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微睡の日

 その日、屋敷は妙に静まり返っていた。
「…………?」
 いつになく正午近くまで惰眠を貪っていた紫苑は、ひどい頭重感と戦いながらのそのそと廊下を歩んでいる。自分でも気付かぬうちに疲れをためていたのか、今朝はまったく目が覚めなかった。隣で眠っていたはずの桔梗もどこへ行ったか姿が見えない。起こしてくれても良かったものを……。
 ――ふと、気付いて紫苑は足を止めた。いつもならば、彼が寝過ごしていると壬が起こしに来る。「お膳が片付かねえだろ!!」と蹴り飛ばされるのだ。たいていは殺気を感じて先に避けるのだが、寝起きの体には酷な話である。ああ見えて壬は意外に神経質なのだろう。そういえば彼の部屋はいつもきちんと片付いていて、しょっちゅう掃き清めたり調度を磨いたりしている。紫苑はどちらかというとそちらには無頓着な方なので、壬には叱られてばかりである。
 それはともかく、何故今日に限って壬は起こしに来なかったのだろうか。立ち止まったまま首をひねっていると、背後からぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。
「あ、紫苑。起きましたか?」
 振り向いた紫苑は、ぼんやりとしたまま頬を緩める。駆けて来る桔梗の長い銀髪が陽光にきらきらと輝いてまぶしい。霞のかかった視界の中で、そこだけが清らかな光に埋めつくされているような……。
「紫苑?」
 目の前で立ち止まり、桔梗は怪訝そうに首を傾げる。紫苑はぼうっとしたまま重たげな腕を伸ばした。
「桔梗」
「紫苑、あの、ご飯の用意が――」
 腕を華奢な肩に絡め、彼女を強く抱き寄せる。いつもなら同居人たちの目が気になってこんなことはできないし、しようものなら冷やかされるか聞こえよがしにため息をつかれるか嫌味を言われるかのどれかだ。だが、今は口うるさい輩の気配がしない。紫苑は安心して彼女の髪に頬をすりよせた。あまいにおいがする。
「お腹、すいていないんですか? もうすぐ昼ですよ」
 頬を赤らめた桔梗が顔をあげ、紫苑を覗きこむ。紫苑ははっとしてこくりと頷いた。桔梗は満足げに微笑み、手を伸ばして紫苑の髪をなでる。
「じゃあご飯にしましょう。私も一緒に食べます」
「ああ……」
 離れて歩き出そうとする桔梗の背中に、紫苑は声を掛けた。
「そういえば、壬らはどこにいるんだ?」
「ああ、あのふたりなら」
 桔梗は振り向きもせずに答える。
「橘の屋敷に遊びに行っています」
「……ふうん」
 日ごろから勝手にうろうろするなと言い聞かせてあるのに――紫苑はわずかに眉をひそめたが、それ以上は気にしなかった。まさか彼らが都人に見つかって大騒ぎになるようなへまをおかすとは思えないし、それに……。
 紫苑は口元を緩め、桔梗の後を追って歩き始める。
「こういう日も、たまにはいいな」
 身長差を生かし、少しだけ歩みを速めた紫苑はすぐに桔梗に追いついた。そのまま肩を並べて歩く。無言で見上げてくる桔梗に、紫苑の表情には自然と微笑みが浮かんだ。
 仲間と過ごす日々はとても楽しく、かけがえのないものだ。だが、たまにはこうして愛しいひととふたりきりでいるというのも、悪くはない……。
「いつ帰ってくるか、聞いているか?」
「……今日は泊まってくるそうですよ」
「珍しいな」
 目を見開いた紫苑から目を逸らし、桔梗は口元を手で覆った。紫苑はおや? と不審に思いつつもそれ以上尋ねない。――きっと、その方がいいような気がした。

「ふう――」
 腹をいっぱいに満たし、紫苑はごろりと横になった。
「あっ、食べてからすぐ寝ると牛になるそうですよ」
「牛?」
