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第二章 イツワリハウツロ 1~3

  1

 それは、世界の一部でありながら世界のどこにも存在しない場所。限られた者しかアクセスすることの許されない、世界の最深部――「ノア」の中枢。
 そこに、「ノア」と啓がいた。辺りは暗く、ふたりの白い手足と銀の髪がぼんやりと浮かび上がっている。メモリに余裕がないんだ、と「ノア」は言った。彼の一部が造反したことで、世界の維持が難しくなっていると。疑似人格の何割かが既に消えてしまったし、一部の実存人格の「夢」が「ノア」に反映されなくなっていた。大抵のものについては記憶を改竄してとりつくろってはいるが、そうもいかない場合もあった。――たとえば、それが「アーク」の「コア」の人格である場合。
「彼に話をしたかい?」
 「ノア」はいつも通り、淡々とした様子で啓に尋ねた。この世界が置かれている状況になど興味はない、そんな様子である。啓は頷いた。彼、とは時任輝也のことだろう。
「ええ。理解したと思います」
 彼に自分の立場を話せと――「ノア」にそう指示された啓は、先日輝也に彼の正体を告げた。「ノア」の見る「夢」、それが輝也なのだと。彼は面食らってはいたが、受け入れてはいたように思う。彼のそういうところは透海と似ていた。どんなに荒唐無稽な話でも、頭ごなしに拒絶したりはしない。しっかりと話を聞き、自分の頭の中で整理して、道理を解すれば納得する。彼らはふたりとも、柔軟な思考回路の持ち主なのだと思う。
「そう」
 「ノア」は満足げに頷いた。
「『ノア』。もうちょっと自分でどうにかできないんですか」
 啓は苦々しげに言う。
「暴走しているのはあくまで貴方の一部だ。自分で制御を取り戻せませんか。『アーク』の『コア』のうちの一つまであちらに吸収されてしまった。戦闘にも支障が出ています」
「無理だよ。だから、君をこうして呼んだんだ」
 あっさりと、そう言う。
「それに、君には『ディープ・ブルー』の『コア』がいるだろう? 彼女がいれば、持ちこたえられるさ」
「…………」
 ――本当に、彼の「夢」が時任輝也なのか。啓は訝しんだ。彼であれば、透海に重荷を背負わせることなどよしとしないだろう。危ない目には遭ってほしくないと、そう願うはずだ。それなのに、「ノア」はこんなにも簡単に彼女を扱う。
 最初、「ノア」は彼女を「コア」に据えるのを嫌がっていた。それは彼女が輝也にとって大切な家族だからというわけではないのか。
 「ノア」には、人格がある――だが、心は。あるのだろうか。
「……どうかした?」
 首を傾げる、その顔は輝也と同じ。だが色素のないその表情は、どこか冷たい印象を与えた。
「いえ」
 啓は首を横に振った。
「とにかく――貴方がこの事態をどうにもできないというのなら、僕が手助けします。ただ……どうしたらいいのか、今の僕にはよくわかりません」
「助かるよ、『ユダ』」
 嬉しそうでもなく、そう言う。
「いずれ時が来る。その時までは、静観していたらいい」
 余裕ありげなその言葉に、啓は眉を寄せた。
「……本当に?」
「ああ」
「…………」
 啓は少し躊躇った後、口を開いた。
「貴方は――貴方自身は、本当に、この世界の存続を願っているんですか?」
 「ノア」は人類の卵を守り、「夢」を維持するために作られたスーパーコンピュータだ。複雑すぎるがゆえに複数の人格が生まれ、そのうちのひとつが今、滅びに向かって暴走している。
 それでは今、目の前にいるこの「ノア」は、何を望んでいるのだろう。「ノア」の望みとは、一体……。
「…………」
 「ノア」は静かに微笑んだ。
「『ユダ』。君の望みは、何?」
