instagram

きみのなは

 その日、橘邸にふたつの新しい命が誕生した。
「まさか、同じ日に生まれるとはねえ」
「驚きましたねえ」
 ふたりの父親が、相好を崩して語り合っている。そのわきを駆け抜けた加乃が、目を吊り上げて言った。
「呆けてないで、産湯の準備を手伝ってください!!」
「はいっ!!」
 ものの見事に声を合わせ、男たちは立ち上がる。その父親たちとは――屋敷の主である橘燐、そしてともに暮らす透流であった。

 一方母親たちはぐったりとはしていたが、そこには安堵の表情と、確かな喜びの色があった。仕切りで隔てられた二組の布団に寝かされ、ふたりは言葉を交わす。
「男の子、だって」
「おれは、女子だった」
「そう」
 くすくすと笑うのは、金色の髪をしたおんな――昴である。
「だめよ、日向。母親が『おれ』なんて使っちゃ。娘が真似しちゃうわよ?」
「う……うん」
 日向は困ったように視線を揺らした。――ようやく、燐の前で女性らしく振舞うことには照れもなくなったのだが、他の者の前ではまだうまくいかない。だが、確かにわが娘には「おれ」などと言って欲しくはない。
「名前を決めなきゃね」
 ぽつり、と昴が言った。
「どんな名前がいいかしら――」
「女の子、か」
 日向は言う。――遠くで、赤子の泣き声がしていた。産湯をつかわれているのだろう。どちらがどちらの泣き声だかはわからない。
「……さくら?」
「ええ?!」
 昴はぎょっとしたように声を上げた。
「貴方、それでいいの?」
「う、ううん……」
 さくら、とは燐の死別した妻の名だ。どんな女性だったのか、実のところ日向は知らない。ただ、彼女があやかしであったこと、燐の子を腹に宿したままひとの手にかかって殺されたこと、それだけは聞き及んでいた。その生まれ出づることのかなわなかった息子は、かつて思わぬ形で燐と対面を果たした。日向も昴も、彼のことは知っている――よく覚えている。桜色の髪と琥珀色の瞳をした、利発そうな少年だった。白虎にかりそめの命を与えられ、そして精一杯に生きた。昴は彼の消えゆく様を、今でも鮮やかに思い出せる。
「私は反対よ。いくら夫の愛したひととはいえ、死びとの名をつけるなんて」
「そ、そうかな……」
「ええ、そうよ。あの赤子の生はあの赤子のもの。そうでしょう?」
「それは、わかっているけど」
 日向は目を伏せる。――それでも、彼女は朔という名のあの少年を忘れられない。腹の中のこの子は彼の生まれ変わりなのではないか、そう思った日もあった。だから、名を貰いたかった。そしてそれが燐の愛したひとの名であるならば、なおいいのではないかと。
「ちゃんと燐とよく考えなさいよ」
「……昴は、どうするんだよ」
 日向は尋ねた。
「一応、男の子の場合と女の子の場合、それぞれ考えていたんだけど」
 昴は言う。
「男ならひかるにしようか、って言ってたの」
「ひかる、かあ」
 日向は笑う。
「いい名だな」
「……ありがと」
「桔梗も、あっちの世界で子を産んでいるのかな」
 日向の言葉に、昴はわずかに顔をこわばらせた。固い声で、答える。
「……半妖は、子を為せないそうよ」
「え?」
「ひととあやかしの血が混ざると、子を為せなくなるのですって。玄武に聞いたわ」
「…………」
 だから、紫苑は子を作れない。彼のつまである桔梗は、子を為すことはない。
 昴はことさらに明るい声を上げた。
「まあ、子がなくたって楽しく過ごしているわよ。どうせ、朝から晩までべたべたしてるに決まってるんだから」
「きっと、壬は巻き込まれてやきもきしているんだろうなあ」
 懐かしい名を口にして、日向は目を細める。
「会いたいなあ……」
 紫苑には、一年に一か月だけ会うことができる。彼は神無月になると、あやかしの世を離れひとの世に引き寄せられてくるからだ。世界を行き来するなど、まるで神のようだ――そう言った彼女らに、彼はいつものように困ったように笑っていた。
「子供たちを見たら、どう言うかしら?」
「きっと、可愛がってくれるよな」
「ええ、そうね」
 昴は笑う。――ひととあやかしの争いの中で失われた、数多の命。そして今、こうして生まれてくる新しい命。
 私たちは、前に進まなければならない。

