
「……いいえ」
「話に聞いたことくらいは?」
「ありますけれど」
 紫苑は振り返った。その顔には笑みのかけらもない。
「私がこのような年で陰陽博士に任じられたのは、異例のことです。何故だと思われますか?」
「え……ええと」
 姫は目を瞬かせた。
「お強い……から?」
 幼い言葉に、紫苑はふっと口元を緩める。それは憫笑にも似た笑みであった。
「そう、確かに私は強いでしょうね」
 ――次の瞬間、紫苑の周りを炎が取り囲む。
「きゃあっ!!」
 悲鳴を上げて姫はあとずさった。熱い。ぱちぱちと爆ぜる火の粉は、しかし彼女を襲いはしなかった。炎は燃え広がることもなく、ただぼうっと彼の姿を宵闇に浮かび上がらせているだけ。
 紫苑は何の術も唱えていなかった。呪符も使っていない。何も使わずに、彼は炎を操ってみせた。生身の人間では決して考えられぬこと――。
「ふっ」
 紫苑の腕の一振りで、炎は最初からなかったかのように消えた。だが、足元を見た姫は息を呑む。紫苑のぐるりを囲むように、草が焼け焦げた後がくっきりとついていた。
「月浴の君」
 紫苑の優しい、穏やかな声。
「私が怖いですか?」
「……っ」
 姫はそのときようやく自分が震えていることに気付いた。
「すみません、随分と脅かしたようですね」
 口先では謝りながらも、紫苑はたいして悪いとも思っていない様子である。姫の頬を一筋の涙が伝った。
「でも……それでも」
 彼女は紫苑の腕に縋る。驚いたように紫苑は姫を見下ろした。
「あなたさまの笛は優しかったし……横顔は寂しそうだった……!!」
「…………」
 姫は思い出す。目を半ば閉じて笛を奏でていた紫苑。時に細く、時に力強く。空間を自在に操るような笛の音は、何と優美であったことか。その音の主を一目見ようとした姫の目に映ったのは、孤独の影を宿すひとりの青年だった……。
「それでも」
 紫苑はそっと彼女の体を離す。
「貴方のその肩は、私の運命を支えるには細すぎる」
 ひとびとから怖れられ、忌み嫌われ、排斥され――。そんなことに、彼女が巻き込まれて耐えられるはずがない。
「貴方のそれは、恋ではない」
 まるで言い聞かせるように、紫苑はゆっくりとした口調で告げた。
「私の境遇はお聞き及びでしたでしょうから、それに同情しただけのこと」
「違います!」
「違いませんよ」
 涙を溜める姫の目頭を、優しく拭う。
「では伺いましょう。貴方は」
 紫苑はかすかに腰をかがめ、姫の目線をその瞳でとらえた。誰もが目をそらす、紫電の瞳。姫はそれを真っ直ぐに見返す。
「貴方は、全てを捨てられますか。私のために、父君のこともご兄弟のことも」
「…………」
「二度と逢えなくなっても、構いませんか」
 大げさに言っているのではない。それくらいの覚悟がなければ、半妖の自分と一緒になどなれるはずがないのだ。
 紫苑はじっと姫を見つめた。徐々に瞳が揺らぎ始め、やがてそれが瞼の下に隠れる。紫苑は屈めていた体を伸ばした。――やはり……。
 しかし、姫はつぶやいた。
「それでも」
 小さな声。
「それでも、私は」
 閉じた瞼の下から再び涙が溢れる。
「紫苑さまのことが……」
 紫苑は小さく息を吐き、やがて姫の体を押した。
「もうお戻りなさい。風邪を引きますよ」
「……紫苑さま」
「忘れておしまいなさい」
 優しく、しかしきっぱりと彼は告げる。
「私のことなど、忘れてしあわせになるのです」
「……でも!」
「私は貴方をしあわせにはできないし」
 紫苑は強い調子で遮る。
「貴方にも私をしあわせにすることはできない。そうでしょう?」
「…………」
 姫はそのふっくらとした赤い唇を噛み締めた。紫苑はさらに言葉を継ぐ。
「忘れなさい」
「……紫苑さま」
 紫苑の首に柔らかいものが絡みついた。
 姫が体を寄せている。そのことに気付き、紫苑は困惑した。引き剥がそうとした時、
「あなた様にもいつか」
 祈りのような響きの言葉が、耳元で囁かれる。紫苑は手を止めた。
「しあわせが訪れますように」
「月浴の君……」
 紫苑はつぶやく。
「今日のことは」
 姫が体を離した。可憐な微笑が泣き顔を彩る。
「月とわたくしたちだけの、秘密ですわね」
「月……」
 紫苑は空を振り仰ぐ。冴え冴えとした光を放つ満月が、ふたりを見下ろしていた。
 
 一年後、月浴の更衣は女児を産んだ。名は苑子。その由来を知るのは母である月浴の更衣と、あの日と同じ月だけであった。