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第二章 ヒカリハマボロシ 6~8

  6
  
「お、潮崎じゃないか」
 啓の後ろから顔を覗かせたのは理だった。和歌子の眼が大きく見開かれる。
「や、八千代」
「お知り合い?」
 乃江流は微笑みながらも、ゆっくりと立ち上がっていた。
「お友達も増えたところだし、今日はここまでにしておきましょうか」
「え、でも」
 まだ何も話をしていないではないか――そう言いたげな和歌子に乃江流は軽く手を振った。
「お友達と過ごす時間も大切だわ。私と話をすること以上にね」
「……はい」
 乃江流は三人分の支払い金額をテーブルに置き、小ぶりなブランドバッグを小脇に抱えて歩み去る。
『おい』
 啓の横を通った時、彼女は小さな声を聴いた。
『彼女には手を出すな』
 鼓膜を震わせる音波ではない。「ノア」の回路を通した電気信号。
 乃江流はふっと笑みを浮かべた。
『噂通り、随分と彼女にご執心なのね、「ユダ」?』
『そうじゃない』
 啓の声が苛立つ。
『彼女に「敵」の正体を暴かれたいのか』
『まさか』
 乃江流は肩をすくめた。
『貴方が時任輝也に関する情報を隠匿しているんだもの、仕方がないじゃない。今回の任務の遂行にはそのデータが必要よ』
『そのデータに関しては「ノア」がトップシークレットに指定している。僕にはどうしようもないことだ』
『はいはい』
 啓の声に剣呑なものが混じり始める前に、ノエルは退散することにした。啓が――「ユダ」である彼が本気を出せば、「イレイザー」である彼女などあっという間に消されてしまう。データそのものをデリートされ、最初から存在すらなかったことにされてしまうだろう。
 彼のディレクトリはノエルのものよりもずっと上位で、彼女からの干渉はできなくとも彼からは可能だ。しかも、彼は「ユダ」の名を冠する啓は特別な「エーアイ」なのだ。普通の「エーアイ」が持たない権限を、いくつも「ノア」に与えられている。ノエルは消されるつもりなどなかった。
『それじゃ、また』
 彼らの会話が終わるまで1ミリセカンド。その間中、啓は変わらず笑みを浮かべ続けていた。
 
 
  7
 
「そうだ、潮崎」
 帰り支度を始めていた和歌子に、理は唐突に声を掛けた。
「ちょっと話があるんだけど」
「話? 何それ」
 首を傾げると、彼女のセミロングの髪が片方の頬を覆う。
「いや、まあいいからさ、ちょっと付き合えよ」
 理は奇妙な作り笑いを浮かべながら和歌子を見つめた。和歌子の表情に当惑が浮かぶ。
「別に、いいけど……」
「それじゃあ僕たちはこれで」
「え? 私ももう帰るわよ」
 背中を啓に押され、透海は怪訝な表情をした。啓は片目を瞑り、
「勿論僕も帰るさ」
 透海の鞄を彼女自身の手に押し付け、持たせる。
「さよなら、八千代君、潮崎さん」
「あ、ああ」
「さ、さようなら」
 唐突な啓の行動に戸惑う二人を尻目に、彼は透海を連れ、飄々とした顔で店を出て行った。
 店を出たところで、透海は腕を掴む彼の手を振り払う。
「一体どうしたのよ、久遠君」
「君は気が利かないね」
 啓は笑った。
「いい雰囲気だったじゃないか。あの二人」
「そっちじゃない」
 透海は足を止めた。既に彼らは駅の雑踏の中に入り込んでいる。透海と啓の間を何人もの人間が通り抜けていった。
 啓の笑顔が、随分遠くに見える。
「貴方、どうしてあそこに来たの?」
「あそこ?」
「あの、ノエルとかいう人が時間を止めていたのを解除したでしょう」
「…………」
 啓はただ静かに微笑んでいる。
「どういうことなの。潮崎さんがバグって……どういうこと。『イレイザー』って何。何を消すの」
 答えない啓を、じっと睨んだ。
「本気で……潮崎さんを? 何故? 何のために?」
「君は」
 啓の表情から笑みが消え、苦しげに言葉を絞り出す。
「『アーク』の『コア』だ」
「…………」
「『アーク』に乗って敵と戦い、敵を殲滅する。そうすれば」
 白い手のひらを広げて見せる。
「この世界は存続するんだ。それ以上のことは、何も――」
「敵って誰なのよ」
 透海は低く呟いた。こめかみが、痛む。
 俯いた視線の先を、色鮮やかな靴たちが通り過ぎていった。
「どうして教えてくれないの。他の『コア』たちも言っていたわ。それだけは絶対に教えてくれないって。何故なの」
 握り締めた手は汗ばんでいた。
「敵って」
「……ごめんね」
 啓のつぶやきが聞こえた。
「君を苦しめて、ごめん……」
「何よ、それ」
 顔を上げた透海の目の前で、啓は何故か泣き出しそうな顔をしていた。
「久遠、君?」
「君を守りたいんだ。それは、本当なんだ。でも、どうしたらいいのか良く分からない」
 啓は泣き笑いのように顔を歪めた。
「僕が『エーアイ』だから、わからないのかな」
「…………」
 透海は言葉を失う。啓のいう言葉は耳に入ってきていたが、理解はできなかった。ただ、啓は自分のためにこんな辛そうな表情をしている――そのことだけは、痛いほどに分かっていた。
 