 聞き返され、啓は口ごもる。
「……僕は、」
 脳裏によぎったのは、たったひとりの顔だった。笑った顔、怒った顔、涙を流す顔。彼の守るべき人。守りたい人。――僕は、彼女のために在りたい。
「…………」
 答えない啓から、「ノア」はすっと視線を外した。
「……『彼』は、どうなんだろうね」
 赤い瞳を細める。
「『時任輝也』は僕であって僕ではない。彼は、何を望んで生きているんだろう」
「…………」
 「夢」と「現実」。
 「存続」と「滅亡」。
 「ノア」が分裂していく――啓は不安になる。目の前で悠然と微笑む「ノア」が、ひどく儚く見えた。

  2

「…………」
 十河美鶴は、柴田浩哉の働いていたコンビニに入って辺りを見回した。やはり、浩哉の姿はない。
 数日前の戦闘に、「ポップ・アイス」は起動しなかった。その後、浩哉に送ったメールは全て送信先のアドレスが存在しない、と戻ってきた。何度かこのコンビニにも足を運んだが、一度も彼とは会えていない。
 美鶴は目を伏せた。彼の「エーアイ」、水崎京も言っていた。「柴田浩哉」という存在が突然、この世界から消えてしまったと。「ノア」が己が構築する「夢」の世界全てを検索しても、どこにもいないのだと。彼の両親や友人たちの記憶も改竄されてしまっていて、まるで最初からいなかったようなのだという。彼のことを覚えているのは、「アーク」の「コア」である美鶴らと、その補佐をしている「エーアイ」たちだけ。ただし、「ノア」の中で眠っている彼の本体――受精卵は、消えてはいないし死んでもいない。それでは、一体どこにいってしまったのか。京はわからない、と首を横に振るだけだった。
 前回の戦闘は、「ポップ・アイス」を欠いても何とか勝つことができた。やはり、「ディープ・ブルー」は段違いに強い。彼女の活躍がなければ勝利をおさめることは相当難しかっただろう。だが、次はどうだろうか。わからない。
 思い出す――以前、浩哉が言っていたこと。「俺、時々そう思うんすよ。これは嘘だらけの世界なんです。夢や幻で作られた、嘘っぱちの世界。なんだか、馬鹿らしくなるんすよね」
 寂しさと、諦めの混ざった瞳。彼の過去に、何かあったのだろうか。あの時、美鶴は浩哉を少し厳しく突き放してしまった。「コア」を交代してもらえとまで言ってしまったが、それが間違っていたのだろうか。
 煙草をくゆらせながら、彼は言っていた――「いっそ、なくなってしまったほうがいいのかもしれないなって――俺たち人類は地球と心中しておくべきだったんじゃないかって」。彼が一体どういうつもりで言ったのか、美鶴にはわからない。だが、彼が消えた理由はその言葉のうちにあるのかもしれない……。
「…………」
 コンビニに入り、そして出ていく人々の群れ。そのうちのどれだけが実存人格で、どれだけが虚構の疑似人格なのだろう。見分けることなどできるはずもないのに、美鶴は目を凝らした。当たり前だが、やはりわからなかった。それほどまでに精巧な、「ノア」の操り人形たち――いや、自分だってその繰り糸から逃れられているわけではない。
 美鶴は掌を見下ろした。もちろん、そこに糸など付いていないが。
「改めて考えてみたら、ハードだよね」
 苦笑する。
 「夢」だとわかっていながら「夢」を見続けること。現実の冷たさを知りながら、そして時に現実に曝されながらもなお、「夢」という名のぬるま湯につかり続けること。――たやすいことでは、ない。
 美鶴は缶コーヒーとサンドイッチを手にして、レジに向かった。パートの中年女性がレジを打ち、顔を上げる。
「美鶴」
「…………!!」
 彼は息をのんだ。――母だ。母が、何故こんなところに……。
「そんなに驚くことないじゃない?」
「……嘘だ」