「ところでさ」
 燐と透流は再び縁側に座していた。母たちふたりは今、赤子に乳を吸わせているのだという。一刻も早く子と母をまるごと抱きしめたくて仕方がないふたりだが、加乃に今しばらく待つようにと言い渡されてしまった。
「君のところは、男の子だそうだね。名前、決まっているの?」
「ええ、まあ」
 透流は頭をかいた。
「ひかる、にしようかと」
「とおる、すばる、ひかる」
 燐は歌うように言った。
「よくよく、るのつく家族だね」
「いや、そういうんじゃないんですけど」
 透流は頬を染めた。
「おれにとって、あのひとは光だったんです。髪の色だけじゃなくって、存在そのものがいつだって光り輝いていた」
 巫女だったから、ではない。彼女そのものが気高く、美しく、それでいてひどく脆かった。そのすべてが、彼は愛しくてならない。
「昴さんは昴さんで、おれのことを太陽みたいだって言ってくれるんです。だから――」
「うん、わかった」
 燐はにやにやと人の悪い笑いを浮かべ、透流を遮った。
「わかったって……?」
「君たちがどうしようもなく相思相愛だってことは、よおくわかった」
「な……!!」
 透流は顔を真っ赤に染めた。――相変わらず、純情だなあ。燐は感心してその赤い顔を眺め、やがてふと我に返った。
「うちは、女の子かあ」
 燐はつぶやいた。
「全然考えていなかったから、今から考えないと……」
 何となく男かな、と思っていた。どうしても、彼の頭の中には息子の面影が残っているのだろう。決して、彼の生まれ変わりなどではない。そんなことはよくよくわかっていたし、前もって昴にもきつく言い渡されていたことだ。――朔と重ねるんじゃないわよ。生まれてくるのは、貴方と日向の子。それを間違えないで。朔と過ごした過去を、塗り潰したいわけじゃないでしょう?
 わかっている。そんなこと、言われなくてもわかっている。――ほんとうに?
「可愛い名前をつけてあげてくださいね」
 屈託なく微笑む透流に、燐は曖昧に頷いた。

 燐がようやく対面した己の子は、母の腕に抱かれてすやすやと眠っていた。しわしわの顔、彼の親指ほどしかないような小さな手。髪は――やはり黒かった。無意識の内に、さくら色を期待していたのか。燐は内心動揺した。――わかっていたはず、なのに……。
「燐」
 寝具に横たわったまま、日向は微笑む。燐はその傍らに座り、彼女の髪を優しく撫でた。
「お疲れさま――ありがとう」
「ううん。元気な子が産めて、良かったよ」
「ああ、そうだね」
 日向の額にくちづけ、続けて子の頬にも唇を寄せる。どこか、甘い匂いがした。
「その、な」
 日向が小さく口ごもる。
「この子の、名のことなんだけど」
「……ああ」
 名。その言葉に、燐はぎくりとした。
「燐は、何がいいと思う?」
「…………」
 尋ねられた燐は、言葉に詰まる。
「……別に、意中の名があるわけではないんだけど」
「おれ――わたしは」
 日向は俯き、子の顔を眺めた。
「朔の名を、貰おうと思っていたんだ。それで――さくらはどうかなって」
「…………」
 燐は息をのむ。――まさか、日向がそのように考えていたとは。さくら。それはかつて彼の愛した女の名だ。そして、確かにそこには亡くした愛息の名も含まれている。しかし……。
「でも、昴がそれはあまり良くないっていう」
 日向は顔を上げ、困ったように笑った。
「燐は、どう思う?」
「…………」
 彼は――迷った。迷ってはいけないと思いながら、それでもなお迷わざるを得なかった。
「僕は……」
 脳裏に愛しい少年の顔が、声が、仕草が、浮かんだ。忘れるはずもない、我が子との思い出。それを胸に、燐は口を開く。
「朔の名は、あの子のものだよ。日向」
 ゆっくりと彼女の髪を梳きながら、燐は微笑んだ。
「この子は君と、僕の子だ。――確かに、この子のことを朔が見守ってくれているといいなと思うよ。それに、いつかこの子にも義理の兄がいたのだと教えてあげたいとも思う……それでも」
 燐は穏やかに、しかしきっぱりとそれを口にした。
「この子は、朔の生まれ変わりじゃない。たとえ生まれ変わりだとしても、今度は別の人生を歩むんだ。だからこそ」
 ――誰かから貰うのではなく、この子のための名を。
「考えよう、日向」
「……うん」
 日向は彼を見上げ、まぶしげに眼を細めた。
「ありがと……燐」
 この子と自分との未来を彼が考えていてくれたこと、それがとても嬉しい。
 その時、赤子がゆっくりと目を開けた。
「あ」
 燐と日向が、同時に声を上げる。
 その瞼の下から覗いたのは――懐かしい、琥珀の色。朔と同じ、瞳の色だった。
 朔が遺した、最後の言葉。それを彼らは思い出す――「もう一度、奇跡が起こるかもしれない……だから、それを待って……」
「……名は」
 燐の声が震えた。
「さき――咲希に、しようか。どう?」
「……うん」
 日向はそっと赤子の頬をつついた。ふにゃり、と口元が笑みの形に曲がる。
「咲希――か」
 音は少し、朔と似ている。だが、全く同じではないし、音を付け足したのでもない。咲希は、朔の義妹(いもうと)。彼の代わりではなく、けれど彼の命を継ぐもの。
 燐の指先を、咲希はその小さな手できゅっと握る。その温もりに燐は少しだけ、涙ぐんだ。
「紫苑に、会わせたいね」
 日向の言葉に、彼はうなずく。今は春。半年後、彼はこの地に現れる。
「そうだね――」
 いつか、咲希には全てを伝えよう。かつて、この地にはひととは異なる種族がいたということ。その狭間で悩み、苦しみ――それでも力強く生きた、生き抜いた者たちがいたということ。志半ばで無念の死を遂げた者がいたということ。
 彼らは何一つ、我々と変わらない存在だったのだということ。それでいて相容れることができなかったがゆえに、かけがえのないものが奪われたのだということ。
 それでも――。
「生きている限り、僕らは家族なんだ」
 咲希は燐の指を握りしめて、離さない。琥珀の瞳には、燐と日向が――その笑顔が、うつっていた。

