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惚れた弱み

 その夜、都はひどく冷え込んだ。寒さに弱い玄武の巫女は、もうずっと火鉢の前から動かない。厚い着物をこれでもかというほど着込み、それでも寒そうに火鉢に手をかざしている。彼女の知る出雲の冬も冷えたが、都の冬もそれに負けず劣らずであった。
「昴さん」
 声とともに帳が開いた瞬間、鋭い冷気が流れ込んだ。昴は鬼気迫る表情で振り向く。
「さむい!」
「ああ、すみません」
 慌てて謝罪を口にした大男は、小さな盆をひとつ、手にしていた。湯気の立つ茶碗が載っている。
「薬湯を。温まりますよ」
「ん。……ありがと」
 昴は体を丸めたまま、透流を手招きした。彼は寒さを感じていないのか、それともこたえないのか。普段とほとんど変わらない服装である。彼はにこにこと笑いながら昴の側に寄ってきた。
「座って」
 昴に命じられるまま、彼は彼女の背後に跪く。――相変わらずの従者っぷりだな、透流さんって大型犬みたなところありますよね、と、知己の双子のあやかしなら称したことだろう。
 透流は笑みを崩さない。昴はじりじりと彼に近寄る。
「寒いわ」
「寒いですね」
「少しも寒そうじゃないけど?」
「そうですか?」
「…………」
 昴は躊躇いがちに手を伸ばすと、その華奢な指先で透流の手をとった。すねたようにつぶやく。
「ほら、あたたかい」
 火鉢にかざしていた彼女の手よりも、ずっと。透流は笑みを深めた。
「昴さん」
 彼女が温かいといった手で、彼女をすっぽりと背中から抱きしめる。
「何よ」
 答えずに彼女のきらめく黄金(こがね)色の髪に頬を擦り寄せると、昴はかすかに身じろいだ。
「髪が伸びてきたわ。そろそろ切らないと」
 彼女の頬は、先程よりも血色を透かして桜色に染まっている。まるでそれを誤魔化そうとするかのように、彼女は椀を持ち上げて薬湯をすすった。
「おれが切って差し上げますよ」
 透流は彼女の髪を指先ですいた。細くて繊細で、それでいて輝きを放つ――まるでそれは、彼女そのものだ。
「上手に切ってよ?」
「大丈夫です。おれが意外と器用なの、昴さんも知っているでしょう?」
「…………」
 昴はそれには答えず、ただ体の力を抜いた。透流は嬉しそうに笑って、彼女を抱きしめる。
「ああ、幸せだなあ」
「何言ってんの」
「だって、昴さんが」
 ぐりぐりと彼女の頭に頬ずりをする。昴は彼のなすがままにさせながら、ふ、と息をついた。
「でも、そうね――」
 たしかにこれを、ひとはしあわせとよぶのだろう。
 ずっと、ひとりだった。親を奪われ、ひとりきりで神殿に隔離されて。巫女と祭りあげられながらもその髪と目の色から異端のものとして忌避され、髪を染めることを執拗に強要された。邑への復讐に身を焦がし、それだけを心の支えに生きてきた。
 寂しかった。辛かった。悲しかった。怒っていた。自分の中のその感情を、誰にも気付かれることなく――気付いてもらえることはなく、そしていつしか育ち、膨れ上がったそれは、大いなる悲劇を引き起こした……。
 ぶるりと震える。
 忘れたわけではない。あの日、邑を滅ぼした自分の罪。
「昴さん?」
 彼女の変化に気付いたか、透流が彼女の顔をのぞき込んだ。
「顔色が優れませんが、どこか調子が……?」
「ちがうの」
 昴はそう言って、体を捩った。透流の広い胸に顔を埋め、背を丸める。透流はその背を、頭を、優しく撫でた。
 その優しさに、心が痛む。透流から故郷を、邑を奪ったのは、私なのに――。
 それでいて、自分は透流なしではいられないのだ。彼に見捨てられたら、きっと昴は自分を保てない。透流が慈しんでくれるから、愛おしんでくれるから、こんな自分にも価値があるのだと思える。生きようと思える。
「昴さん」
 透流の優しい声が、彼女の名を呼ぶ。
「名前を呼んで、昴さん。おれの、名前」
「いきなり、何」
「いいから」
 昴は戸惑いながらも、その名を呼んだ。彼女が名付けた、彼の名前を。
「と、透流」
「もっと」
「透流。透流」
「昴さん」
 繰り返す彼女を、透流は強くかき抱いた。一瞬、息が止まる。
 透流はつぶやいた。
「紫苑さんに聞きました。名前はその人の依代なんだって。名前を与えることで、ものも人も、世界に存在できる。世界に縛られる」
 だからこそ、ふつう陰陽師は本当の名を隠す――世界に根ざす己の魂を守るために。紫苑が名を隠さないのは、その必要がないからだ。彼はあくまで半妖、ひとの身の陰陽師とは違う。
「おれに名前を与えてくれたのは、昴さんでしたね」
「……そうね」
 昴は微笑む。
 彼女のその、異端の徴である髪を、彼は綺麗だと言った。なんの曇りもない眼差しで、真っ直ぐに見つめて。だから、彼女は彼にその名を与えた――透流、と。
 透き通った彼の心に、名前をつけた。
「すごく、うれしかったです」
「そ、それはよかったわね」
 照れたように、そっけなく昴は言う。
「はい」
 透流は素直にそう頷くと、不意に彼女のくるまっていた厚い着物を剥がし始めた。
「な、何するのよ、寒いじゃない――」
 思わず顔を上げて抗おうとした昴に、透流は微笑みかける。いつもの笑顔よりも少しだけ、漢の匂いのする笑みだった。
「寒い思いはさせませんよ」
「…………!」
 昴が思わず抵抗を忘れたその隙に、透流は単一枚にした彼女をその腕に抱き、その上から彼女の着物を羽織ってくるまった。先程までよりもずっと、透流の体温が近い。
「ほら、寒くない」
「う……」
 昴は唸ることしかできない。
「昴さん……」
 透流が彼女の名前を呼ぶ。蜜が滴るような、甘い響き。彼の鼓動が、呼吸が、匂いが、温もりが、彼女を包み込み、絡め取る。今ここにある自分は全て彼のものなのだと、彼女は思い知らされる。
「すばる、さん」
 ――この人に出会って初めて、私は……。
「まだ、寒い?」
 彼女の肌に触れる透流の唇も指先も、まるで灼けるようだった。昴はかすかに震えながらも、強がってみせる。
「暑いくらいよ、もう」
 耳元で透流が笑う。その吐息すら、彼女の体に熱をともすのだ。
「じゃあ、今度は昴さんがおれを温めて――」
 ふ、と灯りが消える。暗闇。
 残像の透流が消えぬよう、昴は静かにそのあおい目を閉じた。

