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第三章 ウツロハユメ 5~6

  5

 ――透海が目を開くと、そこは白い壁で囲まれた部屋だった。白以外、何もない。
「久遠君?」
 声を上げるが、彼の気配を周囲に感じ取ることはできなかった。ただ、彼が触れていた掌と頬にはぼんやりとした熱が残っていた。――きみが、すきだ。そう囁いた彼の声を、透海ははっきりと覚えている。
「…………」
 けれど、今はそれどころではない。透海はつとめて気持ちを切り替えた。私は、「ノア」に会いに来たのだ。「ノア」と話をしなくては……。
「やあ」
 声に顔を上げると、驚くほど近い場所に「彼」が立っていた。時任輝也と同じ顔。同じ声。だが、久遠啓と同じく彼は色素を持っていない。銀糸の前髪の下から、赤い瞳が笑っている。そういえば、「彼」は眼鏡も掛けていない。真っ白な服をまとっていて、まるでそのまま周囲の白に溶けてしまいそうだった。
「あ……」
 透海は声を絞り出した。
「あなたが、『ノア』なの……?」
 「彼」は人間にしか見えない。まさか、これがコンピュータのプログラムから生まれたなどと。だが、そういう意味では久遠啓も同じだ。彼もまた、人間ではない。他にも世界にはたくさんの疑似人格があるはずだが、どれが本物でどれが偽物かなど、透海には知るべくもない。
 それでは、一体人間とは何なのか……。
「確かに、僕を作った者たちは僕をそう呼んでいたね」
 「彼」は何かを懐かしむように目を細めた。
「今となっては、僕に向かってその名を語るのは彼だけ――『ユダ』だけだ」
「…………」
 「ユダ」、というのも久遠啓を作った――その回路をプログラミングした人間たちがつけた名だろうか。何故彼が裏切りの使徒の名を冠されたのか、透海は不思議に思った。
 「彼」は透海を真っ直ぐに見据える。
「話がしたい、と『ユダ』に言ったそうだね」
「……ええ」
 透海はうなずく。
「何の話?」
 穏やかに微笑む「彼」の顔を見て、透海はごくりと唾を呑む。
「……久遠君に、聞いたの。貴方は今、分裂しているんだって」
「ふん」
 うなずくでもなく否定するでもなく、「彼」は小さく鼻を鳴らした。
 透海はたどたどしく言葉を紡ぐ。
「貴方は今、貴方の一部が制御できなくなっていて……、そのせいで、『ポップ・アイス』の『コア』は世界で見つからなくなってしまっているし、久遠君が言うには、輝也さんも何か、巻き込まれているって……」
 彼女自身、世界に何が起こっているのかを正確にとらえているわけではない。とにかく輝也が心配で、そして世界の行方に心を痛めて、今こうして彼女の理解を遥かに越えた存在――「ノア」に相対しているに過ぎない。
 ――久遠君がいてくれたらいいのに……。透海はふと思う。もし今彼が側にいてくれたら、自分はどんなに安心できただろう。いつもの飄々とした表情と、それでいて真摯な眼差し。彼女が「ディープ・ブルー」の「コア」として目覚めて以来、啓はいつでも彼女の側にいた。まるでそれが当たり前であるかのように、自然な振る舞いで彼女をサポートしてくれていた。……それが彼の役割だからだとしても構わない。彼女にとっては、彼が必要だった。そのことにかわりはない。
「君は、迷わないの?」
 突然、「彼」は口を開いた。透海は面食らって目を瞬かせる。
「迷う? 何に?」
「君は今までの『コア』の中で、最も現実を知った者だ」
 「彼」はゆったりと腕を組み、彼女からその赤い視線を外した。
「君たちが一体何と戦っているのか――何のために戦っているのか。我々が君たちにひたかくしにしていた事実、君はそれを知ってしまった」
「…………」
 透海は俯いた。かつての自分の言葉を思い出す――「ノア」のような存在は一つじゃなくて……他にもある、と考えるべきだったのよ。
 啓は言っていた――メモリもエネルギーも、いつも枯渇しているんだ。生命の維持には、莫大な情報量が必要だから。
「……だから」
 ――それを、奪い合っているのね。
「多分」
 「彼」は静かにと言う。
「この船が先に進んでも、他の船が行っても、何も変わらない。どちらの船に乗った生命が優先されるべきかなど、誰にも決められない。そうだろう?」
「……ええ」
 自分が撃破してきた、たくさんの敵機たち。たぶん、そこには自分と同じような存在の「コア」が――八千代理のようなものたちがいたはずだ。自分が撃破される側にまわってもおかしくはなかった。「ノア」が「ゴート」のメモリやエネルギーを取り込んだように、「ノア」が他の船に取り込まれる可能性は、いつだって十分にある。
 そこにあるのは善でも悪でもなく、ただの運でしかない。彼らは運が良かった。だから、今も生きていられる。運が悪かったものたちの屍は、彼らの通り過ぎてきた道に累々と横たわっている……。
「君は、その事実を受け入れた。それでも戦うことを選んだ」
 「ノア」はその赤い瞳を彼女に向けた。あたたかくも冷たくもない、無機質な瞳。
「何故、君は迷わなかった? 僕はそれが知りたい……」
「…………」
 透海は息を呑んだ。
 答えなければ。「ノア」の視線を真っ直ぐに受け止めて、彼女は口を開く。
「……それは、」
「…………」
 「ノア」は、待っている。透海はもう一度唾を飲み下し、言葉を続けた。
 