 桔梗が膝立ちでずりずりと擦り寄ってくる。彼女の袴に穴が開かないかと心配になったが、すぐにどうでも良くなった。
「それは初耳だな……誰に聞いた?」
「昴さんですっ」
「まあ、彼女は巫女として厳しく躾けられたんだろうから」
「そんなこといって、紫苑、牛になったらどうするんですか?!」
「牛車でも引くかなあ」
「何を暢気な!!」
 声をふるわせて主張する桔梗に、紫苑は堪え切れず小さく噴き出す。桔梗はその細い眉をつりあげた。
「紫苑が牛になったらこきつかってやりますから!!」
「いいだろう、こきつかわれてやるよ」
 適当に答えながら、手を伸ばして桔梗の手首を引っ張る。強引に傍らに抱き寄せると、桔梗は顔を真っ赤にして抗議した。
「私は牛になりたくありません!!」
「そうか?」
 紫苑は飄々とした顔で桔梗の髪を指ですく。
「別に牛でもいいではないか。ふたりで牛になって、山でのんびり暮らそう」
「……ふたりで?」
「ああ」
 そうすれば、きっと誰に見咎められることもない。あやかしだからという理由で桔梗を屋敷に閉じ込めておく必要もないし、そもそも紫苑が半妖だと白眼視されることもない。ふたりが牛という同じ種族のつがいになり、仔牛が生まれて、年をとっていつか天寿を全うする。紫苑の脳裏に浮かんだその風景はひどく平和で――。
「それじゃあ今と変わりませんねえ」
 桔梗ののんびりとした声に、紫苑は彼女の顔を見つめた。彼女は優しく微笑んでいる。
「何になっても、どこへ行っても、ふたりいっしょならきっと何も変わりませんよ」
「…………」
 紫苑は少し言葉に詰まった後、やがて大きく息を吐き出した。
「……そうだな」
「それはそれとして」
 桔梗は体を起こし、笑う紫苑を見下ろす。
「さんざん寝てたくせにまだ寝るつもりですか?」
「いや? さすがに眠くない」
「じゃ、じゃあ起きましょうよ!!」
「……いいじゃないか」
 紫苑は体をずらし、桔梗の膝の上に頭を落ち着けた。
「今日くらいは、こういうのもいいだろう」
 見上げると、桔梗の顔はやや逆光になっていて見えにくい。手を伸ばして頬に触れると、かすかなぬくもりが掌をじんわりとあたためた。
 彼女の輪郭をなぞる指先を、桔梗の手がとらえた。
「紫苑はあまえんぼうさんですねえ」
「ああ。……誰かさんに似てきたのだろうよ」
「誰のことです?」
 笑いながらしらばっくれる桔梗には答えず、紫苑は彼女の腰に腕を回す。――何故だろう、自分が幼少期に戻ったような心地がした。当時の彼は、一度もこのような経験をしていない。それどころか、紫苑には他人の肌に触れた記憶がほとんどなかった。せいぜいが術を教える時に蘇芳が手をとったことくらいか。彼の手はいつも、冷たかった。だから、紫苑はひとの肌とは冷たいものなのだと思っていた……。
「あたたかいな」
 ぽつりとつぶやいた紫苑に、桔梗は優しく微笑んだ。
「いいお天気ですからね」
 紫苑は首をひねって外を眺めた。中庭には春の陽光が降り注いでいる。彼らをやわらかく照らし出し、包みこむ温もり――心地良い。
「紫苑」
「ん?」
 桔梗の手が、彼の額から瞼にかけてゆっくりと撫で下ろした。紫苑は素直に目を閉じる。
「ずうっと、いっしょにいましょうね」
「桔梗……?」
「約束ですよ。私の、側にいて下さいね」
「…………」
 紫苑は目を閉じたまま口元を緩めた。
「ああ。ずっと、いっしょだ」
 ――自分は、死ぬまで桔梗といっしょにいる。そう決めたのだから……。

 だらだらと過ごした一日も残りわずかとなった。ぼんやりと寄り添いながら他愛もない会話を交わし、笑い――まるで仔猫がじゃれあっているような、そんなやりとり。特別な何かがあった訳ではない。だが、この平凡な日常が何よりも貴重で愛しいものであるということを、ふたりは既に知っている。
 寝所に入り、紫苑は桔梗に問い掛けた。
