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夏祭り (現代パロディ)

 夏といえば夏祭り。御門紫苑の実家である神社でも、毎年恒例の祭りが行われることになっていた。昨年までは小規模にひっそりと行われていたのだが……。
「ふっふっふ。今日こそお前にひとあわ吹かせてやるぜ!」
「ふっ。威勢のいい坊主だ」
 向かいあった両者から、火花が散る。
「あ……あのな」
 紫苑の声などふたりには聞こえていない。
「祭りといえば粉もん、粉もんといえばたこ焼き。クレープなんざ邪道だ!」
「これだから西のものは野暮ったい。今時たこ焼きなど流行らん」
「何だとおおおお!!!」
「…………」
「何、アレ」
 昴が冷めた目でつっこんだ。紫苑はふるふると頭を横に振る。
「私も良くわからん」
「いつもの喧嘩ですよ、壬と夜雲の」
 桔梗の説明にも、昴は釈然としないように腕を組んだ。
「まあ、それはわかるんだけど……」
「今度紫苑の神社で祭りをやるって聞き付けて。壬がたこ焼きの屋台を出すって言ったんですよ。で、紫苑がOK出したら今度は夜雲さんが来て、クレープ屋をやるって。壬にいいって言って夜雲さんだけ駄目ってわけにもいかないし、紫苑が了承したら……この騒ぎです」
「なるほどねえ」
「でもたこ焼きはご飯だしクレープはおやつだし。比べられるものでもないんじゃ?」
 透流の至極もっともな疑問に、紫苑はため息混じりに答えた。
「売り上げで競ってるんだそうだ」
「……はあ」
「そもそも燐がいかんのだ。『神社も経営が苦しいんだから、祭りにもっとひとを呼ぶべきだ』とか何とか言い出して……」
「あっ、ひとのせいにする?! 紫苑だってその時はいいアイディアだって」
「いやまあそれはその」
「まあまあ」
 桔梗がにっこり笑って振り向いた。
「両者が競い合って売り上げを伸ばしてくれれば、その1割はこちらに入ってくるんですし。結果としてはおいしいですよ」
「…………」
 一瞬、その場の空気が凍りついた。その中を、ひそひそと囁き声が流れる。
「おれ今はじめて桔梗さんが怖いと思いました」
「気付くのが遅いわよ、あんた」
「全くだ」
「紫苑?」
「いや、何でもない」
 桔梗の声に紫苑はしらを切り、視線を壬らに向けた。
「そもそもたこ焼きなんてどれを食べても同じ味だろう。クレープなら中に包むものによっていろいろと味が変わるが」
「たこ焼きだってなあ、ソースかけるかしょう油かけるか、もしくは出汁をかけて明石焼きにするとか、いろいろ食い方はあるんだよ! ねぎポン酢も美味いしな!」
「……はあ」
 相変わらず睨みあう両者を目にし、思わずため息を漏らしてしまう紫苑なのだった。

