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きみのうまれた日

 前日から降り続いていた雪が、庭を白く埋めていた。椿の花も寒さを堪えるように、うつむき加減で震えている。
 朝、ぼんやりとした頭で目覚めた紫苑は、閨に桔梗がいないことに気付いた。彼より早く目覚めても、いつもなら彼が起きるまで側に横たわっていてくれるのに……。思わず気分が沈みそうになる自分を内心で叱咤して、紫苑は大きく伸びをした。そんなことくらい、何ということはない。桔梗にも用事くらいあるだろう。甘えすぎてはいけない。
「紫苑、起きましたか?」
 寝具の上に座っていた彼は、ぴくりと顔をもたげた。帳の外から桔梗の声が聞こえただけで、彼の心の臓は律動を速めていく。
「ああ、起きたよ」
 返事を返すと、するりと桔梗が入ってきた。彼の隣に腰を下ろし、ぎゅっと体に腕を回して抱きついてくる。
「ごめんなさい、紫苑が起きる前に戻ってくるつもりだったのに……」
「いや、構わないさ。何かしていたのか?」
 紫苑は彼女の銀髪を撫でながら尋ねた。桔梗は小さくうなずく。
「朝ご飯を……」
「何?」
 紫苑はぴたりと手を止めた。桔梗は(くりや)と非常に相性が悪い。彼の胃袋のためにも、できれば彼女に近寄って欲しくはない場所なのだった。だが、桔梗は笑って首を横に振った。
「料理をしたわけじゃありません。ただ、朝ご飯のためにふきのとうを探していたんです」
「ふきのとうを?」
「ええ。朔くんと一緒に」
「何でまたふきのとうを……」
「紫苑に食べて欲しくて。それだけですよ」
 桔梗は笑って立ち上がり、彼の両手を引いた。その手はまだひんやりとしていて、そういえば外は雪だったのだと紫苑に思い出させた。
「寒かっただろう」
 紫苑は眉を寄せ、彼女の手に唇を寄せる。息を吹きかけてもなかなか血色の戻らないそれを、紫苑は寝巻きを肌蹴て胸元に抱きしめた。
「つ、冷たいですよ?!」
 桔梗は慌てて手を引こうとするが、紫苑はそれを許さなかった。
「温まるまでは駄目だ」
「…………」
「ふきのとうか。今年初めて食べるな」
 紫苑は桔梗に微笑み掛ける。
「きっと若い芽だから、やわらかくて美味いだろう。楽しみだ」
「加乃ちゃんが上手に料理してくれていると思います」
 頬を染めて言う桔梗に、紫苑は首を傾げた。
「……加乃が来ているのか?」
「みんな来てますよ。燐さん、昴さん、透流さん、日向さん……」
「何?」
 紫苑は彼女の手を抱きしめたまま、怪訝そうに眉を寄せる。
「何かあったのか?」
「え?」
 桔梗もまた、不思議そうに彼を見つめた。
「だって、今日……紫苑の誕生日ですよね?」
「…………」
 紫苑はたっぷりと沈黙し、やがてため息とともに吐き出した。
「……知らなかった……」

 着替えを終えて部屋から出てきた紫苑を、燐が出迎えた。
「誕生日おめでとう、紫苑。今夜は壬くんたちを預かってあげるから、夫婦水入らずで過ごすといいよ」
「あ……あのな」
 紫苑は燐の肩に手を掛けた。遅れて姿をみせた桔梗が、心配そうに紫苑を見上げている。
「何故、お前は私も知らない私の誕生日を知っているんだ?」
「この前こっそり先帝の日記を読んでたら、それらしい記述があったのさ。二十五年前の今日の日付で、『今日は人生で初めての、目出度(めでた)い日だ』ってね」
「…………」
「先帝は、初めて子供が生まれた喜びを書き記していたんだよ」
 紫苑は戸惑った表情でただ燐を見つめていた。燐はぽん、と彼の肩をたたき返す。
「まあいいじゃないか。どうせ今まであまり誕生日なんて考えたことなかったんだろう? なら、今日ってことにしてしまえばいい」
「……あ、ああ」
「みんな君を祝いたくて集まってるんだ。変に考え込んで、暗い顔するんじゃないよ」
 燐はこそりと耳打ちをして、紫苑から離れていった。桔梗は紫苑の腕に自分のそれを絡ませた。
「行きましょう、紫苑。今日はお祝いの日なんです。もう決まってるんです」
「……わかったよ」
 やがて、紫苑は顔を上げた。その表情はひどく晴れやかで、桔梗はほっと安堵する。――紫苑には、どうしてもわかって欲しかった。彼が生まれてきたことを、彼女らはこんなにも嬉しく思っているのだと。出会えたことを、喜んでいるのだと。

