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第四章 カゲハネムリ 4~6

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「…………」
 和歌子は黙って目の前の男を見つめていた。死神だ、と名乗った男。だがプラチナブロンドの髪の下から覗く瞳は穏やかで、彼女に少しも恐怖を感じさせない。
「不思議だった」
 彼はぽつり、とつぶやいた。
「え?」
 和歌子は聞き返すが、彼は無頓着に話を進めていく。
「『ゴート』の実存人格でもない君が、どうしてここに残ることができたのか」
「……な、」
 和歌子の体が細かく震える。
「何を言っているんですか」
 ――聞いてはいけない。誰かが彼女の耳元で叫んでいる。聞いてしまったら戻れなくなる。聞く前の自分には、もう……。
「何故君が、『ノア』の中に生きているのか」
 彼は淡々と言葉を紡ぐ。
 和歌子は耳を塞ごうとした。しかし手は動かない。彼女は硬直し、棒立ちになってただ彼を見つめている。
「そもそも『八千代理』の存在すら、イレギュラーだ」
「サトル……?」
 和歌子がぴくりと反応する。男は彼女を見ていない。視線を彼女の後方、どこか遠くへと投げているようだった。
「彼の機体は戦闘中、『ディープ・ブルー』の攻撃によって爆破された」
「…………」
 和歌子には彼が何を言っているのか、全く分からない。ただ、嫌な感じがしていた。心臓を冷たい手でわしづかみにされているような、少しでも力を込められれば全てが終わってしまうような、そんな感覚。
「勿論、機体の中に彼の実体があった訳ではない。彼の実体は『ゴート』の中で夢を見ているただの卵……夢の一部に干渉して、どうにか意識を機体に繋げているに過ぎない」
 彼は彼女に話しかけているつもりなどないのかもしれない。独り言をつぶやいているような調子だった。
「だが、フィードバックは避けられない」
 不意に、彼は和歌子を見た。赤い瞳が冷ややかに彼女を映し出す。彼女はびく、と震えた。
 男は淡々と問いかける。
「君は知っているかな……真っ赤に焼けた焼き鏝に見えるもの、たとえそれが本当に熱くなくても、それを押し当てられるだけで皮膚に水ぶくれのできる人がいる。熱い、と思い込んでいるからだ」
「…………」
 男は彼女に問いかけながらも彼女の答えを聞く気は特にないようで、彼のペースで話を進めていく。
「同じことだ。肉体が実際のダメージを受けなくても、その場合と同等の入力を神経に受ければその分のフィードバックが現れる」
 男は、再び和歌子から視線をそらした。
「『八千代理』の乗っていた機体は確かに吹き飛んだ。彼の意識が正常に保たれるわけはない。強すぎるショックによって死亡するのが当然……」
「さ……」
 和歌子の唇から罅割れた声が漏れる。
「サトルは……」
 彼女は勇気を振り絞って男を睨みつける。男は無表情に彼女を見返した。彼女の眼光になど全く痛痒を感じていないのだろう。
「サトルは、生きているわ!」
「生きている……」
 鸚鵡返しにつぶやき、男は首をかしげる。妙に子供っぽい動作だった。
「そう、彼はここで生きている。何故だろうね?」
「……貴方が何を言っているのか分からない」
 和歌子は呪縛が解けたかのように急に喋り始めた。
「貴方は何を言いたいの? 私が、サトルがここにいることがおかしいというの?」
「そうだ」
 あまりにもあっさりとした肯定。和歌子ははっと口を噤む。
「君たちは消えていなきゃいけない存在」
「え……?」
「『ゴート』が『ノア』に取り込まれる前に、ね」
 男は腕組みをして立っている。その足元には影がない。この場所はこんなに明るいのに、光源がどこにもない。和歌子は自分の足元を見る。やはり、そこにも影はなかった。
「……何なのよ」
 がくがくと膝が震える。和歌子は今更のように恐怖を憶えていた。
「何だって言うのよ……!」
「何故、ノエルが君を消すことができなかったのか」
 男は同情する様子もなくうずくまる和歌子を見つめる。
「多分、それは……」
 彼はすうっと眼を細めた。赤い瞳に宿るものを、見るものは誰もいない――。
 
