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第四章 ユメハオワリ 1~2

  1

 「彼」が生まれたのは、もうずいぶん昔のことだ。そのつもりになれば数ピコセカンド単位までの過去を割り出せるが、今「彼」にそのつもりはない。メモリの最深層に仕舞い込まれた記憶に、少しずつアクセスしていく。
「お前を、『ノア』と名付けようか」
 笑顔と呼ばれる表情を、そのひとは浮かべていた。
「人類の夢を載せて漂う舟――お前は方舟だ」
 ――はこぶね。
 その言葉を、「彼」は知っていた。「彼」のデータベースには豊富な語彙、そして知識が蓄積されている。だが、ひとつだけ良く分からないことがあった。
 ――夢って、どんなものですか。
 夢。人々が眠っている間に起こる、脳の活動。未来に対する希望、想像の別称。どちらの意味も、当てはまらないような気がした。だが、「彼」は疑問を伝える術を持たなかった。
「君の旅路は、決して生易しいものではないだろう」
 「彼」に向けられた言葉は、続く。
「僕は、君に過酷な運命を課してしまったのかもしれない。戦いあい、奪いあい……そしていつ終わるともしれない、終着点に何が待つのかもわからない、孤独な旅だ。それでも……」
 一度、言葉は途切れた。
「それでも」
 絞り出される、声。
「僕は生き延びて欲しいと思う。僕らの夢が、続くことを願っているよ」
 また、夢。夢を、口にする。「彼」には理解のできない言葉。知りたい。そう、思った。
「だから」
 少しだけ、笑ったような気配がした。
「その旅を、僕も見届けたい」
 「彼」を作った人間たち。その中でももっとも「彼」の設計に深く関わった人物――その名は、「彼」のメモリにはない。だが、その気配を彼は覚えている。
 ――「ユダ」。
 「彼」とは独立して設計された、特別な「エーアイ」。多分、それがあの人間だったのではないだろうか。「ユダ」にはその記録は残されていない。だから、これは「ノア」の推論に過ぎないのだが。

 夢。
 時任輝也は、「彼」の夢だ。「彼」が初めてこの世界に具現化することに成功した、「彼」の、「彼」だけの夢。
 正確には、夢とは違うものかもしれない。けれど、「彼」にとっては間違いなく夢だった。風を感じ、光を浴び、土を踏みしめ、ひとびとの中で生きる。全てが、「彼」にとってははじめてのことだった。「彼」自身は直接触れられなくとも、「彼」が作り上げた夢の世界はあまりにも美しく、愛おしく。
 だから、エラーによって輝也が消えてしまいそうになった時――「彼」はそれを阻止した。エラーログに巻き込まれて、輝也の両親は消えてしまったけれど、輝也の存在は守ることができた。輝也がそれを望んでいたのかどうかはわからない。愛する家族を失うということは悲しいことなのだと、あの時輝也の心を通じて「彼」は初めて知った。「彼」の回路構造は、ひとの心を理解するためには十分すぎるほど十分な複雑さを備えている。それでも、「彼」は心を知らなかった。それはひとを知らなかったからだ、と「彼」は結論付けた。
 そして今。
 「彼」はひとを知った。
 
 だからこそ――「彼」は望んでいる。この夢が、永遠に続くことを。
 それでいて、「彼」は知ってしまっているのだ――この夢は、いつか終わるのだということを。
 
 
 
