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第一章 ネムリハイツワリ 2~3

  2

「……ちゃん!」
 アルバイト先のコンビニを出たところで、柴田浩哉はふと呼ばれたような気がした。振り向いて、硬直する。
「ヒロちゃん」
 視線の先で微笑むのは、十代後半の女性。
「なんで……」
 浩哉は眼を離せぬまま一歩退く。
「なんでお前……」
 二年前、交通事故で死んだはずの恋人。
「なんでって」
 女は「彼女」と同じ顔で、同じ声で、同じ仕草で笑った。
「ヒロちゃんのためよ」
 長い茶色の髪さえも同じ。
「貴方が私を望んだから。神様が復活させてくれたの」
「神様?」
 浩哉は頬に伸ばされてくる手を避けることができない。
「そう、神様」
 つややかなピンク色の唇が艶やかに微笑んだ。
「だって私は本物の人間じゃないもの――擬似人格なの。ヒロちゃんなら分かるでしょ。いくらでも作り直せるってこと」
「…………!!」
 浩哉の顔が歪んだ。
「だから、大丈夫」
 ――もう安心していいわ。
「貴方は好きな『夢』を見ていればいい……戦うことなんて、何もないの」
 ――つらいだけの現実なら、貴方から奪ってあげる。
 浩哉は絶叫する。だが、その叫びが世界にこだますることはなかった。

  3

 昼休みの喧騒が遠い。
 透明なビーカーに満たされた、黒い液体。湯気の立つそれを、啓はその赤い瞳でじっと見つめていた。
「ビーカーをコップ代わりにする人って、本当にいるんだ……」
 目の前に座る化学教師、時任輝也はわずかに首を傾げた。
「君にここでコーヒー入れるの、二回目じゃなかったっけ? あの時もビーカーだったろう?」
「ええ、それはそうなんですけど」
 化学準備室に置かれた数個のビーカーは、コーヒーを入れるためだけに使われているという。塩酸やら硫酸やらが入ったことはない、そう聞いて啓はほっとしたようだった。
「それで」
 自分も両手でコーヒー入りのビーカーを包んだ輝也は、白い湯気に少し眼鏡を曇らせながらも啓をじっと見つめている。
「君がここに来たってことは、透海ちゃんがどうかしたの?」
「……はずれです」
 啓は軽く肩をすくめた。
「彼女に関することなら、僕は直接彼女と話をしますよ?」
「あ、そう」
 啓はわざとらしく満面の笑みを浮かべた。
「僕と彼女の関係、気になりますか?」
「あんまり、ないな」
 輝也は素っ気ない。
「君たちが付き合おうが喧嘩しようが、それは君と彼女の間の関係性であって、僕のあずかり知るところじゃないから」
「ま、それはそうですけど……」
 付き合う。その言葉に、啓は顔を染めた。――年齢相応のその反応が、むしろ新鮮だ。この少年はいつも飄々としていて食えない笑みを浮かべている、そんなイメージだったのだが。
「……ただし」
 輝也はきっぱりと言った。
「彼女が泣いたり苦しんだりしているのを、僕は見て見ぬふりはできない。僕は、あの子の家族だから」
「…………」
 啓は真面目な表情で頷いた。輝也はそんな彼を見て、不思議そうに目を瞬く。
「それで……結局、何の用なの? まさか授業でわからないところがあって、質問しに来た?」
「まさか」
 啓は噴き出した。
「それなら、担当の先生のところに行くでしょう。時任先生は、うちの学年の担当じゃないんだから」
「確かにね」
「……僕が、先生と話したいと思ってはいけませんか?」
 輝也は首を横に振る。
「だけど、僕らの間に何か話をするような事柄があるかい? 透海ちゃんのことを除いて」
「嫌だな、まさか先生は忘れていないでしょう?」
 啓は細めていた目をすっと開いた。
「僕が言ったこと――『一番不自然なのは貴方の存在なんですよ』って」
「…………」
 輝也は黙ってコーヒーをすすった。忘れていたかと言われれば、忘れてはいなかった。だが、最近その言葉が意識に上ることはなかった。いや、むしろ意識的に考えないようにしていた。自分は今、何も困っていない。何のトラブルにも巻き込まれていない。それなら、自分が何者かなどという問いに答えを探す必要はない。しかも、その問いを発したのは「エーアイ」と呼ばれる人工知能であって、彼曰くこの世界は「夢」なのだという。そんな相手に、何と答えていいのか良く分からなかった。
「その話を、今更しに来たの?」
「この前の、八千代君と潮崎さんの……あれの件で、先生は潮崎さんを消そうとした『イレイザー』を妨害した」
 かつての同級生の名を口にしたとき、啓の顔は少し歪んだ。透海が傷ついたあの事件で、彼も心を痛めたのだろうか。――そう考えてから、輝也はふと思う。彼にも――「エーアイ」である彼にも、心はやはりあるのだろうか。プログラムに十分な複雑さを与えられてさえいれば、感情は発生するはずだが……「ノア」は、どのように彼らを作ったのだろう。
「そんなこと、できるはずがないのに。『イレイザー』は『ノア』の指令で動いている。『ノア』に逆らえる者なんて……」
 啓は首を横に振った。そんな者はいない、と言いたいのだろう。
「その、不可能なはずのことを貴方はしてみせたんです」
「じゃあ、可能だったんだよ。不可能じゃなかったんだ。そうとしか思えない」
 輝也は言った。
「不可能だと思われていたことが、可能だった訳だ。前提が間違っていた、そうとしか思えないじゃないか」
「……他にも可能性はあるんですよ、先生」
 啓はゆっくりと言葉を紡ぐ。
 
「つまり――貴方は、『ノア』に制御されていない存在だってことです」

「……どういうこと?」
 輝也は目を細め、聞き返す。かつて彼は言った――この世界を構築しているコンピュータ、それが「ノア」なのだと。そこに生きている以上、自分も含めたすべての存在は「ノア」の支配下にあるはずだ。
「実はね、僕もそうなんですよ」
 啓は軽い口調で言った。
「僕は『ノア』と独立した場所にプログラムを置かれている。ちょっと特殊な『エーアイ』なんです」
「……僕も、そうだっていうの?」
 輝也の問いに、啓は首を横に振った。
「じゃあ、一体――」
「先生は……」
 啓は静かに微笑んだ。
「貴方は『ノア』の、夢だ」