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第三章 ウツロハユメ 1~2

  1

 自分の鼓動の音が、耳元でがんがんと響く。
「美鶴?」
 目の前で首を傾げてみせる、「母」。違う、お前は誰だ――。
「駄目だ」
 美鶴はつぶやいた。
「駄目?」
 同じ顔。同じ声。同じ姿。それでも、同じではない。同じになんてなれない。
「駄目だよ」
 美鶴は顔を上げ、弱々しく微笑んで見せた。
「なかったことになんて、できない」
「……どうして?」
 「母」はあくまで優しかった。
「もう、貴方が戦わなくたっていいの。一緒に、平和に暮らしていきましょう……?」
 蠱毒のように甘い言葉。しかし、美鶴は首を横に振るだけだった。
「できないよ」
 差しのべられた「母」の手が、彼の眼前で止まる。美鶴は憐れみを込めた眼差しで、「彼女」をじっと見つめた。
「僕は、過去を否定したくない。それは現在を否定するのと同じだ。今に生きる自分を裏切ることになってしまう」
「……どういうこと?」
 戸惑いを浮かべる「母」に、美鶴はわずかに微笑んでみせた。
「そりゃあ、変えたい過去もあるよ。こうだったらいいのに、こうでなければいいのに、そう思うことはいっぱいある。でも、それって――生きているって、そういうものなんだ。そう思いながら生きることに、きっと価値がある」
 この思いが正しいのかどうか、美鶴にはわからない。だがこれだけは譲れない。そう思った。
「変えたいものをどんどん都合のいいように変えていって、それで一体どうなるっていうんだ? 望む通りの世界を作って、それが幸せってことなのか? 違う。そんなのは、違うんだ」
 嬉しかったこと、楽しかったことと同じように、哀しかったこと、辛かったことも、現在の彼を作る大切な記憶だ。甘い経験だけを紡いで生きていく人生など、あり得るはずがない。そんなものに、価値など見出せない。
「……母親を敢えて病魔に侵されるがままにすると、そういうのか」
 乾いた声でぽつりとつぶやく「母」は、既に母ではなかった。美鶴は唇を噛む。胸の奥がじくじくと傷んだ。
「そりゃあ、病気にならないですむならならないで欲しかった。今だって、早く治ってほしいと願ってる。……でも、だからって今更なかったことにしていいはずがない」
 葛藤がないわけではない。それでも、美鶴は決して首を縦には振れないと思った。母が病に伏してからの日々――母の苦しみ、悲しみ、諦め、希望。がんばるから、と病床で微笑んだ母の笑顔を、消し去ってしまっていいはずがない。それがただの自己満足だとしても、誰に間違っていると非難されても、構わない。
 自分には、過去が必要だ。過去を失えば、自分は自分でなくなってしまう。だから――。
「生きるって、そんなものじゃないと、思う」
 美鶴はきっぱりと言った。
「…………」
 「母」はじっと彼を見つめ、そしてゆら、と形を失った。
「?!」
 目の前の光景をかき消すように、視界に闇が広がっていく。遠ざかる喧騒。足元がおぼつかない。五感が、失われていく――。

「みつる!」
 気がつくと、見慣れた光景――「アーク」に接続されて、虚空を漂っていた。彼の顔を覗き込んでいるのは彼の「エーアイ」、水崎京だ。ほっとしたような表情は、全く人工的でなかった。
「良かった。ロストしたかと思ったわ……!」
「……うん」
 どうやら敵襲ではない。緊急避難的に、彼の意識が「アーク」に繋がれたようだった。
「浩哉君は、見つかった?」
 尋ねると、彼女は厳しい表情で首を横に振った。
「そう……」
 ――彼は願ったのだろうか。過去を変えることを。現在の自分を、消し去ることを。
「現在は過去の続き。過去を変えれば、現在だってこのままじゃいられない」
 美鶴はつぶやいた。
「あれは一体、何だったんだろう……」
 彼の前に現れた「母」。過去を変えられるとささやいた彼女は、一体何者だったのか。
「過去を、変えられる存在……」
 息を呑む。ひとつだけ、心当たりがあった。
「……まさか」
 闇を漂う、彼らの母船。
 巨大な方舟。
 
 それを制御する頭脳を、ひとは「ノア」と呼ぶ。

  2

「世界は、変えられる――」
 母の声が、闇の中に響く。輝也はたったひとり、それを聞いていた。
 変えられる? 世界を? 過去を? 本当に……?
 
 あれは夏。不意に、彼はそれを思い出す。
 あの日、彼は両親と共に車に乗っていた。どこに出かける予定だったのかは、覚えていない。後で聞いた話によると、対向車が急に飛び出してきて、彼らの車と正面衝突したのだという。両親は即死だったというが、輝也はたいして大きな怪我もしていなかった。彼は後部座席に座って、シートベルトをしめてすらいなかったのに。
 ――どうして、僕だけが生きていたのだろう?
 ふと、疑問が彼の胸を掠めた。何故か今まで考えつきもしなかったが、それはあまりにも不自然な事実だった。
 ――どうして、僕だけが生きていたのだろう……?
「僕は」
 暗闇に満ちていた世界に、光が射す。それは、何かを暴くように深くまで差し込んできていた。
 輝也は、つぶやく。
「僕は、本当はあの時」
 死んでいたはずだったのではないだろうか。

 ――世界は、過去は、既に変えられていたのではないだろうか……?

「…………」
 目と鼻の先に、いつの間にか大きな鏡が出現していた。そこに映った「彼」の髪は何故か銀色に染まっていて、瞳は赤く澄んでいる。――まるで、久遠啓みたいだ。輝也はぼんやりとそう思った。
「きみは――」
 自分と、鏡の奥の「自分」と。ふたりが、同時に口を開く。

「だれ?」