「紫苑ー!」
 朝食を終えた紫苑の前に現れたのは、壬と癸の双子だった。何か労働でもしていたのか、ふたりの額は汗がにじんできらきらと輝いている。
「おはようございます、紫苑さん」
「ああ、おはよう。……朝から山でも登ってきたのか?」
「何で俺らが山登りしなきゃならねんだよ」
 癸は吹き出し、壬は憮然としながらも笑い出すのをこらえるように頬をひきつらせた。
「ふたりで炭焼きをしてきたんですよ。今年の冬はこれでもう大丈夫です」
「炭を?」
「なんか美味い魚でも買って、焼いたら美味そうじゃねえか」
 紫苑は真顔でうなずいた。
「まあ、美味い魚なら焼いても美味いだろうな」
「……可愛くねえぞお前」
「お前に可愛がられても」
「うがー!!」
「兄さん落ち着いて!!」
「ありがとう、ふたりとも」
 飛びかかろうとしていた壬と、それを押さえていた癸。紫苑の言葉を聞いてふたりはぴたりと動きを止め、顔を見合わせた。紫苑は彼らを順に見比べ、穏やかに微笑む。
「お前たちの焼く炭はいつもいい出来だからな。きっと美味く焼けるだろう」
「そ、そうだろうそうだろう!!」
「兄さん、そんな不自然に反り返らないでよ」
 癸は兄の様子に苦笑しながらも、紫苑にぺこりと頭を下げた。
「たいしたことできなくてすみません。せっかく誕生日だって聞いたのに……」
「いや」
 紫苑は笑った。
「本当に嬉しいよ。……ありがとう」
「今夜は宴だよな! 燐たちもみんなでさ」
 壬の言葉に、癸は苦笑を深める。
「兄さんはここの(あるじ)じゃないだろ?」
「いや、ぜひそうしたいな」
「ほら紫苑もそう言ってるじゃないか。なあ?」
「言わせてるんじゃない……?」
「そんなことはない」
 紫苑は首を横に振った。
「飯は皆で食うのが一番美味い。それを教えてくれたのは、お前たちだぞ」
 桔梗に出会うまで、紫苑は誰かと一緒に食事をしたことなどなかった。式神は給仕をしてくれるが、食事をとることはない。義父の元にいたときも、彼はいつも自分の部屋でひとりきりだった。そういうものなのだと思っていた。
「今日は私の誕生日なのだろう? 私の好きなようにさせてくれ」
「わかりました」
 癸は微笑む。壬は照れくさそうに視線を逸らしていた。
 