「透流」
 昴は不意に、彼を呼んだ。
「なに? 昴さん」
 彼女は彼のかたい髪を指先で玩びながら、低く囁く。
「私に寒い思いなんてさせたら、呪い殺してやるから」
「…………」
 透流はくす、と笑ったようだった。彼女の頬に、瞼に、耳朶に、彼の熱い唇が触れる。
「おれは何の力もないただの人間だけど――ううん、だからこそ」
 未来は変えられない。世界の命運など知らない。彼の全ては、ただひとりのために。
「おれのちっぽけないのちの全部を、あなたにあげる」
「…………」
 昴は息をのむ。透流はぽつぽつと続けた。
「だから、上宮昴をおれにください。玄武の巫女の運命は、おれには担えなくても――それでも」
「ばかね」
 昴は両腕を伸ばし、透流の首に巻きつけて引き寄せた。額同士をぶつけるようにして合わせる。
 この距離なら、暗がりの中でも互いの瞳が良く見える。だからきっと、自分の瞳が潤んでいることもすぐに透流にはばれてしまうのだろう。
「昴さん……?」
「これ以上あんたにあげられるものなんて、私にはないわよ――」
 熱に蕩けた思考の中、昴は悔しくなって、透流の肩に歯をかぷりと立てた。透流は驚いたように目を見開いたが、やがて嬉しそうに顔をゆるめた。
「昴さん、おれ、幸せすぎて――もう、死んでもいい」
「勝手に死んだら殺すわよ!」
 昴の無茶な台詞にも、透流は甘く笑って頷く。
 
 ――どうせ、私はこの男には勝てない。
 昴は思う。
 ――どんなにわがままを言っても、怒っても、拗ねても、絶対に勝てない。

 だって私はこの男が、こんなにも、
 
「好きですよ、昴さん」

 ――ほら、やっぱり勝てない。