  × × ×

 境内には既に提灯が灯っていた。浴衣に着替えを終えた桔梗は、うろうろと紫苑を探している。いつもは人気のない境内も、今日ばかりは浴衣姿の男女で賑わっている。例年よりも人出が多いのは、日向が描いて近隣に配ったチラシのお陰だろうか。それとも屋台が出るのが少しは話題になったのか。
 例の屋台勝負、桔梗は壬に勝って欲しいと思っているが、紫苑は主催者である手前夜雲の屋台からも買わねばならないだろう。桔梗自身もクレープは好きなので、難しいところである。たこ焼きを多めに買うというところで何とか義理は果たせるだろうか……。
 あれこれ考えながら歩いていた桔梗は、誰かの背中にひどくぶつかって止まった。
「あ、ごめんなさ……」
「あん?」
 振り返ったのは壬ほどの背丈の若い男。桔梗は愛想笑いを浮かべて会釈をして立ち去ろうとするが、手首を掴まれてそれは成らなかった。
「へえ、可愛い子じゃないか」
 友人なのか、数人の男がぞろぞろと自分を取り囲む。桔梗は手を振りほどこうとするが、きつく握りしめられて痛みに顔が歪んだ。
「君も遊びに来たの? 俺たちと一緒に遊ぼうよ」
 猫なで声に、鳥肌が立った。
「浴衣も似合ってるねえ」
 手が肩に伸びて来る。桔梗は一瞬目を閉じ――そして、開いた。
「へっ?」
 腹に鈍痛を感じたときには、男の体は宙を飛んでいた。そのまま地面に勢い良く叩きつけられる。
「な、何だ?!」
 桔梗は自分の腕を掴んだままの男に、ちらりと一瞥を投げた。
「ぐあっ?!」
 突然腕があり得ない方向に折れ曲がり、男は悲鳴を上げた。桔梗はもう一度、手を振り払う。痛みに悲鳴を上げながら、男は膝をついた。
「な、何だ、この女……!!」
「…………」
 桔梗はゆっくりと顔を上げた。その唇に浮かんだ酷薄な笑みに、場が凍りつく――。

「桔梗!!」

 その声に一番早く反応したのは、桔梗だった。
「紫苑っ」
 声の主に向かい、小走りに駆けて行く。青ざめた紫苑の胸に身を投げ、桔梗は首を左右に振った。
「怖かったですぅー!」
 ――嘘をつけー!!
 男たちの叫びは、声にならない。一瞬振り返った桔梗の目は、いかにも恐ろしく研ぎ澄まされていた。
「お前たち」
 桔梗を庇うように背後に立たせ、紫苑が低くつぶやく。その背後に赤い怒気が揺らめいていた。
「このまま立ち去り、二度とこの境内に足を踏み入れるな。桔梗にも近付くな。さもなくば……」
「…………」
 ごくり。誰かの喉が鳴った。
「この場で灰と化してやっても良いぞ」
 ――いや、それ殺人ですからー!!
 言い返す気力もあらばこそ。男達はあっさりと逃げ出した。桔梗の一撃で吹き飛び気を失っていた男も、彼らに担いで行かせる。
 紫苑はため息を付き、桔梗の頭を撫でた。
「全く……気をつけなければならんぞ」
「うう、ごめんなさい……」
 本当に気をつけなければならないのは、紫苑の胸でぐすぐすと鼻を鳴らす桔梗ではなく――彼女を見た目で判断しようとする者たちだろう。
「さあ、行こうか」
「はい!」
 差し出された紫苑の手をとり、桔梗は花のように微笑んだ。