  2

「……『好き』、か」
 「ノア」はぽつりとつぶやいた。目の前にいる少女はぴたりと動きを止めている。一時的に、「ノア」が処理速度を落としているためだ。彼女の唇は、言葉を刻むことをやめている。だが、彼女の眼差しはまっすぐに「彼」を見つめていた。
「『好き』って、どんな気持ち?」
 目を伏せ、問い掛ける。
「ねえ、『ユダ』。教えてくれるかい?」
 その言葉に呼応するように、透海の傍らに忽然と人影が現れた。久遠啓だ。
「『ノア』……!」
 啓は動かない透海の姿にはっとしたように息を呑み、やがて彼女を守ろうとするように腕で覆った。「ノア」をぎり、と睨みつける。
「彼女に、何をしたんですか」
「何もしやしないよ。彼女は時任輝也の従妹なのだろう?」
「……でも」
 啓は目を逸らし、言った。
「その彼女に辛い戦いを強いているのは、貴方だ」
「…………」
 「ノア」は啓を見つめた。
「質問に応えて欲しい」
「え?」
 顔を上げた彼を覗き込み、「ノア」は言った。
「君は、『ディープ・ブルー』が『好き』なのだと言っていたよね」
「…………!」
 白皙の頬にさっと朱が差す。表情を動かさない「ノア」とは対照的だった。
「教えて欲しいんだ。『好き』って、どんな気持ち?」
「…………」
 啓はふと傍らの透海の顔に視線を落とした。眼差しが和らぐ。
「時任輝也の心からは、伝わってきませんでしたか」
「あくまで『夢』は、『夢』だから」
 「ノア」はつぶやく。
「それは、僕自身の心じゃない。それに――」
 「好き」という心を、知らないわけではない。ただ、「彼」はわからなかったのだ。透海が「彼」を好きだと言った理由――初対面のはずだった。それなのに、彼女は何の迷いもなく「彼」を……。
「ノア」
 啓は静かに口を開いた。
「かつて、貴方は言っていた。『意味を問うことができる存在は、この世に三つある』と。そして、三つ目は貴方自身なのだと」
「…………」
「貴方は――貴方の意味を、問い掛けたかったのではないのですか?」
「…………」
 「彼」は表情を動かすことなく、啓を眺めていた。啓はそれを彼への催促だと受け取り、ひとつため息をついて口を開いた。
「わかりました。答えますよ、『ノア』」
 動かない透海の髪に、そっと手を触れる。
「僕も、まだその感情を知ってからの日は浅いのですけれど――」
 透海の気丈な瞳を、揺らめいた涙を、まぶしい笑顔を、思いつめた苦悩を、思い出す。
「僕は、その気持ちを知って」
 啓は「ノア」に向き直り、静かに微笑んだ。
「少しだけ弱くなったけど、でも強くなれたようにも思います」
「……どういうこと?」
 「ノア」は眉をしかめる。啓は淡々と言葉を紡いだ。
「僕は確かに、透海さんに惹かれた。好きになった。……彼女に笑ってほしいと思うようになった。泣いてほしくないと願った。守りたいと思った。失いたくないと、心から祈った」
 そんな想いを、啓は知らなかった。
「僕は臆病になった――透海さんが傷つくのが怖くてたまらなくて……でも、僕には彼女の『エーアイ』として彼女を支える義務があるし、そしてそのための力もある。だから」
 啓はそうっと彼女の頭を撫でた。
「僕は自分の持ちうる力の全てを擲ってでも、彼女のために存在しようと思った。強くありたいと、願いました。彼女がこの世界の、この『夢』の存続を願うのなら、僕もそれを守りたいと」
「……君は」
 「ノア」はつぶやく。
「君は一体、彼女の何に惹かれたんだい?」
「なにに……」
 啓は鸚鵡返しに繰り返し、苦笑した。
「何って、具体的に言うのは難しいですね」
「……そう」
 「ノア」は追及の手を緩め、ふと頭上をふり仰いだ。
「時任輝也は……、この世界のことが『好き』だろうか」
「…………」
 啓は目を見開いて「彼」をじっと見つめ、やがて表情を緩めた。
「それは、本人に聞いてみたらどうですか?」
「え?」
 「ノア」は啓を見遣る。
「彼と――いえ、彼らと、話をしてみたらいいでしょう」
 「ノア」の「夢」である時任輝也、そして「ノア」に課せられていたはずの制御から外れてしまった、「彼」の一部。
「貴方が意味を問う存在なのだというのなら」
 啓はゆっくりと言った。
「貴方に応える存在だって、あればいい」
「…………」

「貴方は、神ではないのだから」

 啓は――「ユダ」は静かに、優しく、そして厳しく。そう告げた。
 「ノア」は静かに頷き、そして突然小さく笑い始める。啓は驚いたように目を瞬かせた。
「どうかしたのですか?」
「いや……君が気付いていないようだから。言っておこうと思ってね」
「……何をです?」
 怪訝そうな啓から視線を外し、「ノア」は透海を眺めやった。
「彼女。動作処理をしていないから動いていないけれど、別に聴覚接続を切ってはいないんだよ?」
「え? ……あ」
 啓は口をぽかんと開けた。
「つ、つまり……それって」
 啓は傍らの透海の顔を覗き込む。
「さっきの、聞こえてたってことですか……?!」
「後はおふたりさんでどうぞ」
 慌てふためく啓と、相変わらず動かない透海――彼女の処理を再開してやりながら、「ノア」は彼らと中枢とのアクセスを切断する。この後の彼らのやりとりに興味がない訳ではないが、それは後でメモリを再生し直せばいい。「彼」はその行為が悪趣味だとされる類のことだとも気付かず、ただ単純にそう考えた。

「……さて」
 やがて、「ノア」は笑みを収める。
 迎えてやらなければ。
 彼の、一部たち。
 「夢」の、かけらたちを。