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第一章 ネムリハイツワリ 1

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 透海は部屋の窓を開け、机に向かっていた。初冬の良く晴れた日の夜が、彼女は好きだった。きん、と冴えていて匂いがしない。自分と夜の境界線が曖昧になっていくような、冷たい空気が肌に馴染んで溶けていく、そんな感じがする。
「ふう……」
 宿題を片付けた透海は、ノートを閉じて窓の外を見遣った。彼女の髪を風が乱す。
 不意に、ある少年の顔が浮かんだ。久遠啓。月光のような銀糸の髪、燃える夕日のように赤い瞳。彼は今、どこにいるのだろう。もし呼んだら、ここに来てくれるのだろうか。「僕は、君に生き続けて欲しい」――透海は首を横に振り、その面影を振り払った。「彼ら」が消えて以来、自分は少しどうかしている。
 
 あの後、啓は彼女に言った。――「『コア』を辞めたいなら、辞めることもできるよ」と。
「辞めるって……どういうこと?」
 驚いて聞き返した彼女に、彼はいつものように穏やかに微笑んでいた。
「その通りさ。『ノア』には別の『コア』を捜してもらう。君はもう、戦闘には呼ばれない。もし記憶を消したいなら――君は実存人格だからできるかどうかはわからないけど、『ノア』に頼んでみる」
「…………」
 透海は戸惑いを浮かべて彼を見つめる。
「どうして……」
「だって、辛いだろう?」
 そう尋ねる彼の方が、辛そうな顔をしていた。
「君は敵についての情報を知ってしまった――知ってなお、君は戦えるかい?」
 敵とは、別の方舟に乗った同じ人類。彼らと宇宙空間において互いの持つ限られた資源を巡り、奪い合っている――それが、「アーク」の「コア」である彼らにひた隠しにされている現実だ。自分たちの世界を保つ為に、他の世界を消し去らなければならないという現実。そうしなければ、「ノア」に眠る「夢」たちは生き延びられない。
 知らずにいられるのなら、知らない方がいいはずのこと――しかし、透海は気付いてしまった。「ノア」以外にも、人類には「方舟」があること。互いにメモリやエネルギイを奪い合うための、哀しい戦いを続けているということ。自分は、自分と同じ人間の操る敵機を撃破してきたのだということ――人殺しなのだということ。
「…………」
 透海は静かに微笑んだ。
「私がここで逃げたら、他の誰かが『コア』になって戦わなければならない。そうでしょ?」
「逃げ……」
 透海は軽く手を上げて、啓の言葉を遮る。
「もし、私が『戦うくらいなら世界なんて滅んでしまえ』って考えているのなら、それはそれで筋が通っていると思うの。でも、私は自分勝手だから」
 透海は空をふり仰ぐ。「幻月」は、既にどこにもない。
「誰かを犠牲にしても、生きていくことを選ぶわ」
「…………」
「だから、大丈夫」
 彼女の笑顔がまぶしくて、啓は目を細めた。そして、つぶやく。
「僕は、君に何ができるかな」
「え?」
「僕は君の『エーアイ』だから」
 君に出会うために、僕は「エーアイ」となった――そうであることが、とても嬉しいから。
「君のために、何ができるだろう。何か、したいんだけど。何をしたらいいのか、わからない」
「……久遠君」
 透海は目を見開いて、やがて困ったように笑った。
「ありがと。でも、貴方にはいろいろと助けてもらってると思うけど?」
「……そう?」
「最初に吉野君の姿をした何かに襲われた時だって、助けてくれたじゃない」
「あれは、僕じゃないよ」
 啓はすねたように視線を逸らした。
「君を助けたのは、時任先生だ」
「そうだったかしら」
 透海はとぼけてみせる。忘れているはずがないのに、と啓は思った。きっと、彼女なりの優しさなのだろう。
「でも、本当に。久遠君がいてくれて、助かってるから」
「…………」
 啓はどこか歪な、左右非対称な笑みを浮かべた。
「なら、いいんだけど」
 僕は君だけのために在る。でも君は、世界のために――それがちょっと、悔しい。だから。
 啓は彼女の手を取り、恭しく口付けた。そのままの姿勢で、上目遣いに彼女を見上げる。微笑む唇は、甲の上に。透海の顔は、一瞬で沸騰した。
「ちょっ、久遠君?!」
 彼女が手を振り払うと同時に、彼は忽然と姿を消してしまった。そのこと自体にはもう驚きはしない。だが……。
「な、なんなのよ……」
 透海は彼の唇が触れた手の甲を見下ろした。どうしたらいいのかわからない。拭うにしても、そこに触れるのが恥ずかしい。
「…………」
 ――僕は君の「エーアイ」だから。
「同級生で――友達なんだって。そう言えばいいのに」
 透海はぽつり、とつぶやいた。