  × × ×

 高温の鉄板の上で、油が弾ける。両者が十分に馴染んだのを見計らい、壬は型に生地を流し込んで手際良く具材を放り込んだ。
「偵察してきたよー」
 壬を手伝う癸の背後、店の裏側からひょっこりと朔が姿を見せた。
「あっちはかなりの盛況。クレープだから女の人が多いかと思ったら意外に男も多くて」
「何?」
 壬は汗を拭い、朔を見遣った。
「どういうことだ?」
「真雪さんが店員やってるんだよね。その効果じゃないかな」
「なるほど」
 癸が腕を組み、つぶやく。
「メニューで女性層と取り込み、接客で男性の目を引く。いい作戦だよね」
「なんだ、じゃあこっちも誰かに手伝ってもらえばいいのか?」
 壬の言葉に、朔が考え込むように目を伏せた。
「じゃあ、桔梗さんとか?」
「あいつは駄目だ、紫苑と一緒に祭りを回ることしか頭にねえよ」
「んー、じゃあ日向さん」
「あいつ見た目男だぞ」
「加乃さん……?」
「蓮くんとのデートは邪魔したくないなあ」
「……昴さん?」
「正直店員にはものすごく向いてないキャラだと思うんだが」
「何? 呼んだ?」
 その声に壬は文字通り飛び上がった。慌てて前を向くと、昴が屋台の前の列に並んでいる。
「たこ焼き、ひと皿頂戴」
「お、おう」
 壬は慌てて差し出した。
「五百円な」
「まけてくれてもいいのに」
 昴は巫女としての仕事が終わったのか、壬から受け取ったたこ焼きをはふはふと息を吹きかけてさましている。
「透流は?」
「今飲み物買いに行ってるはずだけど。何か用?」
「えーと、実は頼みごとがだな……」
 壬はおそるおそる切り出した。
「良かったらこの店、手伝って欲しいんだが……」
「へ?」
 たこ焼きをくわえたまま、昴がきょとんと目を大きくした。
「夜雲の屋台が真雪を投入しててさ。正直今厳しいんだよ」
「嫌よ、私だってお祭り楽しみたいもの」
「……そうだよね」
 癸がぽつりとつぶやいた。
「真雪さん相手じゃ、昴さんも厳しいよね」
「…………」
 場が凍りついた。癸ははっと顔を上げ、わざとらしく笑ってみせる。
「あはは、気にしないで。誰でも負ける勝負はしたくないもんね、わかるよ」
「だ・れ・が」
 俯いていた昴の拳がふるふると震える。
「真雪に負けるですってぇぇぇぇぇぇぇ?!」
「わ」
 昴はずかずかと屋台の中に入り、ぐいと巫女装束の袖を捲くった。
「やってやろうじゃないの!」
「おおー」
 朔が無責任に拍手で煽る。
「さあ、そこの! 何皿?!」
「え……ふ、二皿」
 昴の勢いに押され気味に、客が答えを返す。
「毎度ありー」
 壬が手早く包んだそれを、昴は客にずいと差し出した。
「熱いから気を付けなさいよ!」
「……は、はい」
「な、なあ。いいのかこれで」
「……いいんじゃない?」
 癸はひょいと肩をすくめる。
「つんでれ巫女たこ焼きってことで」
「いやーそれはどうかなー」
 壬は首をひねるが、客足はどうやら伸びている。きびきびした動作で接客をする昴が、最後に掛ける気遣いの一言。それがいいらしい。
 また、昴が屋台にいると当然のように透流が手伝ってくれる。それもまた壬らにとっては助かった。
「それにしても、癸さんはすごいですね」
 朔がのんびりと言った。
「何のこと?」
 笑顔で振り向く癸に、朔は苦笑する。
「昴さんを上手くその気にさせたでしょ?」
「……まあ、それなりに付き合いが長いからね。とはいえ、透流さんほど扱いが上手いわけじゃないけど」
 癸はやわらかい眼差しで並び立つ昴と透流を見遣った。折りしも紫苑と桔梗がたこ焼きを買い求めにきたようで、何やらわいわいと騒いでいる。
「何かいいね、こういうの」
 癸の小さなつぶやきは喧騒に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。

