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第四章 カゲハネムリ 1~3

  1
  
 理は全てを思い出していた。目を見開いて空を見上げる。そこにはぼんやりとした白い半透明の球体――幻月。
「俺たちは……負けたのか」
 つぶやき、強く強く拳を握った。
「あの時、俺は……」
 彼の眼前へと迫った、闇色の機体。あらん限りの力で応戦したが、舞うような軽やかな動きに翻弄され、とどめの一撃を叩き込まれた。
 煌く青と、砕け散る白。彼の駆る「サクリファイス」は吹き飛んだ。
「なのに、何で……」
 理は自分の手を見つめて握り締める。
「何で、俺は生きてるんだ」
「貴方はどこまで知っていたのかしら?」
 ノエルの声に彼の意識は現実へと引き戻される。理は険しい視線でノエルを睨んだ。彼女は涼しい顔で微笑んでいる。
「そうね……たとえば、貴方の世界は何でできていたのか」
「地球が……」
 ごくりと唾を飲む。
「地球から脱出してきたんだって、聞いた。人間は、地球を棄てた」
「そうね」
「人類は滅びかけていたけど、何とか自分たちを運べる方舟を、宇宙船を作って――何十億の凍結受精卵と共に宇宙へと脱出した。それが、『ゴート』」
「上出来だわ」
 ノエルは感心したように鼻息を洩らした。
「そりゃどうも」
 理はそっけなく言い捨て、再び空へと視線を投げる。
「で、あれが……俺たちの方舟だったものなのか……?」
「貴方は気付いていたんじゃないのかしら」
 ノエルは静かな口調で言った。
「方舟が一つではない、ということに」
「…………」
 理は険しい表情で口を噤む。彼の拳は小さく震えていた。
「人間たちはずっと、戦争をしているの。メモリとエネルギーを奪い合うために」
 ノエルの口調は、まるで嘲笑っているようだった。
「かつて地球上でそうであったように、ね……」
「俺たちは負けた」
 理は呟く。
「負けたんだ……」
 幻月は徐々にその輪郭を空に滲ませ、消え始めている。
「『ノア』が『ゴート』のメモリを取り入れている」
 ノエルは空を見上げて微笑んだ。
「もうすぐ完了ね」
「俺たちは」
 理は彼女をにらみつける。
「俺たちはどうなるんだ」
「…………」
 すう、と彼女の顔から表情が消える。
「聞かない方がいいと思うけれど」
「消されるのか」
 理は唇を噛み締めた。
「やはり、そうなのか……」
「…………」
 ノエルは答えない。ただ、哀れむような眼差しで理を見返しているだけだった。
 
 
  2
  
 ――誰かに呼ばれたような気がした。
 和歌子は眼を開ける。そこは見たこともない空間だった。真っ白い部屋。家具の類は何もなく、窓すらもない。壁や床に敷き詰められているタイルは光沢がありながら衝撃を吸収しそうな変わった素材で、一片が数十センチほどもあった。
 彼女はゆっくりと辺りを見回し、やがてその視線が一点で止まる。
「……誰……?」
 その声に反応して振り向いた男の顔に、和歌子は息を飲んだ。
 白銀の髪に血の色をした瞳、白い肌。服もまた光沢のある白。部屋と同じ、およそ色素という色素から見放されたような姿の中、目だけがひどく目立っている。
 こんな男に会ったことはない。ないはずだ。だが、どこかで見た覚えがある。
「潮崎和歌子さん、だね」
 男は穏やかに微笑む。その声を聴いて彼女は小さく叫んだ。――貴方は……!
 だが彼は彼女の思考を読んだように、小さく首を横に振った。
「僕は『彼』ではないよ」
「え……」
「僕は」
 彼は和歌子を見つめた。その視線の冷たさに、彼女の背を冷たいものが這い下りる。
「神――いや、君にとってはきっと」
 優しく、それでいて隙のない声だった。
「死神だな」
 和歌子はぶるっと身震いした。男はただ静かにそこに佇んでいる……。

  3
  
 時間の止まった世界の中、彼らはそこに二人でいた。教室は薄暗いが、電灯を点ける気にもならないし、そもそも点くかどうかも分からなかった。
 透海は目の前にいる少年から目をそらし、空を見上げている。啓はそんな彼女を、少し悲しげな瞳で見つめていた。
「そうだったのね……」
 透海は呟く。
「私が、八千代君を……」
 白い機体が千切れ飛んだ瞬間を、彼女は覚えている。紙吹雪のようだと思った。――何も感じていなかった。まさか、あれが同じ人間の操るものだったなんて……。
「君のせいじゃない」
「それ、慰めのつもり?」
 透海は皮肉っぽく口の端を吊り上げた。
「僕は、ただ……」
 啓は躊躇いがちに口を開くが、透海の横顔を見てはっと口をつぐんだ。
 彼女の瞳には薄い膜が張っていた。それはゆらゆらと揺れ、やがて耐えかねたように滴り落ちる。
 ――やはり言うべきではなかった。啓は心の底から悔やんだ。
 後悔。それは「エーアイ」である彼が初めて経験する気持ち。それはひどく苦くて、彼の端正な口元を歪ませる。
「メモリもエネルギーも、いつも枯渇しているんだ」
 啓は揺れる心とは裏腹に、淡々とした口調で透海に語った。
「生命の維持には――莫大な情報量が必要だから」
「それを、奪い合っているのね」
 透海の頬は青ざめている。
「私はそのために戦っていたのね……」
「…………」
「それで」
 彼女が振り向いた。啓はとっさに顔を臥せる。これから尋ねられることの予想は既についていた。だからこそ、顔を上げたくない。彼女の眼を見たくなかった。
「あの、ノエルって何者?」
「…………」
「潮崎さんに何をしようとしているの?」
「…………」
「潮崎さんも……『そう』なの?」
「…………」
 透海は問いを重ねるうちにふと気がついたようだった。
 ――それはさながら、プログラムのバグといったところかしら? そう語った、ノエルの言葉を思い出す。
「……ああ」
 透海は手で顔を覆った。
「透海さん……」
 啓が搾り出すようにその名を呼ぶ。透海は目をそらし、教室の窓に駆け寄った。
 そらに浮かぶ幻月。徐々に溶け始めている。
「潮崎さんは……あそこにいるのね……」
「…………」
 啓は彼女の髪にそっと触れた。彼女は少し震えて、そして振り返った。その泣き顔に、痛みが走った。鋭く、甘い痛み。もっと彼女に触れたい、だが拒絶されるのは怖い。彼女の笑顔が見たい、涙を拭い去りたい。手をそっと動かして、彼女の目元に触れる。彼女は身じろいだが、今までのように払いのけはしなかった。
「久遠君」
「うん?」
「ごめんね」
 意外な言葉に、啓は目を瞬いた。
「……どうして君が謝るんだい?」
「…………」
 透海は唇を噛みしめ、俯いた。そのうなだれた肩に、彼は手を伸ばす。
「僕は――」
 触れるか触れないかの強さで、彼は彼女の体の周りに腕を回した。
「君に、生き続けて欲しい。僕を、生かしてほしい」
「久遠君……」
「奪って、殺して、戦って、それでも……君とともに、生き続けたいんだ」
「…………」
 透海は動かない。啓は目を閉じる。――この心は、僕だけのもの。たとえ人工的に作られたものだとしたって、構うものか。
「僕は――君が――」
 かくり、と透海がくずおれる。啓は力の抜けた彼女の体を支え、微笑んだ。
「……だから、側にいる」
 また、戦いが始まる――。