 
  5
  
「おかしいと思っていたのよ」
 ノエルは真顔でつぶやく。理はただじっと彼女を見つめていた。汗がこめかみに滲むのを感じる。
「どうして和歌子さんを消去できなかったのか」
「消去……」
「そうよ」
 理は拳を固く握った。
「彼女は余分なメモリを食うだけの仮想人格。『ノア』の構築する世界には必要ないもの。本来、この世界に生じるはずもないもの。なのに何故、ここに生じて、しかも消えてしまわなかったのか」
「俺はどうなんだ?」
「貴方は実存人格、つまり卵の見る本物の『夢』だもの。ここでだって生きていくわ。ただし――」
 ノエルは軽く顎をつまむ。
「解せないのは、貴方の機体は吹き飛んだはず、ということ」
「…………」
 ――そうだ。理は思い出す。あの時感じた死の匂い。あれは、紛れもなく本物だった。
 五体が千切れ飛ぶような衝撃、駆け抜けた痛み、そして、虚無。
「なのに、どうして貴方は生きているのかしら……?」
「…………」
 吸い込まれそうなノエルの瞳から、理は苦労して視線を引き剥がす。
「そんなこと、俺にわかるわけないだろう」
 吐き棄てるように言った。
「そうね」
 ノエルはあっさりと同意する。
「だから調べたのよ」
「何を、だ?」
「今の貴方が、本物の『夢』なのかどうか」
「…………」
 理は眼を見開いた。初めて、怖い、と思う。ノエルの言葉の続きを聞くのが怖い。彼女はそんな彼の気を知ってか知らずか、言葉を継いだ。
「思ったとおり、貴方の『夢』の元――受精卵はショック死していた。あの戦闘の時にね」
「…………」
 息苦しい。気がつくと理は口で呼吸をしていた。それでも足りない。肺が押しつぶされているような感覚。片手でシャツの胸元を握り締める。掌を濡らしていた汗がシャツに染みた。
「だったら、ここにいる貴方は何なのかしら――」
「…………」
 ――そんなこと分かるはずがない。叫びたかったが、それは言葉にならなかった。ただ、ここから逃げ出したい。それだけだった。
「貴方を倒した『アーク』のこと、憶えている?」
 不意に尋ねられ、理は怪訝そうに眉を顰めた。
「『アーク』?」
「ああ、ごめんなさい。『ゴート』では『サクリファイス』と言っていたのかしら。戦闘機のことよ」
「俺は……」
 理の脳裏に鮮明な記憶が蘇る。
「海のような……いや、夜の海みたいな色の……」
「良く憶えているわね」
 ノエルは言葉の割に、特に褒める様子でもなかった。
「あの機体の名前は『ディープ・ブルー』」
「…………」
「そして」
 ノエルは目を閉じる。
「あれは『北原透海』の駆る機体なの――」
「…………!!」
 理の目が限界まで見開かれた。
 セミロングのストレートヘア。色白な肌に大きく開いた目、その奥の夜色の瞳。頭の回転の早さを窺わせる受け答えに、少し陰のある笑顔。時折考え込んでいるように目を伏せていることがあった。だがいつもの彼女を彩るのは強く、前方を射抜く眼差し……。
「俺は」
 理の声が震えていた。
「彼女に、殺されたのか」
「…………」
 ノエルは答えない。
 勿論、透海は知らなかったのだろう。理だって敵機の正体など知らなかった。何となく彼は「同じ人間なのかな」と思っていただけで、正確には何も知らされていなかったのだから。恐らく彼女もそうだったに違いない。しかし――。
「でもね」
 ノエルが口を開いた。
「もう一つ、大切なことがあるの」
「…………」
 理は俯いて顔を上げない。
「誰が貴方をこの世界に生かしているのか――」
「…………」
「ショック死してしまった貴方が、どうして今ここに生きているのか」
「…………」
 ――どうせ死んでいるのだ。どうでもいい。
 喉の奥がぎゅっと詰まる。泣きたくない、と思った。今泣いたら負けだ。こんなところで泣いて何になる。せめて、毅然と……。
「今、ここにいる貴方はね」
 しかし、ノエルの声は妙に優しかった。理は目を瞑る。
「『北原透海』に残った、貴方という存在の残滓なのよ――」
「…………」
「貴方の機体と彼女が接触して……そして、彼女は貴方の欠片を持ち帰ったのね――」
「…………」
「そしてそれを、『ノア』がこの世界に反映させた」
 理は俯いたままだ。
「貴方の中にあった『潮崎和歌子』の思い出ごと、ね」
「…………」
 「ノア」に、彼女はこの事態を収拾するようにと命じられた。結局、彼女の邪魔をした時任輝也が何者なのかはわからなかったが……「ノア」はそれには触れなかった。「もう、邪魔をされることはないよ」。ただ、そう語ったのみである。ノエルにも、それ以上追究するつもりはない。
「……つまり」
 言葉を失っていた理が、ようやく声を絞り出した。
「俺はもう……本当は生きてはいないってことなのか」
「…………」
 ノエルは静かに彼を見つめる。肯定も否定もしない。だが、それは明確な答えだった。
「そうか……」
 ため息混じりにつぶやく。不思議と、何も感じなかった。何も……。
「…………」
 ノエルが不意に顔を上げた。
「どうかしたのか?」
 理はぼんやりと尋ねる。
 ノエルが彼を見つめた。その黒い瞳は、艶やかに濡れている。無機質なようでいて、決してそうではない。――これが本当の生命じゃないなんて……。理はぼんやりと思う。彼女は実際のところ、コンピュータを構成する回路の一つに過ぎないのだろう。けれど……。
「なあ」
 理は手を伸ばした。
「ちょっと、触ってもいいか」
「え?」
 ノエルはきょとんとする。そんな表情も仕草も、とても人間らしい。
「手を、握りたいんだ。駄目かな」
「い、いいけれど……」
 ノエルが差し出す手をそっと握ってみる。柔らかくて、暖かい。
 ――やはり……。
「『北原透海』の意識が『夢』を離れたわ」
 ノエルは彼に手を握られたまま呟く。
「今のうちに……」
 理はその言葉を聞いていない。ただ一つ分かっていること。それは――自分にはもう時間がないということだった。
「あのさ」
「何?」
 ノエルは聞き返す。
「俺の手」
 理は尋ねる。
「暖かい?」
「…………」
 ノエルは口を閉ざし、理を見つめた。
「どうなんだ?」
 理は重ねて問う。
「そうね」
 ノエルはほとんど間髪入れずに答えた。