  × × ×

「……あら」
 接客に余念のなかった真雪は、目の前に立った客の姿に目を丸くした。紫苑と桔梗である。紫苑はメニューを睨みながら、指を二本立てた。
「いちごクリームと、チョコバナナひとつずつ」
「……はい」
 真面目くさって注文する紫苑の姿に、真雪は小さく噴き出した。
「どうした?」
 生地を焼いていた夜雲がひょいと顔を覗かせ、絶句する。
「……お前」
「焦げるぞ」
 紫苑に言われ、夜雲は慌てて生地を裏返した。
「まさか貴方がたが買いにきて下さるとは思いませんでしたわ」
 焼けた生地にトッピングを施しながら、真雪は笑った。
「何故だ?」
「紫苑さんは壬さんたちと仲が良いではありませんか」
「あちらも買いに行ったが」
 真雪の手からふたつのクレープを受け取り、紫苑はホイップクリームといちごの挟まれた方を桔梗に渡した。桔梗は早速はむ、と食いつく。
「自分の神社の境内に出ている屋台だ。顔を出しに行くのが当然の礼儀だろう?」
「そういうものでしょうか」
「そういうものだ」
 紫苑は言い切り、ちらりと背後を見遣った。そこに並ぶ列を気にしたのか、そそくさとその場を立ち去ろうとする。
「邪魔したな」
「いえ。ありがとうございました」
 並んで遠ざかっていくふたつの背中を見送る真雪に、夜雲がぽつりとつぶやいた。
「調子が狂うな」
「調子が?」
「俺は元々あいつをいけすかないと思っていたんだが」
「ええ」
 もちろん、真雪はそれを知っている。夜雲はため息をついた。
「今日はやられた」
「…………」
「まるで、下らないことで意地を張っているこちらの方が馬鹿みたいだ」
「ふふ」
 真雪は笑った。
「夜雲、知っていて? 壬さんも貴方と同じだったそうよ」
「壬が?」
 夜雲は意外だというように声をあげた。
「壬さんもね、最初は紫苑さんのことが気に入らなかったんですって。ところが紫苑さんがあんな調子でしょう? いつの間にか毒気を抜かれちゃって今じゃ居候」
「……猛獣使いの才能でもあるんじゃないか、あいつは」
 毒づく夜雲に、真雪はちらりと視線を投げた。
「あら、それは夜雲が猛獣だってこと?」
「もののたとえだ」
 薄いクレープ生地が、ほどよくきつね色に焼き上がる。そのできばえに満足して目を細めながら、夜雲はその怜悧な口元に笑みを浮かべた。
「まあ、あれだけ自覚のない調教師もいないだろうがな……」

 その頃、紫苑はチョコバナナクレープを頬張っていた。
「たこ焼きもクレープも、美味しかったですね」
 一足先に食べ終えた桔梗は、指先に付いた生クリームをなめとっている。
「そうだな……」
 ――それにしても夜雲があの薄いクレープ生地を器用に焼くとは。壬が丸く焼き上げるたこ焼きといい、不器用な自分には絶対できないであろう芸当を軽々こなす彼らに、紫苑は内心で深く感服していた。