「今日は楽しかったか?」
「……はい」
 先に横たわっていた桔梗が、紫苑を見上げて微笑む。
「一日中紫苑を独り占めできました。大満足です」
「そうか」
 燭の炎を吹き消して、紫苑は笑いながら腰を下ろした。
「今日はお前としか口をきいていないな。そのぶん、たくさん話ができた」
「紫苑は無口ですからね」
「……昔よりはだいぶおしゃべりになったと思うが」
「おしゃべりにはまだまだ程遠いですよ」
「そうかなあ」
 紫苑は暗がりの中で桔梗を抱き寄せ、その唇をそっとついばんだ。――言葉にならないこういったやりとりも、紫苑が桔梗から知り得たもののひとつだ。時には言葉よりも雄弁に互いの想いを伝えてくれる。もちろんまずはじめに言葉があって、こころが通じ合っていることが大前提ではあるけれど……。
「なあ、桔梗」
「……何です?」
 うとうととしはじめていた桔梗に腕枕を提供しながら、紫苑はくすりと笑った。
「今日は式神の姿を見なかったが、その割に食事だけは作ってくれていたのか?」
「あー……」
 桔梗は目を開け、紫苑から視線を逸らした。
「『せっかくのおふたりきりですし、邪魔しないようにします』って……」
「相変わらずお前にはあまいな、あいつらは」
 紫苑はつぶやき、やがてふと顔を上げた。
「なあ。もしかして、壬たちが今日やたらと長い時間留守にしているのは――」
「ななななななんのことですかわわわわたしなんにもわかりませせせ」
「動揺しすぎだ!! ……そういうことか……」
 紫苑は片腕で顔を覆った。どうやら今日の壬らの外出は彼らの意思ではないらしい。桔梗が頼み込んだのか、そうするまでもなく彼らは彼らの御子を尊重したのか――どちらにせよ、今日受けなかった分の冷やかしやため息や嫌味は、明日全部かえってくるのだろう。もちろん桔梗にではなく、紫苑に。
「しおん……?」
 気遣うように声を掛けられ、紫苑は桔梗を見つめた。おどおどと見つめてくる水晶の瞳に、紫苑はひとつため息をついた。
「まあいい。――どうせあいつらは朝まで帰ってこないのだろう?」
「え、ええ」
「だったら」
 紫苑は桔梗の目を見つめたまま、蠱惑的な微笑みを見せた。
「今度は私が満足させてもらう番だな」
「え? 一日中いっしょにいたのに……」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返す桔梗に、紫苑は唇を寄せる。
「まだ、足りない」
 ――愛し足りないのか、愛され足りないのか、それとも両方か。愛を知らずにいた自分に、それを教え、与えてくれる桔梗。一度知ってしまったその甘美な味は、もう手放せない……。
「紫苑はあまえんぼうな上にくいしんぼうなんですね」
 笑う桔梗に向かい、紫苑は大真面目に頷く。
「そのようだな」
 ……ややあって、閨に差し込む月の光が影に呑まれた――。

 その頃、都の外れの山中。小声の会話が木々のそよぎにまぎれている。
「なあ」
「……何、兄さん」
「夜明けまで何時間あるのかなあ」
「……四時間くらいかな」
「いくらなんでも他人様の屋敷に泊まり込むわけにはいかねえもんなあ」
「兄さんその辺真面目だよね」
「ふつうだろ、ふつう」
「ま、その兄さんの決断のせいで野宿になったわけだけど」
「俺のせいっていうか元はといえば桔梗が無茶言うからだ」
「……どうせ文句言えないくせに」
「隙を見て紫苑に仕返ししちゃる」
「やめといた方がいいと思うなあ」
 癸は太い枝に寝そべったまま、夜空を見上げた。煌々と輝いていた満月が、雲に呑まれていく――まるでその(おもて)を伏せるように。くすりと笑って、つぶやく。
「覗き見は、よすがいいよ」
 月といえども星といえども――運命すらも、きっとふたりを引き離すことはできないのだろうから。