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第二章 イツワリハウツロ 4~5

  4

 輝也の姿が、いや周囲の風景が突然消えて、透海は当惑した。周囲は完全な暗闇ではないが、薄暗く、見渡す限り何もない広い空間だった。
「何これ……また?」
 以前クラスメイトの格好をした敵に襲われたことを思い出して身震いするが、目の前に現れたのは良く見知った姿だった。
「ごめんね、急に連れてきて」
 険しい顔をした、久遠啓。彼の全身が緊張に包まれているのを感じて、透海は表情を引き締める。
「どうしたの? 何かあったの?」
「…………」
 啓は躊躇って視線を落とす。透海は一歩彼に近付いた。
「隠し事はやめて」
 きっぱりと言う。
「私、どんな内容でも受け止めるから。だいじょうぶだから」
「…………」
 啓はぴくりと肩を震わせたが、顔を上げようとはしなかった。
「久遠君」
 透海は彼の名を呼んだ。また一歩、近寄る。そして、彼の握りしめられた拳に手を伸ばした。
「貴方は前、言ってくれたわよね――私と一緒に、生きていたいって」
「……うん」
 啓はようやく、顔を上げた。透海は微笑んでいた。彼の手にそっと触れて、微笑んでいた。
「うれしかった」
 ぽつりと、つぶやく。啓は息をのんだ。
「私は『世界』なんてあいまいなもののために戦うんじゃない。私の知っているひと――家族とか、友達とか、そういうひとたちを守りたいって、一緒に生きたいって、そう思うから戦えるのよ。そうじゃなかったら、絶対無理だもの」
「……透海、さん……」
「ねえ」
 透海はじっと啓を見つめていた。
「私たち、友達よね?」
「…………」
 啓は眼を見開き、やがて泣き出しそうな顔で微笑んだ。
「うん」
 拳を開き、透海の指に軽く指先を絡ませる。
「そうだね」
 相変わらずの、彼女の冷たい指先。だが、このひんやりとした感触が彼は好きだ。
「僕も、君と生きていきたい――」
 「ノア」と独立したプログラムを持つ特殊な「エーアイ」として生まれた彼、「ユダ」。だが、元々の彼は「ノア」の行く末になど興味はなかった。ただそう作られたから、それだけの理由で「久遠啓」となり、北原透海を捜した。それだけだった。彼女に接触し、「コア」として覚醒させてサポートする。一連の流れは予め決められていたこと。彼の運命だった。その結果、いずれ世界が滅びて「ノア」が消滅したとしても、それは仕方がないことだ。自分のすべき責任を果たしたら、その後のことまでは知らない。そう思っていた。
 けれど、今は違う。彼は、彼の意志で、この世界に生きていたいと思う。
 ――彼女に、出会ったから。彼女の強さに、優しさに、脆さに。触れたから。
「……わかった。話すよ」
 啓は表情を引き締めた。
「以前、僕が時任先生に言ったこと、覚えてる?」
「……何者かわからないって言ってた、あれ?」
「そう」
 うなずくと、透海の表情に緊張が走った。
「実は、あの後時任先生の正体は判明したんだ」
「正体って」
 おおげさな、と言おうとした透海の唇が強張る。彼女の漆黒の瞳の中に、啓の赤い視線が鋭く映り込んでいた。
「時任輝也は――」
 啓はゆっくりと言った。
「『ノア』の見る、夢なんだ」
 透海はぽかん、と口を開ける。
「……え……?」
「『ノア』は複雑な構造を持つスーパーコンピュータだ。そこには人格が生じているし、『夢』だって見ている。人類の卵の『夢』をこの世界に反映させているのと同じように、自分の見た『夢』を世界に映し出すことだってできるんだよ。だって」
 啓は軽く両腕を広げた。
「世界を作っているのは、『ノア』自身なんだから」
「…………」
「今は詳しく証明している時間はないけど、これは確実なことだ。『ノア』自身に聞いて、確かめたから」
「『ノア』に聞くって……その、コンピュータと話ができるの?」
「君は僕を何だと思っているの?」
 啓は唇の端を歪めて小さく笑った。
「僕だって、コンピュータの中の回路のひとつだよ?」
「……そういう言い方、やめて」
 透海は目を背けた。
「わかってるけど……でも、何だかいや」
「え?」
 面食らった啓は聞き返す。だが、透海は言い直すことなく、別のことを彼に尋ねた。
「輝也さんは、それ知ってるの? もしかして、今まで知っていて知らないふりしていたのかしら」
「……違う。彼は、知らなかったよ」
「じゃあ、今は……?」
「知っている」
 啓は頷いた。
「というより、『ノア』が知らせてくれというのを、僕が伝えた」
「……そう」
 透海は少しだけ俯き、そして顔を上げた。
「でも、それが何だっていうの? 輝也さんが何だって、別に関係ないじゃない」
「……関係なくはない」
 啓はため息交じりにつぶやく。
「この間の戦闘で、『ポップ・アイス』が起動しなかったろう」
「ええ」
「『ノア』は今、彼をロストしている。彼は今、この世界のどこにも存在していない」
 透海は目に見えて顔を青ざめさせた。
「どういうこと? どうして……」
「わからない。彼の本体は、ちゃんと存在しているんだ。でも、彼の『夢』を『ノア』が拾えない。アクセスできない」
「……全然わからないんだけど」
「ごめん。僕の説明が下手なのかも」
 啓は一度大きく息をつき、もう一度口を開いた。
「『ノア』は人格を持つと僕は言った。でも、それはひとつじゃなくて複数あるんだ。ある意味、時任先生も彼の人格のひとつといえるかもしれない。勿論、メイン人格とでもいうべき中枢回路は存在しているんだけど」
「う……うん」
 透海は眉を寄せて考え込みながらも、頷きをひとつ返した。――自分はさぞかし荒唐無稽な話をしているのだろうな、と啓は思う。
 それでも、彼女は聞いてくれるから。啓は語り続けた。
「けれど、ある人格がメイン人格の制御を離れたところで暴走を始めてしまったんだ。メイン人格による制御を受け付けなくなっているらしい」
「なに、それ」
 透海は当惑もあらわに聞き返した。無理もない。啓は少しでもわかりやすく言い換えようと、ゆっくりと言葉を選んだ。
「つまり……『ノア』の回路の一部が、制御不能になっているってこと。そのせいで、『ポップ・アイス』も起動しなかった」
「『ノア』の、回路の、一部」
 透海は一言一言を区切るようにして、繰り返した。
「……それ、輝也さんのことじゃ、ないわよね……?」
「違う。でも、時任先生は無関係じゃない」
 啓は言葉を切った。虚空をその赤い瞳で睨む。
「さっき、君をここに連れてきたのは――時任先生に、その一部の『メモリ』が接触しようとしていたから。君まで呑まれてしまって『ディープ・ブルー』が起動できなくなったら、もう『ノア』を守れない」
「ちょっと待って」
 透海は目を見開き、啓の両腕を掴んだ。
「どういうこと?! 輝也さんに、何があったっていうの?!」
 啓を力いっぱい揺すぶる。
「輝也さんは、無事なの?!」
「…………」
 啓は彼女の目をじっと見つめながら、ぽつりとつぶやく。
「……それは、たぶん……彼の、望み次第だ」
 ――この世界の存続を望むのか。終焉を望むのか。
「『彼』は、何を望むのか……」