  × × ×

 日向の姿が見えない。燐は手にたこ焼きをもったままきょろきょろと辺りを見回した。つい先ほどまで側にいたはずなのだが……。
「はぐれるくらいなら、無理やりでも手を繋いでおけば良かったな」
 燐はため息をついた。日向には手に汗をかくからなどと理由を付けて、断られてしまったのだ。浴衣を薦めても断られるし、手も繋いでくれないし。あからさまにがっかりした様子の燐を、朔までもが心配げに見守っていた。息子にまでヤキモキされては正直終わりだと思う。朔と日向はとても仲が良いのだが……。
「あ」
 燐は視界の隅に見覚えのある姿をとらえ、小さく声をあげた。神社の裏手の階段に、日向が腰掛けている。
「ひなたー」
 駆け寄っていくと、日向はびっくりしたように顔を上げた。
「あ、先生……」
「燐でいい、って言ってるだろ?」
 彼女の隣に腰掛け、燐はたこ焼きを彼女の膝に置いた。
「少し冷めてしまったかもしれないけど、一緒に食べよう。夕飯、まだだよね?」
「は、はい」
 日向はつまようじでたこ焼きを刺し、気まずげに燐を見上げた。
「あの……もしかして、探してくれていました?」
「当たり前だろう? 祭りって結構物騒なんだから。さっき桔梗ちゃんも絡まれかけたらしいし」
「……絡んだやつら、あほですね」
「結果は見えてるからね。せいぜい、桔梗ちゃんにぶっ飛ばされるか紫苑にぶっ飛ばされるかの違いだ」
 燐はくすくすと笑い、やがてその笑みを引っ込めた。
「でも、君は桔梗ちゃんほど強くないだろ? あんまりふらふらとどこかへ行ってはいけないよ」
「……はい」
「まあ、目を離した僕も良くなかったけれど……」
 燐はたこ焼きをひとつ、口の中に放り込んだ。
「うん、美味しい」
「確かに、美味しいですね」
 日向の笑みを見て、燐はほっとしたように肩の力を抜く。そのままたこ焼きを半分ずつ平らげ、燐は提案した。
「あとでクレープも買いに行く?」
「あ……」
 日向の視線が左右に揺れた。
「いや、おれはいいです」
「そう?」
 燐は怪訝そうに日向を見つめる。いつもなら喜んで一緒に来てくれそうなものなのだが……。
「体調、悪い?」
「そんなことないです」
「クレープ嫌いだっけ」
「や……好きですけど。でも、今日は別にいらないかなって」
「そう……」
「あ、先生はどうぞ行ってきて下さい!」
 気を遣わせまいとする日向に、燐は苦笑した。
「いい年してひとりでクレープ食べたって楽しくないよ」
「で、でも朔くんとか」
「朔は朔。それに、あの子は今壬くんたちのお店で忙しくやってる」
「…………」
 日向は黙って俯いてしまった。せっかく朔がふたりで祭りを楽しめるようにしてくれたのに……。燐は困って眉を寄せる。
「一体どうしたの? 何かあったなら言ってくれないと」
「…………」
「日向?」
 ふと、燐は気が付いて視線を落とした。彼女の履いているサンダルに、血が付いている。
「?」
 しまった、という顔をして足を引っ込めようとする日向をとどめ、燐は彼女の足元に屈みこんだ。
「うわ。すごい靴ずれ」
 燐は顔をしかめる。傷は真新しく、あまりにも痛々しかった。そしてふと気付く。
「もしかして、これが痛くて歩けないから……ここに?」
「…………」
 日向は黙っているが、多分それが正解なのだろう。誰にも迷惑を掛けたくないと、痛みを堪えてここにひとりでいることを選んだのだ。クレープを断ったのも、歩くのが辛かったから。
 その必要もないのに強がらずにはいられない、そんな彼女が燐にはひどくいとおしい。
 燐は立ち上がった。
「絆創膏、誰か持ってるかな……聞いてみないとね」
「あ、あの、大丈夫ですから!」
「大丈夫じゃないでしょ? それに傷、洗いに行かなきゃ。砂が入って化膿したら大変だよ」
「でも」
「でもじゃないの。ほら」
「え?」
 背中を向けて屈みこんだ燐に、日向は目を丸くした。
「捕まって。痛いだろうから、おぶっていってあげる」
「い、いいですよ! そんな」
「いいから早く。さもないとお姫さま抱っこにするよ」
「う、うう……」
「早く!」
 燐に急かされ、日向はしぶしぶ彼の背中に体を預けた。燐はひょいと立ち上がる。
「浴衣じゃなくて良かったね」
「…………」
 顔を見なくてもわかった。日向は今きっと顔を真っ赤にしている。
「でも、痛い時はちゃんと僕に言うんだよ。ひとりで我慢なんてしないで」
「……はい」
「足の手当てが終わったら、クレープ食べに行こうね」
「……はい」
 燐の肩に回された腕に、少し力がこもった。
「ありがと……燐」
「……どういたしまして」
 背中に掛かる重みに、燐は小さく笑みを零した。

