七夕の夜
「お前の母親は、化け物だそうな」
場が静まり返った。
――何故そんな話になったのか。場も弁えず、無粋な。周りのものはそう言いたげな表情であった。ただし、その言葉を投げつけられた者への気遣いは無に等しい。誰もが口にしないだけで、それは事実なのだから。
言われた本人はちらりと声の主を見たのみであった。その瞳が、紫電。ひとには有り得ぬ色であった。彼の名は御門紫苑、齢は十。美しい少年である。艶やかな髪は長く、白磁の肌に通った鼻筋。切れ長の瞼の奥から覗く紫が年不相応に魔性を漂わせる。薄く引き結ばれていた赤い唇が、かすかに動いた。
「……それが?」
声音はあくまで穏やかに。
「それがどうかしたか、惟尚」
紫苑より二三年かさの藤原惟尚が気おされて身じろぐ。しらじらとした月の光が、さっと紫苑の横顔を掃いた。
今宵は管弦の宴が開かれていた。七夕の夜である。帝の趣向により十代前半の年若い貴公子らが集められ、それぞれが楽器を演奏した。紫苑は笛を持参している。その見事な笛は、彼を宮中で名高い者としている一因である。もうひとつの原因は、彼の出自であった。彼の養父、御門蘇芳は代々続く陰陽師の家柄の当主で、彼自身強力な術者である。しかし、紫苑はまだ若輩ながらそれをしのぐ力の持ち主であろうと言われていた。事実、蘇芳が彼を引き取った――引き取らざるを得なかった要因もそこにある。紫苑の父親はひとであるが、何者であるかは誰も知らぬ。母親は、あやかし。
紫苑はひとではない。しかしあやかしでもない。半妖なのであった。
「無粋なことを言うね。惟尚」
一段上から不意に声が降った。
「今上……」
辺りが静まり返っていたせいか、御簾の内まで先ほどのやりとりが届いていたらしい。
惟尚は向き直って平伏した。
「ご無礼を致しました。お聞き苦しきことを」
「…………」
紫苑は黙って御簾と惟尚を交互に見遣る。もう一方の当事者でありながら、彼は頭を下げようとはしなかった。そんな彼を非難のこもった視線で見るものもいたが、紫苑は気にも掛けなかった。その子供らしからぬ不遜さが、彼を疎ましく思うものにとっては鼻持ちならぬのであろう。
「紫苑、笛を」
「はい」
今上に促され、紫苑は笛を口にそっと当てた。銘は、葉二つ。彼の前の持ち主は、源博雅である。鬼から譲り受けたものであると伝えられるその笛は、新たな持ち主である紫苑のもとでも限りなく美しい音を響かせた。――私は、半分鬼だから。紫苑は半ば眼を閉じた。――ひとではないから……。
最後の音の余韻が消えるまで、誰も一言も発しなかった。彼の笛は空間を侵食する。震わせる。威圧する。揺り動かす。そして、染み透る。
――紫苑は閉じていた眼を開けた。
「良き笛であった」
今上がつぶやいた。
「熱も癒えたような気がするぞ」
「勿体なき仰せに御座います」
紫苑は畏まる。
「良き術者になり、都を守ってたもれよ」
今上の声はかすかに声が震えていた。それが最近続いているという熱のためなのか、彼の笛の見事さに心打たれたせいなのか、それとも他に原因があるのか――紫苑には分からなかった。この数年後に今上が崩御することも、もちろんこの時の紫苑には知るべくもないことである。
宴の終わったあとも、公達たちは星影などを見つつさざめき、屋敷へ帰る気配を見せる者はいなかった。紫苑はひとり、明かりのほとんど届いていないような柱に肩を預けている。
「紫苑」
掛けられた声に振り向くと、そこには橘家の嫡子、燐が立っていた。年は紫苑と同じで、少女と見紛うような顔立ちをしている。細い髪は色素が薄く、どこか茶がかっているようであった。紫苑は黙って見返すが、燐はその紫の視線に怯むこともなく微笑んで、彼の側に佇んだ。
