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始まりの予感

 青空に月が溶けかかっている。雲はない。先日の大火で焼け落ちた古寺の焼け跡に、ひとりの幼児がぽつねんと佇んでいた。年の頃は未だ五つ六つであろう。色白の地の上に面相筆で丹念に書き込んだような、少し人形めいて見えるほど端正な顔をしている。
 だが、彼の整った顔には一つの粗があった。それは瞳の色。ひとにはあり得ぬ、紫電であった。
 ――ひととあやかしの交わりで生まれた、禁忌の子供。ひとは彼を指してそう呼んだ。
 彼は孤児である。父母の消息どころか出自さえも分からない。だが、あやかしの血を引く彼が潜在的に持つ高い能力をかい、当代の陰陽博士である御門蘇芳が彼を引き取った。
 御門紫苑。それが彼の名である。
「…………」
 彼はただ憮然と頬を風になぶられていた。時折どこからか、桜の花びらが風に混じって舞い散っている。このような年頃の子供がひとりで出歩くものではない。しかも彼は市井の子供ではなく、殿上人の子弟である。しかし、彼を保護する立場にある大人たちは誰も彼に干渉しようとはしなかった。むしろ、いつも何か忌むものを見るような目で彼を遠巻きに眺めているだけだ。子供ながらに紫苑は自分を囲む大人たちの纏う空気を敏感に感じ取っていた。――わたしは歓迎されていない。長い睫毛を伏せ、紫苑は白い小粒の歯列で唇を噛む。――生まれ出でたこの世に、わたしを迎える場所はないのだ。
 しゃり、と履物の下で炭が鳴った。
「……ふう」
 彼が息を吐いたとき、
「ここで何をしている?」
 低い声が背後から聞こえた。
「…………」
 紫苑は振り返らない。
「待っている」
 澄んだ声で、紫苑は答えた。
「誰を?」
 声の主は若い男だろうか。決して大きな声ではないのに、どこか威厳がある。
「知らん」
 紫苑は吐き棄てるように言って、渋々振り向いた。そこに立っていたのは燃えるように紅い衣に身を包む、ひとりの男だった。着ているものは直垂のようにも見えるが、少し違うようだ。黒と金の糸で飾られたそれは、とても高価なもののように見えた。男は端正で鋭い顔つきをしていたが、紫苑の視線はある一点のみに吸い寄せられる。紅蓮の瞳。これはひとではない。そういえば、髪も僅かに赤がかっているようではある。しかし、その外見はあやかしのものではなかった。耳も尖っておらず、顔面には紋様もない。
「…………」
 紫苑はじっとその瞳を見つめる。恐怖も躊躇いもなく、ただそこには純粋な好奇心のみがあった。男は笑うでもなく紫苑を見つめ返し、やがて尋ねた。
「名は?」
「御門紫苑」
 彼はあっさりと答えた。本来、陰陽師は名を明かしてはならないものである。力ある相手に名を知られるということは、「名」を通して存在の全てを把握されてしまうことに通じる。それを避けるため、義父である蘇芳をはじめとして陰陽師は皆偽名で生活を送っているのだった。だが、紫苑は違う。彼を「名」というただひとつのことばを通して把握するのは、不可能だ。未だ己の力の全てが意のままになるというわけではないが、既に蘇芳の元で始めた陰陽道の修行によって、彼は少しずつその潜在能力を開花させ始めていた。
 しかし、紫苑が名前を告げた理由はそんなところにはない。
「わたしも名を告げたのだから、次はお前の番だ」
 紫苑は真っ直ぐな眼で男を促した。男の無表情な面に、僅かに苦笑のような色が浮かぶ。
「我には『名』がない」
 紅い衣がはたはたと風に揺れた。
「しかし、人間どもが我をどう呼ぶかは知っている」
 男の薄い唇がその呼び名を刻む。
「朱雀――と」
 東の青龍。西の白虎。南の朱雀。北の玄武。それは都を四方から守る四神獣なのだと、民は言う。だが、陰陽師たちの間では見解が異なっていた。四神獣たちの存在について、ではない。その役割である。彼らは決して都を守っているのではない。むしろ都を包囲しているのだ……。
「この世界から、薄紙一枚を隔てた世界」
 以前、蘇芳は紫苑にこう言った。
「式神はそこから呼び寄せる。そこは魂や精霊……そう言ったものの本体、つまり目に見えぬ力に満ち満ちた世界だ。この世界に宿っているのはそれのほんの一部に過ぎない。そして神獣たちもそこにいる」