  × × ×

 提灯の火が消え、境内からざわめきが去っていった。式神に掃除をさせながら、紫苑はふっと息をつく。――これで夏の一大行事は終わった。まだまだ夜も蒸し暑く秋には遠いように思えるが、想像よりもずっと早く季節は過ぎていく。そういうものだ。
「紫苑!」
「ん?」
 駆け寄ってきた桔梗が腕に飛びつき、紫苑は彼女を見下ろした。
「花火やりませんか?」
「花火?」
「ええ。昴さんが言い出して、透流さんが買いに行ってくれたんです! どうせ壬たちが屋台の片付けするの待たなきゃいけないし」
「そうか」
 紫苑は笑って足を踏み出した。
「ちゃんとバケツに水を汲んでおかないとな。火の不始末には気を付けなければ」
「そうですね」
「そういえば、日向は大丈夫なのか? 足に怪我をしていると燐が言っていたが……」
「それなら大丈夫です」
 桔梗はそう言い、にっこりと微笑んだ。
「蓮くんが絆創膏持っていたので、借りたそうですよ」
「用意がいいな」
「女の子たちが浴衣を着るって聞いて、下駄の鼻緒で誰か怪我するんじゃないかって思ったんだそうですよ。まあ、日向さんはサンダルでしたけど」
「……良く気が回るなあ」
 感心した紫苑を、桔梗は意味深な上目遣いで見上げた。
「紫苑も見習わなきゃいけませんね」
「うん? ……まあ、な」
 困ったように眉を寄せる紫苑に、桔梗はくすくすと笑った。
「嘘ですよ。紫苑はそのままでいて下さい」
「そのまま?」
「紫苑は、ちょっと気が付かないくらいがいいんです」
「……褒められているのかけなされているのかわからんのだが」
「紫苑が大好きってことですよ」
「…………」
 言い捨てて駆け出す桔梗の後ろ姿を、紫苑は茫然と見送る。……やがて、笑みが浮かんだ。
「やれやれ」
 照れを隠すように空を振り仰ぐ。晴れた空に月はなく、ただ小さな星くずの光だけが煌いていた。

「紫苑、何してたのよ。遅いわよ!」
「ああ、すまんすまん」
 昴の口の悪さには既に慣れている。紫苑が軽く受け流すと、何も頼まないのに彼女は彼の手に花火を押しつけ、ライターまで差し出してくれた。礼を言って、火をつける。じじじ、と小さな音を立てて花火は燃え始めた。覗き込んだ昴が声をあげる。
「あら、線香花火だった? もうちょっと派手なのもあったと思うんだけど」
「いや。これでいい」
 紫苑はそう言った。
「線香花火が好きなんだ」
「そう」
 遠ざかる足音を聞きながら、紫苑は弾ける黄金色の火花を見つめる。久しぶりの線香花火は、彼の記憶の中にあるよりもずっと美しく見えた。昔は遠目に眺めていただけだったからだろうか……。
「あー、もう終わっちゃった」
 声に顔をあげると、意外に近い場所に燐が立っていた。彼もまた花火を手にしているが、既に燃え尽きてしまったらしい。
「線香花火って綺麗なんだけど、短いところがちょっと寂しいよね」
「ああ……そうだな」
 紫苑はつぶやく。彼の目の前でも徐々に火花は小さくなり、先端の赤い球状の光も徐々に消えていこうとしていた。
「だが、何となくこの光には心惹かれる」
「確かにね」
 燐はうなずく。
「何だか切ないような、あったかいような、不思議な気持ちだ」
「火をつけてしまえばいつかは消える……わかっていても、その一瞬の輝きが見たくて、私たちは火をつけてしまうのだな」
「確かに消えるけど、でも僕たちの記憶には残るし、思い出にもなるじゃないか」
 紫苑が顔をあげると、燐は優しく微笑んでいた。その向こうでは、桔梗や昴が何かしら騒いでいる。星の光と花火の光に照らし出されたその光景は、ひどくあたたかいもののように見えた。
「僕たちの生きる一瞬一瞬はすぐに過ぎ去ってしまうけど、その全てが過去になって積もっていく。なくなってしまうわけじゃないさ。そうだろう?」
「……そうだな」
 紫苑は火の消えた花火をバケツの中に落とした。じゅ、という音とともに花火は水の中に沈んでいく。
「この光景を……私は決して忘れない」
 何気ない日常の風景。だが、それが貴重なものだと紫苑は何故か知っていた。かすかな記憶――つらい別離の記憶。それが自分のものなのかどうなのかは定かではない。ただ、その悲しみは彼の中に刻み込まれていた。だからこそ、こうして大切なものたちと過ごせる毎日を、ひどく愛しく感じる。桔梗の笑顔も、壬のぼやきも、昴の暴言も、燐のとりなしも、何もかもが愛しい。
「紫苑!」
 ふと気付くと、桔梗が駆け寄ってきていた。
「どうしたんですか?!」
「え?」
「だって、紫苑泣いて……!」
「あ」
 紫苑は頬を拭い、濡れていることに驚いた。いつの間に自分は泣いていたのだろう。そもそも何故泣いていたのだろう……。
「花火を見つめ過ぎて、目をやられたのだろう」
 心配そうに見つめる桔梗の髪をなで、紫苑は笑ってみせる。
「大丈夫だ」
「だったらいいんですけど……」
「でも良く気付いたね、桔梗ちゃん」
 燐の言葉に、桔梗は握りこぶしを作って振り向いた。
「だって紫苑のことですから!」
「愛の力だねえ」
「はいっ!」
 紫苑は桔梗の華奢な肩をそっと抱き寄せた。
「……ありがとう」
「し、紫苑?!」
「ストーップ。続きはふたりっきりになってからねー」
「こらそこ! 人前でいちゃつかない!」
「昴さんはちょっとくらいいちゃつかせてくれても……」
「うるさい! 火ィ点けるわよ?!」
「ぎょええええええ」
 騒々しい周囲の音に笑みを零しながら、紫苑は桔梗を離す。赤い顔で見上げる桔梗と目が合って、紫苑は再び涙が零れそうになった。――しあわせだ。今、この瞬間が。どうしようもなく、しあわせだった。