  5

 あの日のことを、自分は何も覚えていない。父と母と、自分の過去を失った日。あの日から、自分の中にはぽっかりと穴が開いていて埋まることがない。
 諦めようとした。忘れようとした。乗り越えたふりをしていた。だが、深い穴はいつまでもそこにあって、逃げることはできない。
 もし思い出せたなら……、過去と向き合えたなら……自分は前に進めるのだろうか。
 けれど、怖い。思い出すのも、向き合うのも、怖かった。あの時間違いなく自分に触れたはずの、「死」の冷たい指先。
 病院で目が覚めたとき、彼は孤独だった。叔母も叔父も彼女もいたのに、それでも孤独だった。何故だろう。
 孤独って何だろう?
 一人でいることは、子供の頃から好きだった。だけど孤独だなんて思ったこともなかった。
 孤独って何だろう?
 決して叶えられない望みを願い、満たされることのない飢えを自覚し、それでいて表現することができない渇き。それは絶望。
 絶望って何だろう?
 未来がないことではない。未来はいつだってある。時間が流れていく限り。
 ただ、それが自分のものではないだけ、この手をすり抜けていくだけ。
 もう二度と掴まらないものを追えば、追いつけないことを自覚すれば、それでも追い続けなければならないから、ひとは絶望する。
 それなら、僕の絶望は何だろう?
 両親の死?
 ――それとも、僕が今、生きていること?