「えい」
 ――突然長い黒髪を引っ張られ、男は小さく声を挙げて振り返った。
「なんだ、お前たちか」
 その腕の中には、赤子が――生まれたばかりの赤子が抱えられている。
「今、葵が眠ったところだ。静かにしていなければ」
 そう言われても、紫苑の背後に立つ幼子たちは到底承服しなかった。
「……ことし、しおんはぼくらとぜんぜんあそんでくれてない」
「そうよ、あおいばっかりかまってる!!」
 並んで頬を膨らませるふたり。男児の髪はやや明るい褐色、女児の目は琥珀色であった。
「…………」
 男は困ったように笑い、腰をかがめた。
「わかった。後で遊んでやる。加乃のところへ葵を連れて行ったらな」
 その言葉に、彼らはぱあっと顔を輝かせた。
「うん!」
「まってる!!」
「こらひかる、人の髪を引っ張っておいて謝りもせず――」
「咲希、廊下は駆けるものではないと何度――」
 男の隣にいた実の父たちには見向きもせず、子供たちはぱたぱたと駆けて行った。
「……すまないね、紫苑。あいつら、君が来るとひどくはしゃぐんだ」
「紫苑さんのこと、大好きなんですねえ……後で叱っておきます」
 謝る燐と透流に、紫苑はゆるく首を振ってみせた。
「いや、構わないさ」
 腕の中の赤子が小さくむずかり、紫苑は慌てて軽くあやす。そのたどたどしい手つきに、燐は笑みを漏らした。
「さあ、早く加乃ちゃんのところに」
「そうだな」
 もう、加乃の湯浴みも終わったことだろう。――少しだけ、葵を見ていて下さい。何故、それを加乃は紫苑に頼んだのか――燐にも透流にも、その理由は何となくわかった。
 葵。その名は、きっとあの兄弟を想ってつけたものなのだろう。銀糸の髪と青い瞳を持つ、水龍の兄弟――加乃と蓮の、兄たち。壬に、彼の誕生を伝えて欲しい。その喜びを、温もりを――そして、彼の父である蓮を守ってくれた癸への感謝を。きっと、加乃はそう考えたのだと思う。
「紫苑」
 燐はぽつり、といった。
「今夜、あの子たちが寝たら――久しぶりに飲まないか。蓮くんも呼んで。ゆっくり語らおうよ」
「……ああ」
 紫苑は微笑む。その紫電の瞳は――時が経っても、少しも変わらない。
「そうだな」
 庭に紅葉がはらはらと舞い落ちる。黒い枝から、次々に振り落とされていく。だが、その土の下で新しく息づく命があることを、この場にいる誰もが疑わぬのであった。