「――おい」
 屋台を片付けていた夜雲は、聞き覚えのある声に手を止めた。
「なんだ、壬か」
「なんだとはなんだよ。……あのさ」
 壬は仏頂面で明後日の方向を眺めている。
「クレープって、種類いろいろあんだろ」
「……? ああ、そうだが」
「ってことは仕入れ値結構掛かってるんじゃないのか」
「それは、まあ……」
「売り上げの勝負、フェアじゃねえよな」
「…………」
「今回の勝負、やめにしねえか」
「……良いだろう」
 真雪が驚いて自分を見ていることに気付きながら、夜雲は頷いた。
「今回はやめだ」
「ああ、あとさ」
 壬はずい、と何かを差し出した。
「たこ焼き。一皿余ってるんだ。どうせお前ら夕飯なんて食えてないんだろ? 食えよ」
「…………」
 夜雲はため息をついた。
「お節介なやつだな、お前は」
「何だとう?!」
「借りを作るのは癪だからな。こちらの余りものも持っていけ」
「クレープって余るもんか……?」
 怪訝そうな顔をする壬に、有無を言わせず夜雲は紙に包んだクレープを手渡した。
「弟とふたりで食うんだな」
「お、おう」
「……ねえ、夜雲」
 壬が立ち去った後、真雪が夜雲に声を掛けた。
「どういう風の吹き回し?」
「何となくな」
 夜雲は小さくため息をついた。
「今夜は無粋な勝負をする気になれなかったんだ」
「ふうん……?」
「食うか?」
「ええ、いただくわ」
 厳重に緩衝材で巻かれていたそれは、まだほんのりと温かい。たこ焼きをひとつ口に入れた真雪が、夜雲を見て微笑んだ。
「美味しい」
「そうか」
 その微笑みに、心が暖かくなる。と同時に、どこか胸の奥深い場所がずきりと痛んだ。
「夜雲? どうかした?」
「いや……」
 夜雲は首を横に振り、真雪の髪に手を滑らせた。さらさらとした感触は、彼の良く知るものだ。何故か妙に安心した。
「花火。わけてもらいにいくか?」
 遠くで瞬く光を指差して真雪に問うと、彼女は大きく頷いた。
「あら、いい考えね」
「よし」
 立ち上がり、彼女の手をとる。……もう二度と、離しはしない。

 その夜、花火は夏を焦がしながらいつまでも燃え続けていた――。