「なぜひとの形をしている」
「呼ばれたからだ」
「誰に」
 紫苑の問いに男は――朱雀は、はっきりと苦笑を浮かべた。
「この寺の僧正だ」
「…………」
 紫苑は少し考えた後、やがてため息を吐いた。
「この火事はそういう訳だったのか」
 昨晩、星が動いた。星見に長けていたこの寺の僧正がその示すところを読み取ったところ、朱雀が降臨する、と解釈されたらしい。方術にも造詣のあった僧正は、神獣を己が元へ呼び寄せることを望んだ。
「しかし、彼は我を呼び寄せるだけの器ではなかった……」
 術は暴走し、結果的にこの大火となったというわけである。死人が出なかったのが幸いというところだろう。
「にも関わらず」
 紫苑は男を見上げた。
「この世界に来たのは何故だ」
「…………」
 鋭い問いであった。朱雀は沈黙し、やがて微笑んだ。そのあまりに柔らかで穏やかな笑みに、紫苑は息を呑む。こんな表情で微笑みかけられたことなど、彼にはなかった。
「運命の子よ」
 その呼びかけが誰に対するものなのか、紫苑は分からずに瞬きを繰り返す。
「紫苑。お前のことだ」
「わ、わたし?」
「そう」
 男の長い指先が、真っ直ぐに彼を指した。
「我はお前に力を与えるため、この世に降り立った」
「…………」
「お前の待ちびとは、我だ」
 紫苑は茫然と男を眺めている。その表情は年齢相応に幼いものだった。
「ひととあやかしの血を引く者。お前に用意された運命は、その力で……ひとりで立ち向かうにはあまりにも過酷なものになるであろう」
「良く分からない」
「今はそれでいい」
 朱雀は頷いた。
「我々神獣は……お前の運命が行き着く、最後の時のために存在している」
「…………」
 紫苑は言葉もなく朱雀を見つめている。男は徐々に輪郭を失い、ただそこには神々しいまでに赤々と燃える炎が――いや、炎に包まれた一羽の巨大な鳥が鎮座していた。
 ――名を。
 朱雀の声が、紫苑の頭に響く。
 ――我に名を与えよ。
 「名を請う」という行為にはとても大きな意味がある。それは、朱雀が紫苑に仕えるという証。紫苑は頷いた。
 運命が何なのか、彼には分からない。だが、ここで朱雀を拒否することはできなかった。この神獣に背を向けるということ、それは運命への敗北を意味するような気がしていた。――そんなのは嫌だ。紫苑は唇を噛む。どこにも居場所がなくても、誰ひとり彼を愛してくれなくても、彼はここで生きていくしかないのだから。
「――焔」
 紫苑はつぶやいた。眩しいまでの光に照らされても、彼は眼を細めようともしない。
「お前の名は、焔だ」
 朱雀はその美しい翼を二三度はためかせ、やがてゆっくりとその身に纏う炎が収束した。そのあとには、再び男が立っている。
「ほむら」
 その低い声が、繰り返した。
「その名。確かに受け取った」
「…………」
 紫苑は頷く。その視線が、ふと焼け跡に転がるひとつの鞠に止まった。
「…………」
 紫苑は軽い足取りでその鞠の元に駆け寄り、それをそっと拾い上げる。唐風の刺繍が施された美しい鞠。不思議と煤ひとつついていない。この寺の稚児がこれで遊んでいたのだろうか。紫苑は子供同士で遊んだことがない。たまに彼の元を訪れる叔父が相手をしてくれることもあったが……それを除けば大人とて彼の相手をしてくれはしなかった。
「紫苑。どうかしたのか」
 朱雀――いや、焔が訝しげに声を掛ける。紫苑は思い立って、その鞠を彼のほうへと蹴り上げた。
 ぽうん。
 軽い音とともに鞠は宙へと舞い上がり、焔はそれを見上げる。紫苑の目の前で、焔は落ちてきたそれを蹴り上げた。
 ぽうん。
「…………」
 紫苑は相好を崩し、鞠の飛び上がった空を見上げる。春の青い空に極彩色の鞠が映えて、それはとても綺麗だった。
 ぽうん。
 ぽうん。
 紫苑が蹴ると焔が蹴り返してくれる。決して焔はその遊びに興じている訳ではなかったが、紫苑にとってそれは問題ではなかった。
「ふふっ」
 知らず知らずのうちに、笑みが零れていた。もう、焔が何者でも良かった。ただ楽しくて――それだけ。
 ――始まりの予感を感じ取るには、未だ彼は幼すぎた。