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第三章 ウツロハユメ 3~4

  3
  
「…………」
 じっと考え込んでいた透海が、不意に顔を上げた。口を開く。
「『ノア』のメイン人格、だったっけ? そいつに、私を会わせて」
「え?」
 啓は思わず聞き返した。
「君を、『ノア』に会わせる?」
「そう」
「会って、どうするの?」
 彼女の意図がわからず、思わず尋ねた啓に、透海は苛立ったように眉を寄せた。
「直接話がしたいのよ。私も一応、関係者でしょう?」
「それはまあ、そうだけど……」
 啓は曖昧にうなずいた。
「いったい何の話をするんだい?」
「誰がお天気の話なんてすると思う?」
 透海は腕を組んで仁王立ちになった。
「『ノア』に制御不能なところがあるってことは、どこかが故障して困ってるんでしょう? 誰かの手伝いがいるんじゃないの? 違う?」
「…………」
「私は機械には詳しくないし、何の役にも立たないかもしれないけど……。でも、だからってこのまま放っておくわけにいかないじゃない。誰かが、どうにかしなきゃ。輝也さんのことだって心配だし、探しに行かないといけない」
 啓は呆れたように目を瞬いた。
「君が、どうにかするっての? 『ノア』に会って?」
 確かに、透海は「アーク」の操縦が天才的に上手い。だがそれとこれとは話が別だろう。彼女に、「ノア」の暴走をどうにかできるとは思えない。
「別に、救世主を気取るわけじゃない」
 透海は、強い瞳で啓を見つめていた。
「ただ、私は私にできることをしたいだけ。それに、輝也さんは私の家族だもの。トラブルに巻き込まれてるなら、放っておけない」
「そう……」
 正直、透海と輝也との間の絆を強調されると、少しばかり苛立たしい気分になるのは事実だ。しかし、彼女が望むのなら自分はアシストしなければならない。それは自分の役割であり、そして彼自身がそうしたいと望むことでもある。
「わかったよ」
 啓は目を閉じ、「ノア」の中枢にアクセスを試みた。透海は彼をじっと見守っている。
 ――やがて、赤い瞳が開いた。彼女を映し、微笑む。
「……『ノア』に、会いにいこう」
「会えるの?!」
「うん。『ノア』が君のアクセスを許可するそうだよ」
 輝也と同じ顔をした、それでいて同じではない別の人格。その存在を見たとき、透海はどのように反応するのだろうか。そして「ノア」は、彼女に何を語るのだろうか……。
 頭を過ぎった不安を振り切って、啓は手を差し出した。
「さあ、行こう」
「……うん」
 透海は少しだけ逡巡して、やがてその手を取った。啓は握った手を、ぐいっと引き寄せる。
「透海さん」
 前髪が触れ合うほどの距離で、啓は囁いた。
「君は、君の思うがままに行動すればいい」
 ――僕は君に着いていく。君の側にいる。君を、守る。
「久遠君……?」
 不思議そうに彼を見つめる彼女の頬に繋いでいない方の掌を這わせ、啓は言った。

「きみが、すきだ」

「…………」
 透海の目が大きく見開かれる。啓はそれを残像に焼き付けて、目を閉じた。
 ――「ノア」。僕は、迷わない。この世界の存続を、心から望む……。

  4

「こう次から次に変なのが出てくると参っちゃうなあ」
 輝也は嘆息した。できるだけ、心を平静に保とうと努力する。もはや、彼の前に母はいなかった。その代わりのように現れたのは……。
「ドッペルゲンガーって、ありきたりだと思わない?」
 ため息混じりにつぶやく。
「でも、これが僕には一番ふさわしい姿だから」
 彼の目の前に立つ、色のないもう一人の「輝也」は、そう言って穏やかに微笑んだ。
「僕も君も根ざす所は同じ……そうだろう?」
「つまり」
 輝也は首を傾げた。
「君が、『ノア』のメインから分裂してでてきた人格ってわけ?」
「……そういう言い方をするのなら、君も同じだけどね」
「僕は別に『ノア』のメインと対立しているわけじゃない。そもそも、自分が何者かすらついこの間まで知らなかったんだから」
「僕だって、対立したいと思っているわけじゃないよ」
 「輝也」は肩をすくめた。輝也は再びため息をつく。
「正直、『君』が何をしようとしているのか分からない。僕の前に母親を見せたりして……悪趣味だ」
「あれは、別に僕がやったことじゃない。君の心が、僕というシステムを使ってやったことだ」
「……どういうこと?」
「『ノア』は、過去を変えられない。そのように、あらかじめ決められ、そう作られている。好き勝手に歴史が書き換えられると世界は混乱してしまうし、時間はあくまで一方通行。いくら『ノア』にだって、時間を遡ることなんてできないのだから」
「うん」
 それはそうだろう、と輝也は思う。無数にやり直しが可能な世界など、あり得ない。
 「輝也」は屈託なく微笑んだ。きっと、自分はこんな表情はしない。輝也はそう思う。「彼」は、やはり僕ではない。
「でも、僕はその決まりを破ることができた。僕は『ノア』本体ではないから、時間の流れに対するリミッターが働いていない。……それを無意識下で感じ取った者たちが僕にアクセスして、都合のいい幻を見たってわけだ。君も、ね」
「まぼろし……」
「そう。まあ、そもそもこの世界が幻のようなものだけどね?」
「…………」
 輝也は黙り込んだ。
 ――幻。あれは、彼の心が望んだ幻だったのか。母が生きていれば、父が死ななければ、心のどこかでそう望み続けていたから。だから、あんな幻を見たのか……。
「それで」
 輝也は「輝也」を見据えた。
「君は、何がしたいの?」
「…………」
 「輝也」はうっすらと笑みを浮かべている。
「実は――僕も、それが知りたいと思っている」
「え?」
 輝也は聞き返した。
「どういうこと?」
「…………」
 「輝也」は、答えない。輝也は眉を寄せた。
「君は、自分が何をしたいのかわからないってこと?」
「じゃあ」
 「輝也」が、口を開いた。
「君は、わかっているの? 自分が何をしたいのか、わかっているってわけ?」
 赤い瞳が、闇の中から挑みかかるように光っている。笑みを浮かべた口元が、歪んだ。
「君は、この世界をどう思っているのかな?」
「どう……って」
 輝也は当惑する。しかし、「輝也」は容赦なく問いを重ねた。
「僕らは人間同士で争いながら、殺し合いながら、奪い合いながら、それでも生き延びようとしている。この状況を、君はどう思う?」
「…………」
 ――戦っているのは、透海ちゃんだ。
 輝也は俯いた。彼女は敵の正体を知りながら、それでも戦い続けている。その強さはひどくまぶしくて、そして愛しい。彼女に、会いたい。
「僕は……」
 俯く。その頭上から、「輝也」の声が降り注いだ。
「同じ問いに、『ノア』は、答えられるだろうか。僕は、それが知りたい」
「…………」
 輝也は奥歯を強く噛みしめる。「彼」の質問に答えられなかった自分が、ひどくもどかしかった。