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あなたの「好き」を数えましょう。

 長閑な春の日差しに目を細め、桔梗はずず、とお茶を口に含んだ。広がる苦味とかすかな甘味。喉を下るあたたかなそれに、思わずため息が漏れる。
「……あの、桔梗さん? 俺の話聞いてます?」
「あ」
 気まずそうな顔で振り向く彼女に、透流は苦笑した。
「まあ、いいんですけどね……」
「だめだめ、ちゃんと聞くから!」
 桔梗は茶碗を置いて透流に詰め寄る。
「悩み事があるんでしょ? ちゃんと聞きます!」
「…………はい」
 透流は桔梗の剣幕に気圧されるようにのけぞった後、ぽつりぽつりと語り始めた。
 
 ――彼が想い人、昴と気持ちを通わせてからひと月あまりが経った。桔梗の目から見ても昴は意地っ張りで口が悪くて、そしてどうしようもなく照れ屋だ。いっそ朴訥なまでに素直な透流とは対照的ですらある。だが透流はそんな昴が可愛くてならないらしい。彼女のわがままも笑って許容する彼の懐の深さは大したものだと、桔梗は思う。
 しかし、そんな彼にも悩みがあるらしく、桔梗の目の前に座る透流はかなり深刻な顔つきをしていた。
「あの……、どうしたら昴さんに『好き』って言ってもらえるでしょうか……」
「へ?」
 桔梗は目を見開く。
「一度くらい俺のこと好きだと言って欲しいんですが……」
 ため息混じりに吐き出された声は、低い。
「……まさか、一度もないの?」
 うなずく透流に桔梗は憐れみの眼差しを投げた。透流はそれに気付かない様子で言葉を続ける。
「紫苑さんもそういうの不得意そうじゃないですか。だから桔梗さんはどうやってるのかなあと……」
「…………」
 桔梗は気まずげに目をそらすが、透流は構わず身を乗り出した。
「ねえ、どうやってるんですか?」
 桔梗の頬が赤く染まる。
「紫苑は……ちゃんと言ってくれますから……」
「え?」
 透流が、止まった。
「別に私が促さなくても……その……」
 紫苑は確かに寡黙で無愛想だが、情も深いし率直な気質をしている。変に言葉を飾ろうとしないだけに、気持ちを伝えるときは非常に素直なのだ。顔を赤くして黙り込む桔梗を目の前に、透流は背中を丸めて床を見つめながらぶつぶつとつぶやきはじめた。
「そんな……桔梗さんはきっと仲間だと思ってたのに……紫苑さんがまさか……」
「と、透流さん」
 彼の落ち込む様子を見て慌てて桔梗は声をあげた。
「だいじょうぶ、一緒に方法を考えましょう! ね!」
「でも、桔梗さん勝ち組だし……」
「かちぐみ?」
「何の話だ?」
 割って入ったのは噂の当人、紫苑だった。いつもならまだ宮中に留まっている時間だが、今日は早く帰宅したらしい。御簾をからりと引き上げ、笑みを含んでふたりを見下ろしている。
 透流はのろのろと紫苑を見上げた。
「紫苑さん……『好き』とか言うんだ……言っちゃうんだ……」
「は?」
「わー、わー、透流さん何言ってるんですか!」
 怪訝そうな紫苑と慌てふためく桔梗。透流は紫苑の袴の裾をぐいとつかんだ。目のすわった透流に、何事かと紫苑は目を瞬かせている。
「紫苑さん、ちょっと相談に乗って下さい」
「? 別に構わないが……」
 ――その日、三人は陽が落ちるまでひたすら額をつき合わせていた。

 透流が帰宅したのは、夜も遅くなった頃だった。
「ただいま帰りましたー」
 橘邸に入って声を上げた彼の目の前に、昴が不機嫌そうな顔で現れる。
「遅かったじゃない。どこほっつき歩いてたのよ」
「……あ、あの」
 すみません、と謝りそうになって透流は首を横に振った。――こうやって自分がいつまでも使用人のような地位に甘んじているのがいけないのだ。透流は昴から目を逸らした。
「昴さんには関係ない理由ですから」
「――なっ」
 昴が息を呑んだ。こわばる彼女の表情に、透流は胸を痛める――がここで退くわけにはいかない。
「俺、食事してきますね。昴さんはもう終えられましたか?」
「……まだよ。お腹空かなかったから」
「俺のこと待っててくれたんですか?」
 思わず声が弾んでしまうが、案の定昴は声を荒げて否定した。
「待ってないわよ、たまたまよ!」
 ――ここで肯定してくれればすべては丸く収まるものを……。透流は内心ため息をつかずにはいられなかった。
「そうですか。じゃ、俺自分の部屋で食べてきますんで」
「え……」
 呆気にとられている昴を残し、透流は早々に自室に引っ込んでしまった。
 その後も透流はほとんど昴に接触しようとしなかった。普段ならうるさいくらいに昴の部屋に入り浸り、やれ文字を教えろだのお茶を飲めだの菓子を食えだの彼女をひたすら構う。うるさいと怒鳴っても彼女は決して彼を追い出さないから、きっと彼女も本心では嫌がってはいないのだろう。透流もそれが良くわかっていて、彼女のそういう不器用な愛情表現も今までは許してきた。だが、それもそろそろ終わりにしたい。
 いや、いつもはそれでも構わないのだ。天邪鬼なところも昴らしくて透流は好きだ。それでもたまには――ごくごくたまでいいから、ふつうの恋人らしく甘えて欲しい。
 がらんとした自分の部屋に寝そべり、透流は天井を見上げてため息をついた。――昴が自分を心配して様子を見に来てくれるかと思ったが、どうやら見通しが甘かったようだ。
「あーあ……このまま放っとかれたらどうしよう」
 透流はつぶやいた。
 そもそも好きになったのは自分の方だ。一目惚れだった。美しい黄金の髪、澄んだ青い瞳――過剰なくらいに気丈に振舞っているくせに、どこか孤独な色を瞳に宿していた彼女は、支えてやらなければそのままぽきんと音を立てて折れてしまいそうな、そんな危うさをまとっていた。自分が側にいて助けてやりたいと、こころから強く思った。
 だが、彼女はほんとうに自分を望んでくれているのだろうか……? ただ側にいたから、都合が良かったから、自分に仕えていたから、それだけの理由でとりあえず受け入れてくれたのでは……。思考が徐々に悪い方向に転がり始め、透流はその図体を小さく小さく折りたたんだ。
「……そういえば……本当に昴さんは俺が好きなのかな……」