 
 
  8
 
 並木道が歩道の上に影模様を作っている。その下を理と和歌子はゆっくりと歩いていた。
「話って、何」
 和歌子がつぶやいた。
 理はちらりと彼女の横顔を見た。夕陽が陰影を落とし、彼女の表情は良く見えない。
「あの女、誰だ?」
「カウンセラよ。野々村先生に紹介してもらったの」
「カウンセラ?」
 理の声が少し大きくなり、歩みが止まった。
「お前、何か悩み事でもあるのか?」
「……別に」
 和歌子もつられて足を止める。
「そういうわけではないけど」
 理の問いはあまりにも朴訥すぎた。和歌子の唇に苦笑が浮かぶ。彼はいつだってそうだ。真っ直ぐで、欺瞞というものがない。単純だが粗野ではなく、複雑な心の綾には理屈ではなく直感で迫ってくる――動物的な勘だろうか。
 乃江流や透海に説明したことを、彼には話す気にはならなかった。分かってもらえるはずもないと思ったし、彼に話して笑われるのだけは嫌だった。きっと、誰に笑われるのよりも辛い。
 結局和歌子は曖昧に誤魔化すにとどめた。
「ま、色々あってね」
「そうなのか?」
 理は眉を寄せる。整った顔立ちが、妙に子供じみているように見えた。
「友達も心配してたぜ?」
「友達?」
「ああ。俺、相談されちゃってさ」
「何で?!」
 和歌子が大声を出す。理はたじろいだように一歩退いた。
「な、何でって」
「何で八千代に相談するのよ。私のこと」
「さあ。……そういや何でだろうな」
 改めて不思議に思ったように首を傾げる彼を見て、和歌子は脱力して肩を落とす。
「まあいいわ。とりあえず帰りましょ」
「え、でも」
 まだ何も話していない――とりあえず理は歩き出した和歌子の後を追った。和歌子は早足で歩いているが、歩幅の広い理はすぐに追いついた。
「そういえば」
 理はふと呟いた。
「こういうのって、前もあったような気がする……」
「こういうのって何?」
 和歌子が振り返った。理は彼女を見て、穏やかに微笑んでいる。その表情に、和歌子は息を呑んだ。
「こんな感じ」
 風が彼の短い髪を乱す。浅黒く日焼けした肌に、くっきりした顔立ち。真っ黒な瞳が優しい光を宿していた。
「理君が、引っ越す前のこと……?」
 和歌子は口をついて出た言葉に、はっとする。
 ――サトル。
 そう、確かに彼女は彼をそう呼んでいた。それはいつのことだっただろう。
「ワカ……」
 理は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で囁く。
 理が引っ越す前ではない。もっともっと最近のことだ。しかし、そんなはずはない。記憶もない。だが、確かに――「おぼえている」。
「…………」
 困惑した表情を浮かべ、二人はただお互いの顔を眺めていた。