「冷たいわ」

 それを聞いた理の姿がすうっと消える。ノエルはそれを見送り、ふう、とため息をついた。視線を落とし、理が握っていた方の手を見つめる。そこには確かに、彼の手のごつごつした感触と――その優しい温もりが残っていた。
 
 
 
  6
  
 ――誰かに呼ばれた気がした。
 ワカは膝の間から顔を上げる。そこは見覚えのある景色だった。
「サトル……?」
 幼い頃、よく遊んだ公園。日が暮れるまでベンチに座ってぼうっとしていたら、互いの両親が探しに来て大目玉を食った。今となっては懐かしい思い出だ。ワカは立ち上がり、振り返った。赤い夕陽が眩しくて、目を細める。
「そっちじゃねえよ」
 笑みを含んだ声がして、ワカは首をめぐらせた。視界に入る、懐かしい微笑。少しはにかんだように眉を顰めているその顔は……。
「――サトル!」
「行こうぜ」
「え? ……え?」
 そういえば、さっきまで誰かと話していたような気がする――慌てて辺りを見回すが、そこには彼ら以外誰もいない。砂場には長い影が二つ、落ちていた。
「ほら」
 差し出された手を握ると、強く握り返された。
「どこに行くの?」
「…………」
 サトルは何も答えない。
「ねえ」
「…………」
「どこに……」
 不意にワカは言葉を切る。
 ――どこでもいいや。
 そう思った。サトルが手を引いてくれるのだから。彼の手はこんなにも――暖かいのだから……。

 夕焼けが沈んでいく。
 しかし、その街に街灯が灯ることはなかった……。