instagram

何そこの児の

 紫苑の部屋で仮名を書く練習をしていた桔梗は、ふと彼の部屋にかかっている掛け軸に目を留めた。
「これ、何と読むんですか?」
「これか?」
 紫苑は懐かしそうな眼をしてその軸を見遣った。黒々と達筆で書かれた言葉。その脇に添えられた花の絵は打って変わって可憐で繊細だった。それを見つめるのは、半妖の証である紫電の瞳。忌諱されるその色が、とても暖かく潤む。
「これは私の叔父が書いてくれたものだ」
「叔父?」
 興味津々に覗き込む桔梗は、銀髪に青い眼を持つあやかしだ。彼らが出会って二ヶ月。平安京に初雪が降ってまだ間もない。
「紫苑のお父さんって……本当のお父さんじゃないよね?」
「ああ、そうだ。叔父とも血は繋がっていない」
 紫苑は頷いた。彼の本当の父親の名は誰も知らない。いや、知る者がいるとしたら彼の義父、御門蘇芳ら数人だろう。あやかしである母親については、あやかし四天王の一、鳳凰族の者だという話だが、真偽の程は確かめようがない。
 代々続く陰陽師の名家、御門家。紫苑がその一門に入ったのは彼が半妖として類まれな能力を秘めていたからである。蘇芳は彼を決して愛しはしなかったし、暖かく接することもなかった。紫苑自身そういうものだと次第に割り切るようになったのだが――。
「蘇芳には弟がいたのだ。それが叔父」
 義父を父とは呼ばない彼が、叔父と呼ぶ存在。
「どんな方だったんですか?」 桔梗は気になって身を乗り出した。紫苑は苦笑する。
「仮名の勉強はどうする? 勉強が進まねば掛け軸の文字も読めぬぞ」
 桔梗は気まずげに肩をすくめ、上目遣いに紫苑を見つめた。
「あ……それは後で」
「仕様のない奴だ」
 何のかんのと言っても桔梗に甘い紫苑は、そうつぶやくと軽く天を仰いだ。長い黒髪が広い肩に零れかかる。桔梗はその怜悧な横顔を眩しげに見つめた。ゆっくりと目を閉じ、彼は何かを思い出そうとするかのように小さく深呼吸する。
「そう……」
 息を吐くと同時に、紫苑は口を切った。
「あれは私が七つの歳の時だな……」
 ――もう十数年前のことだ。御門(あおい)は高野の寺から京へ戻ると、真っ直ぐに兄の館に戻った。それは、高野の僧との問答を御門家当主である兄に伝え、自らの陰陽道修養の成果を見せるため。それともうひとつ、葵にとって大切な目的があった。
「やあ、紫苑」
 葵は兄との話を済ませるとすぐに紫苑の部屋へとやってきた。葵はこの小さな甥――勿論血は繋がっていないが――をひどく気にかけていた。
「お久しぶりです、叔父上」
 紫苑の固い表情が僅かに和らぐ。冷たい印象を与える端正な造形が、この叔父を目の前にすると緩むのだった。だが、いつもと少し様子が違う。葵は嫌な予感を覚えながら、尋ねた。
「元気にしていたか?」
「ええ」
 紫苑はかすかに眼を伏せ、自嘲気味に笑った。
「あやかしは病なども得ぬものなのでしょうか」
「…………」
 葵はため息をついた。
「誰がそのような馬鹿なことを言ったのだ」
「皆言っておりますよ」
 紫苑は顔を背けた。
「私は危険な人妖(ばけもの)なのだと」
「紫苑!」
 葵は大声を上げた。紫苑が黙り込む。
「……そんなことを言うな」
 紫苑はついと文机を立ち、葵の佇む簾の側へと歩み寄った。
「叔父上は何故私に構うのです?」
 紫電の瞳が今までに見たこともないほど冷え切っている。
「私のことなど、放っておけばよろしいのに」
「……何を言う、」
「本当は私を憎んでおいでのはず」
「…………」
 ――葵は胸中にため息を零した。紫苑が何故急にこのようなことを言い出したのか察しがついたのだ。
「そのことなら兄上から聞いた」
 言った相手は過ぎた戯れ――趣味の悪い戯れのつもりだったのだろう。日頃から人妖と蔑まれ、仲間外れにされ、禁忌の血だの何だのと言われ虐められている紫苑にとっては、その程度のことは何と言うことはないと思ったのかもしれない。しかし……。
 ――お前は随分葵どのに懐いているようだが、あの方はお前のことを憎んでいるに決まっているではないか。
 蘇芳には子供がない。だから紫苑が養子として引き取られてこなければ、御門家の次期当主は葵になるはずだった。そのことで葵が紫苑を憎んでいると――紫苑にそう吹きこんだ貴族の子弟がいたらしい。紫苑はひどく打ちのめされていたと聞いた。蘇芳は紫苑を気遣う様子は見せなかったが、そういう口さがない者たちには腹を立てているようだ。実際、御門家にとっても体裁の悪い話である。蘇芳は実の兄として葵を良く知っているから、彼が権勢や家柄に拘る男ではないのは重々承知だ。それに紫苑を引き取ると決める以前、その問題について散々議論を重ねている。どちらにせよ他人にとやかく言われることではない。それに、葵より紫苑の方がずっと陰陽博士にふさわしいだけの力量を持っている。それは蘇芳も葵も認めていることだ。そんなこととは知らず傷ついた紫苑の心は思い遣るに余りある。彼はまだ齢七つ。大人に甘やかされ、甘え、世間の醜い部分など知らずに生きていたい時期だろうに……。