「私が……『貴方』のことを、好きだからだと思う」

 貴方。
 それは輝也であり、両親であり、友人たちであり、久遠啓であり――そして自分の過去であり、現在であり、そしてこれから訪れるはずの未来であり――。
 つまりのところ、
「それって、全部『貴方』なの。『貴方』が、持っているもの。『貴方』にしか、守れないもの」
 透海はとん、と距離を詰め、「ノア」の胸元に指先を触れさせた。そこに、鼓動はない。温度もない。
 けれど、彼ははっとしたように彼女を見つめた。
「『ディープ・ブルー』……」
 彼女の名を――本当の名ではないそれを、「彼」は呼ぶ。決して輝也は彼女をそう呼ばない。
 それは仕方がないことだ。「彼」は、時任輝也ではないのだから。
「『ノア』」
 透海は言った。
「ありがとう」
 自然と、笑みが浮かぶ。
「『貴方』のおかげで、私は今ここにいられる」
 つらい思い出も、楽しかった記憶も、全て。
「『貴方』がいたから、生まれたの」
 ――だから、
「『貴方』を――消したくない」
 だから、迷わないの。
 
「…………」
 「ノア」は無表情で、ただ大きく目を見開き、彼女をじっと見つめていた。
「……、」
 そして、薄い唇が開く。――白い部屋に、言葉は響かなかった。

  6

 透海と、はぐれた。
 そのことに気付いた啓は何度も「ノア」の中枢にアクセスを試みたが、それはかなわなかった。
「くそっ……」
 啓はいらだちを隠しきれずに拳を握る。
「『ノア』……どういうことだ」
 まるで、はじめからこうするつもりだったかのように……。
「…………」
 啓ははたと思考を止めた。
 ――はじめから、こうするつもりで……?
「そういうことか」
 啓はつぶやく。
「はじめから、『ノア』は彼女と接触するつもりだったのか」
 そもそも、「ノア」の一部が暴走したというのは事実なのだろうか? 「ノア」ほどの精巧なコンピュータが、そんなに簡単に自律を失うだろうか? 「ノア」を設計した人間たちは、そんなに愚かではないはずだ。
「…………」
 それなら、今暴走しているという「ノア」の一部とは、一体何なのだ。確かに、「ポップ・アイス」は起動しなくなった。いくつかの受精卵の「夢」は「ノア」の築く世界から消えた。それは事実だ。
 「ノア」の一部に自爆回路が生じた。かつて、彼は時任輝也にそう説明した。しかし、それが何故生じたのかは良く分からない。そして、それは本当に「ノア」の意思とは別にで起きていることなのかも、今となっては良く分からなかった。
「そもそも、『夢』を消し去ることに、一体何の意味がある? 『ノア』の一部に自殺願望でもあるっての?」
 啓はつぶやいた。
「意味が、わからな――」
 あ。
 啓は顔を上げた。いつかの「ノア」の言葉を、思い出す。

 そもそも意味って何だろう?
 存在しなくてはならないものかな?
 それならこんな風にしてまで人間が生き延びようとすることに意味はあるんだろうか?
 
「意味……」
 
 意味を問うことができる存在は、この世に三つある。
 一つには実存人格。
 そして、二つ目は君。
 三つ目は……。
 
「『ノア』」

 啓はつぶやく。
「……貴方は、」

 「ユダ」。
 君は、人間かな?
 
 ――僕は、人間かな?