 
 次に紫苑の前に現れたのは、透流だった。手にいっぱいの花を抱えている。冬牡丹に寒椿、水仙、黄梅、そして南天の木。色とりどりのそれに、紫苑は目を丸くした。
「このお屋敷のあちこちに花を活けたいって……昴さんが」
「どこから持ってきたんだ?」
 そんな美しい花は、自分の庭には咲いていない。不思議がる紫苑に、透流は笑った。
「おれたちが橘の屋敷で育てているものの一部です」
 紫苑は息を飲む。
「わざわざ切って、持ってきてくれたのか」
「もう既に昴さんは始めてますから。楽しみにしていて下さいね」
「一緒に顔を見せてくれればいいのに」
 苦笑する紫苑に、透流もまた似たような表情を浮かべた。
「恥ずかしいんだそうですよ。でも気付かれないのも嫌だから、おれに行ってこいって」
「気付かないはずがないだろう」
 紫苑は透流の抱えている花に、そっと指先で触れる。
「私はそこまで鈍くはないぞ」
「そうですね」
 透流はうなずく。
「確かに、貴方はひとの好意には鈍いけど、善意にはものすごく鋭いですから」
「……どういうことだ?」
「好かれることにも、優しくされることにも慣れていない――ってことですよ」
 紫苑は一瞬絶句し、やがて困ったような笑みを浮かべた。
「お前は本当に鋭いな」
「生きる知恵です」
 済ました顔で言う透流だが、不意に顔をひきつらせて立ち上がった。
「いけない、あんまり遅くなると『早く水につけてあげないと花が傷むでしょ!!』って怒られる……!!」
「……はあ」
 先ほどまでの余裕はどこへやら。紫苑は呆気に取られて透流を見送る。
「それじゃ失礼します!」
 ばたばたと出て行った透流は、慌てたせいか一本の牡丹を落としていた。紫苑はそれを摘み上げる。
「……後で何としてでも捕まえて、礼を言わないとな」
 昴はきっと真っ赤になって、そしてたいしたことではないと言い張るのだろう。その様子を思い浮かべるとおかしくて、紫苑は思わずひとりくすくすと笑ってしまうのだった。

 その日の夕餉の席は、まれにみる賑やかさであった。加乃や日向が厨でくるくると働き、透流や癸が次々に皿を運んでくる。部屋のあちこちに飾られた花が、ほんのりと甘い香を空気に含ませていた。
 今宵、式神の姿は見えない。
「式神にもたまには休みをやれよ」
 壬の言葉に、紫苑は苦笑する。その頬は酒のせいか、ほんのりと赤らんでいた。
「まあ、そうだな」
「こんなに大勢で食事をするなんて滅多にないけど、何だかいいね」
 燐も盃片手に笑う。桔梗は炭焼きの魚のほっこりとした身を、はふはふと息を吹きかけ冷ましていた。
「私、食事ってひとりでするものだと思っていたわ」
 昴のつぶやきは、紫苑の想いを代弁していた。たったひとりで食べる食事の味気なさを、彼女は良く知っているに違いない。紫苑は微笑んだ。
「たくさんの人に囲まれ、温かい料理を、美しい花を愛でながら食べる――最高の贅沢だな」
「ああ、そういえばこの花は昴さんが活けてくださったんですよね!」
 桔梗が顔を上げ、昴にぺこりと頭を下げた。
「すごくきれい。ありがとうございます!!」
「……別に、運んできたのは透流だもの」
「昴さんは本当に素直じゃないよね」
「そこが透流には可愛いのだろうなあ」
「当人を目の前に冷静に分析するなー!!」
 部屋中に笑い声が弾ける。紫苑は傍らの桔梗を見遣った。笑っている。辺りを見回すと、誰もが笑っていた。彼に、笑顔を見せていた。

 ――ああ、しあわせだ。
 
 紫苑は不意に、しあわせの意味を了解した。自分の好きなひとが、大切なひとが、自分に向かって笑っていてくれること。それが、しあわせ。今この瞬間が、自分にとって何よりのしあわせ。
「誕生日とは、しあわせなものなのだな……」
 大騒ぎの部屋の中で、そのつぶやきは小さなものだった。だが、桔梗には聞こえていたらしい。彼女の小さな手が、紫苑の指先をそっと握った。