 あの時彼がキスをしたのは、右手の甲だった。今はもう、その場所には何もない。だが、時々そこがひどく熱を持つ――透海はじっと見つめた。久遠啓。彼は、私の……。
「透海」
 ドア越しに母、理佐子が彼女を呼んだ。その声に、彼女ははっとした。
「紅茶いれたわよ。飲まない?」
「ありがと。今行く」
 透海は立ち上がり、部屋を出た。一階のリビングに降りると、テーブルには湯気のたつ紅茶のカップが二つ置かれている。彼女らは二人とも紅茶はストレートで飲むタイプで、ミルクも砂糖も用意していない。白いカップを満たす臙脂色の液体はとても美味しそうだったが、猫舌の透海がそれを飲めるようになるまではしばらくかかりそうだった。
「学校はどう?」
 向かいに座った理佐子が尋ねる。透海は曖昧に微笑んだ。
「うん。大丈夫」
「そう。良かった」
 理佐子は笑って紅茶を一口啜った。透海は気取られない程度に眼を伏せる。そう、まだ大丈夫。彼女はうまくやれているはずだ。目立たないように、集団の中に埋没する。そうすれば彼女は排斥されない。傷つけられない。――「北原はいいよな、先生に贔屓されてて」「お前、カンニングしてるって本当か?」「調子乗ってるよね、あの子」「お前、うっとうしいよ」「気持ち悪い」「貴方は大人だから、皆を許してあげられるわ。先生はそう思う」……。
「もう、冷えてるんじゃない?」
 理佐子の言葉に透海ははっとした。
「そうね」
 口をつけてみると、少し温いくらいになっていた。ちょうど彼女が好きな程度の渋味があって、透海は眼を細める。
「美味しい」
 その言葉を聞いて、理佐子は心から嬉しそうに微笑んだ。身を乗り出し、尋ねる。
「輝也はどう? ちゃんと先生やってるの?」
「うん」
 輝也を十年以上育てた透海の両親にとって、彼はもう甥ではなく、息子のようなものなのだろう。もちろん輝也が本当の両親を忘れるわけはないし、理佐子らもそれを望んでいるわけではない。本当の親の代わりにはなれなくても、輝也の家族になることができればそれでいいのだ。
 透海はリラックスした様子で微笑んだ。
「学校じゃ、誰も私と輝也さんが従兄妹同士だなんて知らないの」
「そうなの?」
「だって、輝也さんのあの態度じゃ誰も気付かないもの」
「相変わらずなのね」
 理佐子の口元に浮かんだ笑みは、揶揄の色を込めながらもとても優しい。
「私たちはね、貴方たちのしあわせが一番の願いなのよ」
 ――だから、つらいときはいつでも教えてね。私たちが絶対に助けてあげるから。
 確かに、両親は彼女を助けてくれた。学校から居場所がなくなったても、教室の中が針の筵でしかなくても、彼らだけは彼女の味方でいてくれた。従兄の輝也も、学校でこそ他人行儀に振舞っているが、きっと彼女を見守ってくれているだろう。しかし、一度壊れた彼女の世界が元に戻るわけではない。幼い頃の彼女が知らなかったもの――嫉妬、侮蔑、羨望、そういった悪意の数々を、彼女は既にその身に受けて知っている。この世界は無条件に優しくない。いつだって警戒しておく必要があるのだ。信じすぎてはいけない。時に、現実は牙を剥くから。
 いや、実のところ現実は既に彼らを裏切っている。この現実は、真実ではなく「夢」。「ノア」と呼ばれるスーパーコンピュータが作り上げた、「夢」の世界。透海の母親や父親が実在の実存人格なのか、それとも「ノア」が作り上げた疑似人格なのかは、彼女にもわからない。
 そういえば、輝也について啓が気にしていたけれど、それはどうなったのだろう。「イレイザー」とかいうのも、輝也のことを尋ねていたが……。
「透海?」
 黙り込んだ彼女に、理佐子が問いかけた。透海は顔を上げ、微笑む。
「大丈夫よ、お母さん」
 そう、自分は大丈夫だ。決して負けはしない。どんな現実にも、もう負けはしない――だって、「貴方」がいるんだから。透海は胸中にそう、つぶやいた。