instagram

第二章 ヒカリハマボロシ 4~5

  4
 
 乃江流に誘われ、和歌子と透海は近くの喫茶店に入った。店内には、彼女らとは違う学校の制服を着た女子高生の姿もちらほら見られる。駅や繁華街に近いこの場所は、彼女らにとって調度いい休憩所なのかもしれない。
 四人席の奥に和歌子と透海が、その向かいに乃江流が座った。透海は落ち着かない様子で和歌子を見遣るが、彼女は気にする様子もなくメニューを見ている。乃江流に出会ってからの和歌子は、どこかおかしい。透海は漠然とした不安を感じるが、その正体まではわからなかった。
「ごめんなさいね、強引に連れてきてしまって」
 乃江流は透海を案ずるように見つめて微笑んだ。
「いえ、別に……」
 口ごもる彼女に乃江流は名詞を差し出した。透海はそれを手に取る。資格と共に彼女の名前が書いてあったが、名字は横文字で彼女にはどう読んだらいいのか分からなかった。字の並びからみて英語圏ではないような気もするが、定かではない。
 乃江流はさっそく、というように身を乗り出す。
「それで。和歌子さん、具合はどう?」
「…………」
 メニューを透海に手渡した彼女の手がかすかにぴくりと震えた。
「あまり……良くないです」
「そう……」
 乃江流に落胆の表情が浮かぶ。何のことかさっぱり分からない透海が困惑していると、乃江流が和歌子に告げた。
「透海さんにお話しても構わないかしら?」
「ええ」
 和歌子が頷く。乃江流はあくまで穏やかに言葉を紡ぐ。
「貴方の口から話す? それとも私が?」
「……私が話します」
 ウェイトレスにそれぞれ三種のコーヒーを注文し終えると、和歌子はゆっくりと口を開いた。その眼は茫洋として、遠くを眺めている。
「私、この前に事故に遭いかけたの」
「事故に……?」
「新聞にも載ったけれど、とても小さかったから気付かなかったと思う」
 和歌子は気弱げに微笑む。透海は黙って続きを聞いた。
「トラックが歩道に突っ込んできてね。時任先生が庇ってくれなかったら……今頃死んでたかも」
「…………」
 透海の表情がかすかに動く。彼女の従兄弟、時任輝也がそのようなことに巻き込まれていたとは知らなかった。言うほどのこともないと思ったのだろうか。しかし、輝也にとって交通事故は鬼門である。かつて、彼は両親をそれで亡くしたのだから――。
「運転手にも怪我はなくて、大事には至らなかったんだけど……」
 和歌子が躊躇うように乃江流を見る。彼女は優しく頷いた。まるで話の続きを促しているようだ。長い髪が垂直に動くのを見るともなしに見ていた透海の耳に、和歌子の言葉が入ってくる。
「それから良く眠れなくなって……あと」
 和歌子は膝の上に組んだ手にぎゅっと力を入れた。
「誰かに監視されているような……まるで狙われてるみたいな気がして」
「狙われてる?」
 透海が眉を寄せて聞き返すと、和歌子は頬を赤く染める。
「おかしいよね。なんか、自意識過剰みたいで。でも……」
 和歌子はそれを高校の養護教諭である野々村に相談し、野々村から乃江流を紹介されたのだという。
「野々村さんとは大学で同期だったのよ」
 乃江流は透海に説明するためだろう、そう付け加えた。
「そうですか」
 それを聞かされたところで、透海としては当惑するしかない。言葉が見つからずに視線だけをためらわせていると、乃江流は和歌子に対して問いを投げかけた。
「貴方は誰によって監視されているのかしら?」
「えっと……」
 和歌子は軽く天井を仰いだ。
「この世界は誰かによって管理されていて。その誰かの手下……みたいな。多分」
「でも、どうして貴方を?」
「私……わたし」
 ウェイトレスが乃江流の前にエスプレッソを、和歌子の前にキャラメルマキアート、そして透海の前にはカフェラテを置いた。透海はカップに手をあてながら冷めるのを待つ。和歌子といえば運ばれてきたことにも気付いていないようだった。
「監視されているのは皆? それとも貴方だけ?」
「多分……私だけ」
 和歌子の口調は鈍く、それでいて妙に確信に満ちていた。
「それは貴方が悪いことをするから?」
 乃江流は次々に質問を口にする。
「そうじゃない。そうじゃないんだけど」
 透海はふと顔をあげた。疑念が鎌首をもたげる。――何かがおかしい。その違和感の正体を探ろうと、意識を自分の内に集中させる。
「きっと私はこの世界にとっては異分子で……」
「それはさながら」
 乃江流の声が妙に大きく店内に響いた。
 
「プログラムのバグ、と言ったところかしら?」

 ――ぴしり、と空間に罅が入った。
「な……?!」
 透海は驚いて立ち上がる。辺りを見回すと完全に時が停止していた――透海と乃江流を除いて。
「…………」
 この時、彼女はようやく違和感の正体に気がついた。透海は軽く眼を細めて乃江流を睨む。
「貴方、誰?」
「…………」
 乃江流は微笑んでエスプレッソを持ち上げる。彼女がカップに触れた途端、止まっていたはずの湯気が再び動き出した。白く、天井に溶けていく。
「貴方のカフェラテも、飲めるようにしましょうね」
 乃江流がそう言うと透海のカップからも湯気が立ち始める。和歌子といえば不自然に頭上を見上げたままの姿勢で、時が止まったのでなければ首を痛めそうだった。
「貴方、私のことを『透海』って呼んだ。だけど」
 透海は彼女から視線を離さない。
「私、貴方に名乗っていないわ」
「…………」
「どうして貴方は私の名前を知っているの?」
「…………」
「それ、どうして時を止めたの?」
「『どうやって』ではなく、『どうして』……か。驚かないのね?」
「これに似たようなことに、前出会ったから」
「そうね……」
 乃江流はエスプレッソをすすりながら上目遣いで彼女を眺めた。どこか面白がっているようでもあり、その表情には余裕があった。
「『北原透海』という名は私にとって意味がない」
「…………」
 透海は体を硬くする。――乃江流はおそらく、久遠啓と似たような存在だ。すなわち……。
「この際、『ディープ・ブルー』って呼んだ方がいいわね」