「紫苑、私はな」
 葵は穏やかに語りかけた。
「この家を継ぎたいなどと思ったことはないのだ」
「……でも」
「それに、お前を構うのには理由がある」
「……理由が?」
 紫苑が眼を上げた。その表情には動揺の色が濃い。葵は頷いた。
「そうだ」
 七年前の雪の降る日。下女の手に抱えられて赤子がこの屋敷にやってきた。普通の赤子ではない。ひととあやかしの禁忌の交わりによって生れ落ちた半妖。そんなことは葵も重々承知だった。だが――。
「お前は寒さに頬を赤くしてな」
 葵はそのときのことを思い出して顔を緩めた。それは、おぼろながらも鮮やかな記憶。
「あまりにも柔らかそうな頬だったから、私はそっとつついてみた」
 すると、閉じていた瞼がそっと開いて――。
「お前は笑ったのだ」
 何が面白かったのかは分からない。ただ、葵の指を小さな小さな手のひらで掴んで、きゃっきゃっと笑った。自分がどんな運命に生まれたのかも知らない、無垢な魂。冬の陽にきらきら輝く紫の瞳に可憐な紫苑の花を連想した。
「もしかして」
「そう」
 葵は優しく紫苑の頭を撫でる。
「お前に名前をつけたのは私なんだよ、紫苑」
「…………」
 紫苑は息を呑んだ。
「名付け親が名付け子を憎んだりなどするものか」
「…………」
「とはいえ幼名だからな。元服の暁には変えるのかも知れぬが」
「変えません」
 紫苑は言い切った。
「私の名は紫苑。他にはありません」
「……そうか」
 葵は微笑んだ。このまま紫苑が真っ直ぐに育ってくれれば良いと願う。どれだけ傷付けられても、辛い目に遭っても、毅然と頭を上げて。――少なくとも、私はお前の味方でいるから。
「そうだ、紫苑」
「何です?」
「お前に良いものをやろう」
 葵は紫苑の部屋に入り、文机に置かれていた紙と筆を手に取った。硯の墨に浸し、さらさらと書き付けた。――それが、あの軸。
「……で、何と書いてあるんですか?」
 絵は紫苑の花だろう。それは何となく分かった。しかし、言葉の方は。紫苑は追求する桔梗の瞳から目を逸らした。
「それは、秘密だ」
「ええ?!」
 桔梗は頓狂な声を上げる。
「もっと良く勉強して、自分で読め」
 葵の字は達筆ではあるもののくせがある。まだ仮名の勉強をして間もない桔梗が読むには荷が重いだろう。桔梗は頬をふくらませていたが、やがてふと気付いたように顔をあげた。
「その、葵さんは今どこにいらっしゃるのですか?」
「…………」
 紫苑は表情を変えぬまま暫く黙った。
「……叔父は」
 ――御門葵は、
「死んだ」
「え……?」
 桔梗は眼を見開く。紫苑の薄い唇がかすかに震えていた。
「先の、あやかしとの戦いにかりだされ」
 年若いながら高位にあったにも関らず、紫苑は信用ならぬという理由で外された。しかし、彼以外の陰陽師はほとんど全員参加を余儀なくされ――そして――。
「叔父は、死んだ」
 数多くの犠牲のひとりに名を連ねた。
「…………」
 桔梗は声もなく紫苑をじっと見つめている。おそらく葵は唯一紫苑を大切にしてくれたひとだったのだろう。彼を理解し、無神経な周囲の人々の攻撃から彼を守ってきたのだろう。その存在を――幼くして彼は失った。
「……私をひとりにして」
 ――死んでしまった……。俯いた紫苑の頬に、小さな温もりが触れる。
「紫苑」
「…………」
 眼を上げると、そこには真摯な顔の桔梗がいた。小さな両手で彼の頬を優しく包む。
「紫苑はひとりじゃない」
「…………」
「ひとりじゃないよ」
 長い間、季節が巡るごとに彼に仕えてきた式神――花の精や小動物に宿る魂など――は主である彼を心から慕っている。そして――。
「そうだな」
 紫苑は微笑んだ。それは彼の腕に飛び込んできた運命。
「桔梗」
 不可思議なさだめを纏う、幼いあやかしの少女。ここにいる。私の側に――。
 葵の書いた額の文字は、万葉の一節だった。
 ――何そこの児のここだ愛しき――
 紫苑は桔梗にこれを読んで聞かせるのが気恥ずかしかった。再び手習いに励み始めた桔梗をちらりと見遣り、紫苑は小さくつぶやく。
「何そこの児のここだ愛しき……」
 ――どうしてこの子がこんなにも可愛いのだろう。そんなことが、言えるわけないではないか。
 今なら分かる。葵が紫苑を慈しんだ理由。それはきっと、紫苑が桔梗を手元に置く理由と似通っているのだろう。それなら、自分は桔梗を彼と同じ目には遭わせたくない。彼女を置いてひとり逝くことはできない。
「紫苑」
 彼が思考に耽っているのに気付いたのか、桔梗が振り向いて小首をかしげた。
「どうかしましたか?」
「……いや」
 紫苑は笑った。
「何でもない」
 ――それは、何でもない日の何でもない出来事。