「良い音だった」
「そうか」
そっけないが、その声に冷たさはない。燐は事あるごとに紫苑に話し掛け、無愛想ながらも反応を引き出すことに成功している。友人という言葉を使っても問題ない程度には、彼らは親しくなっていた。
「お前の琵琶も、良かったぞ」
紫苑がぽつりと言い、燐は一瞬驚いてから相好を崩した。
「君がそういうことを言うのは珍しいね」
「……私に話し掛けるお前ほどではない」
紫苑は年不相応な苦笑いを浮かべ、夜空を見上げた。そら一面の天の川。光の粒が深い藍の中を音も立てずに静かに踊っている。流れ流れていく先を、星は知っているのだろうか……。
「綺麗だね」
「ああ」
視線を追った燐の言葉に、紫苑は緩く頷いた。
「牽牛と、織姫……年に一度の逢瀬を、どんな気持ちで待っているんだろう」
「さあな……」
紫苑は柱から離れ、濡れ縁から庭へと降りた。一際ひとの少ない方へと歩んでいく。燐は黙って後に従った。
半ば闇に浸されているような暗い場所まで来て、紫苑は足を止める。
「なあ、燐」
「何?」
「私は思うんだ」
燐からは紫苑の表情は見えない。ただ、紫苑の声はひどく静かだった。
「私の父母も……、牽牛と織姫のようだったのだろうか」
「どういうこと?」
彼の口から両親に関して語られたのは初めてのことで、燐は驚いた。紫苑は半ば独り言のようにつぶやき続ける。
「種族の違いという大きな川に隔てられて、寄り添うことができなかったのだろうか……」
「…………」
返すべき言葉が見当たらず、燐は黙る。
「一年に一度くらいは、逢えているのだろうか……」
彼らがどこの誰で、今何をしているのか知らないけれど。
「…………」
紫苑は口をつぐんでそらを振り仰いだ。
「……紫苑」
燐はそっとその肩に手をかける。紫苑は振り向いた。燐の物柔らかな微笑が、星明りに照らされている。
「僕が牽牛なら、天の川など渡ってしまうよ。泳ぎ渡る」
「お前、泳げるのか?」
「泳げない。でも練習する」
「なら、練習には付き合ってやろう」
紫苑は微笑んだ。そして、つぶやく。
「泳ぎ渡る……か」
「そうだよ」
燐は力強く言った。
「僕らには、流れを渡る手足があるのだから」
「……流れを渡る、手足」
鸚鵡返しに言い、紫苑は吐息をついた。
「……そうだな」
――いつか、この目の前に荒波が現れたなら……。
「泳げばいい」
流れ星が一筋、彼らの頭上を通り過ぎた。紫苑はふと辺りを見回した。
「そろそろ戻るか。灯りが消えてきた」
「ああ、そうだね」
紫苑は足を踏み出しかけて、ふと道を逸らした。
「どうした? 紫苑」
燐が彼の足元を覗き込む。紫苑は小さく答えた。
「花を……」
「花?」
「ああ。踏みそうになった」
しかしそこに花は見当たらない。燐は眼を凝らし、やがて気が付いた。
「桔梗の……?」
「ああ。まだ咲いていないがな」
咲くどころか蕾すらもつけていないその草は、闇の中小さくそこに立っていた。
「あと二ヶ月もすれば咲くさ」
「……うん」
燐は立ち上がり、紫苑の背中をぽん、と叩いた。
「何だ?」
「紫苑は良い男になるよ」
「……は?」
「いや……」
燐はしばらく言葉を捜したが、結局上手く説明できずに肩をすくめた。
「紫苑は良い男だ。花を踏まぬ」
「ならお前も良い男だ。天の川を泳ぐのだからな」
「紫苑も泳ぐだろう?」
紫苑は少しためらい、やがて頷いた。
「……ああ」
「だったらふたりとも良い男だ」
控えめな笑い声が、夜空に弾ける。
花を手折らぬ優しさと、荒波を掻き分ける強さを持つ紫苑の手。彼のその手が運命を抱き上げるのは、まだ十年以上も先のこと――。