 楽しい宴も、いつかは終わる。燐は今朝紫苑に告げた通り、壬らを連れて屋敷に戻っていった。今日はありがとう、と繰り返す紫苑に、誰もがただ首を横に振るだけ――「僕たちはみんな、君からもっとたくさんのものをもらっているんだよ」燐はそう言って微笑んだ。「これで少しは借りを返したぞ」と言いつつも、壬は憮然とした顔を作るのが明らかに下手になっていた。
 彼らを見送り、部屋に戻った紫苑を出迎えたのは、甘い甘い花の香だった。それをまとった桔梗が、彼を見つけてふんわりと微笑む。
「紫苑」
「……今日は本当に驚いたよ」
 つぶやいてから、ふと気付く。桔梗の寝巻きが見たことのないまっさらなものに変わっていた。
「それ、どうしたんだ?」
「日向さんが、お揃いで作ってくれたんです」
 桔梗は膝に抱えていた布を広げてみせた。紫苑は目を瞬かせる。
「こういう区切りの日に新しいものを着ると、気分がいいからって。ひとりで作れるのは寝巻きが限界だって、言ってました」
「……全く、お礼も言わせずに帰ることはないのにな」
 紫苑は笑い、桔梗の手からそれを受け取った。桔梗は首を傾げなら紫苑を見つめる。
「着替えますか?」
「ああ。せっかく作ってくれたのだしな」
 肩から着物を滑らし、真新しい寝巻きを羽織る。腕を通そうとしたところで、桔梗に腰を強く抱きしめられた。
「桔梗?」
「紫苑が生まれてきてくれて、本当に良かった」
「……桔梗」
 紫苑は桔梗の髪をなでた。桔梗はぎゅっと抱きついたまま、彼の胸元に顔を埋めている。
「私も何か、紫苑にあげたいのに……」
「ふきのとうは?」
「あれは朔くんの案で、私は着いていっただけだし……」
「美味かったじゃないか。夕餉にも使って、みんな喜んで食べていたぞ」
「でも……あれは私からのじゃない……」
 本当は、誰よりもこの日を祝いたかったのに。燐に今日が紫苑の誕生日だと聞いてから、一生懸命考えたのに。何を贈ればいいのか、何も浮かばなかった。みんなが紫苑に贈り物をしたのに、自分は何も……。瞳にじわりと涙を浮かべた桔梗を、紫苑は不意に抱き上げた。
「し、紫苑?!」
「何を泣いているんだ、馬鹿」
「ば、ばか?!」
「何も私の誕生日に泣くことはないだろう。お前が泣くと悲しいではないか」
「ごめんなさい……」
「謝らなくてもいい。ただ――」
 紫苑は桔梗を見つめ、微笑む。
「笑っていてくれ。どんなことがあっても、どんなときも、私の側にいて――笑っていて欲しいんだ」
「紫苑……」
 桔梗は驚いたように息を飲み、やがてこくりとうなずいた。
「そんなことでいいんですか?」
「いや、大切なことだ」
 紫苑は桔梗を下ろし、その体を強く抱きしめた。
「確かに、今日は特別な日なのだろう。みんなが祝ってくれて、ここに来てくれて、とても嬉しかったし楽しかった。だが、一年に一度の思い出だけで私は生きてはいけない。私に日々のしあわせを与えてくれるのは、お前以外にいないんだ」
「…………」
「だって、お前は私の妻だろう?」
 桔梗は黙ったまま、こくりとうなずいた。紫苑の言葉が嬉しすぎて、また涙が溢れそうになる。
「泣くな」
 紫苑は桔梗の髪をくしゃりとかき回した。
「いや、泣いてもいいが――ひとりでは泣くなよ。泣きたくなったら、ちゃんと私を呼べ」
「……っしおん」
「なんだ、いきなり泣きたいのか?」
 心配そうに眉をひそめる紫苑に、彼女は慌てて首を横に振る。
「いいえ、違います」
 桔梗は――笑った。それは泣き笑いだったけれど、部屋に飾られた花に負けず劣らず、甘く美しく咲き誇る。
「しおんが、だいすき」
「……何より嬉しい贈り物だな」
 紫苑は照れたように笑って、桔梗の頬を両手で包んだ。
「ありがとう」
 ――私と出逢ってくれて、側にいてくれて、愛してくれて……。
「ありがとう」
 雪も降らない静かな夜。ふたりの声が、吐息が、形が、闇に溶けていく――。

 翌日、日が高くなる頃壬らは御門邸に戻った。
「ねえ、壬」
「あ?」
 しあわせそうな気配を全身から醸し出しながら、桔梗はどこか夢見心地な眼差しでつぶやく。
「紫苑の来年の誕生日……何しよう……」
「いくらなんでも早えよ!!」
 壬の言葉も聞こえているのかいないのか、桔梗は愛しいひととの未来に想いを馳せるように、空のかなたをうっとりと見つめていたのだった。