 美鶴は首を横に振る。額にじわりと汗が浮いた。
「母さんは、入院してるんだ。今ここにいるはずがない」
 彼の母は今、闘病中なのだ。ここでパートなどしているはずがない。
 母は――母の顔をした「それ」は、にっこりとほほ笑んだ。見慣れた、優しい笑顔だった。
「あら。現実は、いくらでも変えられるわ」
 ――だって、所詮この現実は「夢」なんだから。
「病気だって事故だって、そのつもりになればなかったことにできる……それが疑似人格であればね?」
 今はもう痩せてしまった母の頬はふっくらとして、とても健康そうだった。楽しそうに美鶴を見つめる、その瞳に彼の胸が痛む。本当に母の病気が治ってしまったのだったら、どんなにいいだろう。
 そもそも、病気かかりすらしなければ……。
「美鶴?」
 美鶴の目の前がゆらり、と歪んだ。

  3

 その夜、透海はいつも通りに輝也の部屋で宿題をしていた。彼女のセットしたコーヒーメーカーから、かぐわしい香りが漂っている。
「……ねえ、透海ちゃん」
 広げた新聞の向こうから、輝也が話し掛けた。透海は手を止め、顔を上げる。
「何?」
「僕の両親って、どんなひとだったんだろう」
「…………」
 輝也の言葉に、透海は息を呑む。
 輝也の両親は、十年前に交通事故で亡くなった。同じ事故に巻き込まれていた輝也は奇跡的に一命を取り留めたが、後遺症なのか一部の記憶が欠損してしまっている。特に抜け落ちているのが、両親に関する記憶なのだった。
「透海ちゃんは、覚えてる?」
「……まだ、小さかったから」
 彼女はぽつりとつぶやいた。――彼女が覚えているのは、白に包まれていた輝也の姿だ。白い壁、白いベッド、白いパジャマ、白い包帯。そして、生気のない白い顔……。
「そうか。そうだよね」
 輝也はそれきり、黙ってしまった。透海はいつにない輝也の様子に戸惑って、彼の側に歩み寄る。
「輝也さん? どうかしたの?」
「…………」
 新聞の向こうで、彼は少しだけ身じろいだ。……まるで壁みたいだ。透海は思う。こんなに彼を遠くに感じたことはない。
「輝也さん……?」
「ごめん、変なこと聞いて」
 彼はぱさり、と新聞を置いた。いつも通りの淡白な、それでいて優しい笑顔。
「僕は大丈夫だから」
「だっ……」
 透海は声を詰まらせた。
 ――僕はだいじょうぶだよ、透海ちゃん。
 心も体も傷だらけだったのに、あの時も輝也はその言葉を何度も繰り返していた。大丈夫なはずがないのに、透海に心配をかけまいとして、彼はただそう言い続けていた。真っ白な顔で。
 あの時の自分は何も言えなかった。でも、今は違う。
「大丈夫な訳ないじゃない!」
 透海は輝也の肩を掴んだ。
「大丈夫だって顔、してないもの!」
「透海ちゃん……」
 彼は驚いた顔で彼女を見上げる。彼女は真摯な瞳で、じっと彼を見つめていた。
「輝也さん。無理、しないで」
「…………」
 無理。無理とは、何だろう。何のことをさしているのだろう。輝也は彼女を見つめ返しながら、ぼんやりと思った。
 透海の眼差しは、ひどく優しい。
「いくら年月が経っても、いろんなことを思い出して辛くなることってあると思うし、哀しくなることだってあると思う。そういう時、輝也さんって何も言わずに黙って一人で耐えていそうで……心配なの」
「……なんで」
 漏れたのは、呆れるほど間抜けなつぶやきだった。しかし、透海は真剣だ。
「だって、家族じゃない。心配して当たり前よ」
「…………」
「輝也さん?」
 ――輝也の脳裏に、あの少年の声が浮かんだ。あなたは、「ノア」の「夢」だ。彼はそう言った。それなら、「夢」から覚めたら自分はどうなるのだろうか。「夢」から離れた透海は、「ディープ・ブルー」の「コア」だ。自分は、一体どうなるのだろう……?
