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ひだまり

 気が付くと彼女はひとりだった。
 深い森の奥、小川の源である小さな滝。ととと、と滝壺から水音が聞こえていた。
「わたしは……」
 つぶやいて、思い出す。彼女は何者か──彼女は最強のあやかし、水龍族だ。彼女の名前は──名はない。ただ御子、と呼ばれていた。何があったのか──人間たちに襲われ、うず高く積まれていく土砂の下にあっという間に集落ごと埋まってしまった。彼女は何故助かったのか──それは、
『気が付いたか』
 彼女の身の内から、力ある言葉が響いた。
 彼女はただの水龍ではない。神に仕える四霊獣の一、青龍の魂をその身に宿す特別な御子であった。
 彼女はおそるおそる口を開いた。
「あなたが……助けてくれたの?」
『ここで死んでは、定めを果たせぬ』
「さだめ?」
『そうだ』
 それは、かつて彼女が何度となく聞いた声だった。時には、彼女自身の意識を奪ってしまうほどに強く。
『お前が生き延びることが、運命なのだ』
「…………」
 茫然としていた瞳に、不意に涙が浮かんだ。彼女は悟ったのだ──水龍は、滅んでしまったのだと。
 集落での暮らしは決して楽しさに満ちたものではなかった。彼女を警戒混じりに崇める長老たち、その言いなりになっていた両親。彼女を守るためと言いながら、彼女は村の一角に隔離するように住まわされていた。最近許嫁が決められたと聞いたが、相手は会ったことすらない若者だという。けれど──全て仕方がないことだと思っていた。過去、何度か表したその膨大な妖力の片鱗。それですら、他種族から恐れられる最強の水龍族たちをも畏怖せしめた。仲間内にあってさえ、彼女は異端だったのだ。それでも……。
「みんな、死んでしまったの……?」
 流れる涙を止めることはできない。彼女は、自らを生み育てた種族を愛していた。長老たちや両親に従っていたのもそのためだ。彼らは確かに彼女を畏れていた。けれど、決して排斥しようとはしなかった。彼らなりに共存の道を模索していたのだろう。伴侶を与えようとしたのもきっと気遣いのうちだったのだと思う。なのに──全ては全く唐突に埋葬されてしまった。ただ、水龍がひとにとっての脅威になり得るという、それだけの理由で。確かに水龍は殺性の強いあやかしである。しかしのべつまくない虐殺はしない。彼ら自身や彼らの大切なものが明確に脅かされる、そのような場合には容赦しなかったけれど。
「他のみんなは、もう……」
『分からない。もしかしたら逃れ得た者がいるかも知れぬが……』
「……そう」
 彼女はふと思いついて視線を上げる。
「助けることは、できなかったの?」
 圧倒的な力を持つ神獣ならば、彼らを救えたのではないのか。だが、霊獣は冷ややかに言い放った。
『彼らが滅びるのは運命だった。私が干渉することはできない』
「…………」
 彼女は絶句した。
「死ぬ運命だったと、そう言うの……?」
 ――彼女の父も母も、長老たちも、彼女の世話をしてくれたものたちもみんな、
「あの日、死ぬ運命だったって……」
『死が決められていたかどうかは分からぬ」
「でも、結局は……」
 彼女は嗚咽をこらえることができない。
「同じことだよ……」
『…………』
 僅かではあるが、困惑しているような気配がした。
『私とて、好き勝手ができるわけではない。ましてや今この身は地上にある。様々な約束事に縛られているのだ』
 どこか言い訳がましく青龍は言う。
『いつかお前が私の力を全て取り込むまで、私はお前を守らなければならない。だが、それ以上のことはほとんどできない』
「…………」
 彼女はほろほろと涙を零している。
 しばらくの間、沈黙がその場を支配した。滝の音が耳に馴染み始めた頃、彼女の内に静かな声が響いた。
『忘れたいか』
「え?」
『思い出を捨て去りたいのなら、協力しよう』
「…………」
『お前は、ここで出逢いを待たなければならない』
「出逢い……?」
『お前と同じ、孤独な魂を持つ異端の者。運命の子供』
「運命の……」
 彼女はぼうっと鸚鵡返しに繰り返すのみだ。
『いつになるかは分からぬが、必ずお前と出逢うはず』
「……それを、私は待たなければならないの?」
『そうだ』
「たったひとりで?」
『……ああ』
「…………」
 彼女は滝の面を見つめた。激しく流れ落ちている水面が、彼女の顔を映し出す。細い銀髪。水晶の瞳。蒼白なかんばせを彩る紅い唇。彼女は未だ年端もいかぬ子供だった。そろそろと手を差し出すと、水面の奥からも手が差し伸べられた。
『その時まで――眠るか』
「…………」
 彼女は静かに頷く。
『そうか』
 水が、彼女を包み込む。静かに彼女はそれを受け止めた。身にまとっていた衣が削げ落ち、白い小さな体を水の球がすっぽりと覆う。彼女は目を閉じた。――もう、疲れた。
『約束の時はいずれ来る』
 耳元で囁かれる、厳かな声。
『それまでゆっくりと……眠るが良い』
 温かな場所。そこはまるでひだまり。彼女を包んでいた孤独も、悲しみも、寂しさも、全てが滲み溶けていく。まるで、生まれる前に回帰していくようだと思った。
 彼女は眠り続ける。全てを忘れて、ただひたすらに眠る。もう一度、この世に生まれ出でる日まで。それは、運命が彼女を呼ぶ日。そして、彼女が運命を呼び寄せる日……。