 乃江流はそう言ってにっこりと微笑んだ。
 
 
  5
  
 ――この世界は偽物だ。
 それはかつて久遠啓、いや「アーティフィシャル・インテリジェンス・ナンバー・サーティーン」、通称「ユダ」に聞かされたことだった。
 かつて、地球はとある原因で住むに耐えない状況になった。生き残っていた数少ない人類は受精卵を凍結し、それを管理するコンピュータと共に宇宙船に――「方舟」に乗せた。いずれ地球に良く似た環境を見つけることができたなら、受精卵を解凍して新たな地で人間が生きていけるように。確率は低くともゼロではない。そう考えたのだろう。どちらにせよそれ以外に道はなかったに違いない。
 その受精卵を生かすため、「方舟」のコンピュータシステム、「ノア」は彼らに「夢」を見せているのだ――人類が地球上に暮らしていた頃の「夢」を。
 「夢」を見ながら、卵は次々と生命を終えていく。そして新しい卵が「夢」を見始める。彼らの「夢」を支えるためにプログラムされた数多くの擬似人格が作られ、卵の「夢」である実存人格と一見何ら変わりなく生活している。光速に近い速度の「方舟」の中で凍結されている受精卵の周りでは、時間はゆるやかに流れている。ほとんど変化のない恒常性に守られ、「夢」はただ流れ続ける。
 ――だが、「方舟」の外では違った。襲い来る敵と戦うための「アーク」が準備されており、それは現在四機存在している。人型をした巨大な戦闘機であるそれは、起動に「コア」という名の実存人格を必要とした。「アーク」は「コア」の脳から仮想的に出入力する信号をもとに操縦されるのだ。
 現在の「コア」は「アーク」の数と同じ、四人。そのうちの一人が「ディープ・ブルー」――北原透海だ。
 
「貴方も『エーアイ』なの?」
 透海の問いに乃江流は首を横に振る。
 久遠啓は「アーク」の「コア」である北原透海専属の「エーアイ」である。彼女だけではなくそれぞれの「コア」に専属の「エーアイ」がいるらしいが、透海にはその役割が良く分からない。何故「夢」の中でまで彼が彼女のクラスメイトとして一緒に居るのか、その理由を彼は「君を守るためだよ」などと言っていたが、本当だろうか。彼の奇妙な馴れ馴れしさは、不快ではないが不可解ではあった。
 目の前の女は、どこか彼と似た空気をまとっている。透海は眉を寄せた。
「じゃあ、一体何……?」
「私は『イレイザー』」
 乃江流は穏やかに笑う。だが、それはどこか鋭利な印象のある表情だった。
「『イレイザー』?」
 それは彼女の知る限り、消しゴム、という意味の英単語だ。乃江流はうなずき、彼女のカップを指差した。
「そう。……カフェラテ、冷めるわよ」
 透海はしぶしぶといったようにカップを口元に運んだ。少しぬるいそれは、猫舌である彼女にはちょうどいい温度だ。乃江流はそれを満足げに見守った。
「『イレイザー』、つまりこの世界におけるバグを消し去るための役割、といったところね」
「バグを……?」
 呟いてからはっと顔をあげる。
 ――「プログラムのバグ、と言ったところかしら?」それは、乃江流が和歌子に対して言った言葉だった。
「潮崎さんがバグって……どういうことなの」
「…………」
 乃江流は黙って微笑を浮かべ続ける。
「彼女をどうするつもり?」
 質問を変える。すると、乃江流の表情からすっと笑みが消えた。
「それに答える前に、一つ聞いておきたいことがあるの」
「え?」
「あの男、何者なの?」
「あの男?」
 鸚鵡返しに尋ねて自らの思考停止にうんざりする。和歌子が語った話の中に出てきた男といえば、ひとりしかいない。透海はすぐに言葉を重ねた。
「もしかして、輝也さんのこと?」
「そうよ」
 乃江流は忌々しそうに唇を歪める。
「どうして私が彼女を消す邪魔をするの? 私の行動は『ノア』の意志にもとづくものなのに。この『世界』に住むものは、誰も彼には逆らえないはずよ」
 ――まあ、「ユダ」は例外だけれど。乃江流はそう付け加える。
「…………」
 透海は黙って彼女の顔を見つめた。
「貴方の従兄のことが聞きたくて、貴方をここに呼んだのよ」
 透海は乃江流の硬質な瞳をじっと見つめ返した。きゅっと引き結ばれた唇は何も答えない。――答えることなど、何もなかった。彼が何者であるか、彼女は知らない。知る必要もない。彼は彼女の従兄で、時任輝也だ。それ以外の何者でもない。
 乃江流が痺れを切らして何か口にしようとした、その時。
「あれ、こんなところで何をしているの?」
 第三者の声がして、不意に時間が動き始める。和歌子は不思議そうに瞬きをしながら首の位置を元に戻した。透海はゆっくりと振り向き、大きく息を吐く。静寂に慣れていた耳に、喧騒が痛い。
 銀髪に赤い瞳、抜けるような白い肌の美少年――それは、久遠啓だった。