『……ぐや。輝也』
 ――誰かに呼ばれた気がして、輝也は立ち上がった。
「輝也さん? どうしたの? かぐ」
 透海の声が、消える。輝也は訝しげに眉をひそめたが、だが今はそれ以上に気がかりなことがあった。
『輝也』
 聞き覚えのある声。懐かしい声。ふと気づくと、キッチンからいい匂いが漂ってきていた。ふらふらと近付く。
「…………」
 キッチンを覗くと、そこには小柄な女性が佇んでいて、フライパンの中をかき混ぜていた。彼の気配に気付いたように振り返って、微笑む。
「さあ、もうすぐ夕飯ができるわよ」
 母親だ。顔は覚えていなかったが、その気配を彼は覚えていた。間違いない。十年前に亡くした、彼の母親。それが、何故ここに……?
 母は彼の戸惑いになど頓着しないようすだった。あくまで優しく、言う。
「もうすぐ父さんも帰ってくるって。一緒にご飯を食べましょうね」
「……どういうこと?」
 それは自分の声とは思えないほど、低く震えていた。
「こういう馬鹿げた冗談はやめて欲しいんだけど」
「何を言ってるの?」
 母はきょとんと首を傾げる。輝也はその表情から目を逸らした。
「父さんと母さんは死んだ。それは事実だ。変えられない、過去だ」
「事実?」
 母は優しく微笑んだ。
「事実なんてこの世界のどこにあるの? 貴方も知ってるはずよ。この世界はつくりものにすぎないって。『夢』なんだって」
「…………」
「それに本当は、貴方はこの世界では全能なのよ」
 輝也は眉をひそめた。
「全能なんかじゃ」
「全能なの」
 母の顔から笑みが消えた。
「何故なら――何故なら貴方は」
 ――「ノア」の見ている「夢」なのだから。
「…………」
 輝也はぐっと拳を握りしめる。――久遠啓もそう言っていた。だが、自分は全能ではない。もしそうなら、あんな事故など起こらなかったはずだ。
 しかし、今現に母がここにいて……、父ももうすぐ帰ってくるという。つまり、事故は、なかったことになるのか。
 その考えに思い至ったとき、ぞっと背中が総毛だった。
「難しく考える必要なんて何もないわ」
 母は穏やかな表情を取り戻し、輝也の肩にそっと手を触れた。
「貴方が望みさえすれば――過去は変えられる。世界は変えられるの」
「……つまり」
 言いかけて、輝也は唇を噛んだ。その言葉を口にするのが、怖かった。
「そう」
 母の腕が彼の背中を優しく抱いた。彼がためらった言葉を、彼女は容赦なく発する。
「私たちは死ななかったことにできる――そういうことよ」
「…………」
 輝也は悲鳴を上げそうになって、ぐっと息を呑みこんだ。――これは罠だ。彼の頭のどこかがそう警報を鳴らしている。だが、母の温もりを突き放すことなどできない。
「僕は……僕は」
 バチッ、と小さく火花が鳴るような音がした。
「僕は」
 バチバチッ、と今度は少し大きく。
「僕は……」
 父母の死後、叔母にも叔父にも良くしてもらった。透海には精神的にも支えてもらった。北原家には感謝してもしきれないほど感謝している。今の自分に対しても何も不満はない。それだけ一生懸命生きてきた――父母がいなくても、せいいっぱい。けれど……。
「僕は」
 一筋の涙が、頬を伝う。
「父さんと母さんのいる世界で、生きてみたかった」
 うわごとのように呟いた後、輝也はぎょっとした顔で口をつぐんだ。
「その願いは、叶うのよ」
 母の顔はあくまで優しい。
「この世界は決して絶対ではなく、相対的なもの。だから」 
 世界は――変えられる。
 バチン!!
 一際激しい破裂音と共に、夜空に閃光が走った。輝也ははっと振り仰ぐ。世界が裂け、そこから漆黒の闇が侵入してきていた。