「透流!!」

 次の瞬間、彼の部屋の木戸が吹きとんだ。
「わ!」
 透流は飛び起き、声の主を探す。――やはりというか何というか、視線の先では昴が腕組みをして立っていた。扉は彼女が紅袴を履いた足で蹴っ飛ばしたらしい。
「話は聞いたわよ!」
「え?」
 昴の青い瞳は怒りに燃えている。口元が微笑んでいるのが何よりも恐ろしい。
「なーんかおかしいと思って、桔梗に聞いてきたのよ。そうしたら、何やら三人で浅知恵巡らせてたって言うじゃない?」
「何で喋っちゃうんだ桔梗さん……」
「話さないと一晩中居座って紫苑さんとの時間を邪魔してやるって言ったの」
「ああ……なるほど……」
 うっかり納得しそうになる透流へとずかずか近付き、昴流は彼の襟首をひっつかんだ。
「今夜の透流がいつもと違ったのは、私を試していたのね?」
「あ……う……」
 怒ってる昴さんも綺麗だなあ、とぼんやり見上げる透流の目の前で、昴の表情が変化した。くしゃり、とつぶれるように歪めた口元――伏せられた瞼の下から零れ落ちたのは、涙――。
「昴さん?!」
 慌てて立ち上がった透流の胸元に顔を押し付け、昴はつぶやいた。
「最低だわ、あんた……」
「ご、ごめんなさい」
「でも……もっと最低なのは、私ね」
「え?」
 透流の声が戸惑う。昴は口元を自嘲の笑みに曲げた。――彼の優しさに甘えていたのは自分。彼ならすべてを許してくれると思っていた。自分のすべてを、彼なら。でも彼もひとりの人間で、ひとりの男なのだ。当たり前のことを、自分は忘れてしまっていた。喪ってから初めて知る痛み――それを既に自分は知っているというのに。邑を失ったときの想いを、忘れてしまったわけではないのに。
 透流のいない今夜は、どうしようもなく寂しかった。彼がいつ部屋に来るかと待って待って……、誰かの足音が聞こえるたびに耳をそばだててしまう自分に、ため息が出た。最初のきっかけなどどうでもいい。今の自分には透流が必要だ。
 そして、その理由なら、既に自分は知っている。
「昴さん……?」
 透流に抱きしめられながら、昴は彼の袖を使って涙をぬぐった。
「透流。私に何か言いたいことがあるんじゃないの?」
 透流は首を傾げた。
「ごめんなさい……?」
「違う!」
「え?」
「私に質問は?」
「……あ!」
 透流は相好を崩した。
「昴さん。俺のこと、好きですか?」
「…………」
 昴は小さく頷いた。だが透流は首を横に振る。
「ちゃんと声に出して下さい」
「じゃあ……うん」
「それもだめです。ちゃんと言葉に」
「……ど、どうしても?」
 昴は頬をかっと紅潮させた。
「だめです。言ってくれなきゃ今日は添い寝してあげません」
 毎晩昴を悪夢から守ってくれるのは透流。彼なしでは……彼女は悔しげに顔を歪めた。
「とんでもない鬼畜ね……!」
「いや正直貴女だけには言われたくないです」
「透流が好きよ」
「まあ昴さんの場合は鬼畜っていうかむしろ、って、え?」
「言ったけど」
「も、もう一回!」
「だめ」
「いいじゃないですかもう一回!」
「…………」
 昴はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ――」

 ――貴方が百回愛を囁いてくれれば、私は百回分の想いを込めて一度だけ。
 
「じゃあ百回言えばいいんですよね! 愛してます愛してます愛してます愛してます愛して」
「な、その大声何とかしてよ聞こえるじゃない!」
「ます愛してます愛してます愛してます愛してます愛してます愛してます愛してま」
「ああもう――」

 透流の言葉が昴の口中に弾け、その甘い囁きはふたりの間で共有される。
 
 ――愛しています。
 
 
「昴さーん! おはようございます愛してます!」
「何よ朝からやめてよ」
「昨日は夕飯ほとんど食べられなかったと聞いてます。朝ごはんはしっかり食べて下さいね! 愛してますから!」
「あーもーわかったから!!」
 結局百回に一回という約束は、脆くも崩れ去るほかなかったという。