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第二章 ヒカリハマボロシ 1~3

  1
 
 彼は河岸を歩いていた。隣には彼女がいる。夕陽に照らされた二人の影は長く伸び、彼らの足取りにあわせて草むらの上を滑っていた。
「……なあ、ワカ」
「何?」
 彼女は振り向いた。両手で持った鞄は重そうにふらふらと揺れている。逆光で、彼には彼女の顔が良く見えない。
「将来の夢、ある?」
 何となく、不思議そうな顔をされたのは分かった。
「急にどうしたの?」
「いや……」
 彼は歯切れ悪くつぶやき、曖昧に笑う。
「分かった!」
 彼女は彼の肩をぽん、と叩いた。
「高校受験が近いから、不安になってるのね?」
 その言葉は実際のところ大きく的を外していたのだが、彼は曖昧に頷いておくことにした。
「……そうかもしんない」
「大丈夫よ。先生言ってたじゃない。『今の調子だったら第一志望には十分合格できる』って」
「うん、まあな」
 だが彼の浮かない表情は変わらない。彼女は心配そうに眉をひそめた。
「何か、あったの?」
「いや?」
 彼は顔を上げる。少し不器用ではあったが、何とか彼女を安心させられるだけの笑みは浮かべられたらしい。彼女はふい、と前を向いた。
「私の夢はねえ」
 目をきらきらと輝かせて語る彼女を、彼はどこか眩しそうに見つめる。
「私、英語好きだし本も好きだから、翻訳の仕事につきたいの」
「翻訳……」
「うん。あとは編集者もいいなって」
「とりあえずは、出版関係なのか?」
「そうね」
 頷いて彼女は彼を見る。
「そういえば『――』のお父さんって」
「雑誌記者」
「だよね。今度、お話聞かせてほしいなあ」
「お前のお母さんから俺の親に言ってくれれば多分いつでも……ま、俺から言ってもいいけど」
「うん」
 彼女は笑った。それはとても自然な表情で、……きれいだと思った。
「幼馴染のお父さんがたまたま、なんてラッキーよね」
「…………」
 彼は返事をせずに静かに微笑む。
「で、『――』は? 何になりたいの?」
「何だろうなあ……」
 生返事をして、空を見上げる。夕陽に照らされた雲が影を作り、その陰影が変に立体的で、彼の眼を惹いた。
「『――』って運動神経いいじゃない? スポーツ選手は?」
「選手になれるほどじゃないだろ」
「そんなの、分からないじゃない」
「分かるさ。それに」
「それに?」
「それに……」
 彼は不意に視線を地上に戻した。彼女の顔を見る。光線の加減か、頬がうっすらと上気しているように見えた。触れてみたい衝動にかられる。
 だが、彼が口に出したのは別のことだった。
「……あのさ」
「何よ?」
「手」
「手?」
「出して」
「こう?」
 自分のものよりも一回り小さい手が、おずおずと差し出される。彼は満足げに頷き、その手を自分の手で掴んだ。
「ちょ、ちょっと!」
 彼女は真っ赤になって抗議する。だが、彼は動じなかった。
「いいだろ、別に」
「誰かに会うかも」
「気にすんなって」
「気にするわよ!」
 もぞもぞと逃れようとする指をしっかり掴まえ、彼は足早に歩き出した。
 このまま、ふたりでどこまでも歩いていけるような気がしていた。――川に沿って、どこまでも。
 
 
  2
  
 和歌子が事故に巻き込まれかけてから、二週間ほどが過ぎたある日の昼休み。理の机の前に突然見知らぬ少女たちがやってきて、彼は大いに面食らった。
「八千代君よね?」
 一人は長身にショートカットのボーイッシュな雰囲気で、もう一人は特に目立ったところはない髪を少し茶色に染めている。理は不審そうに彼女らを見上げた。
「そうだけど……」
「――和歌子の彼氏、でしょ?」
「……カレシ?」
 彼がその言葉を理解する間も空けず、少女たちは言葉を継いだ。
「私たち、和歌子の友達なんだけどね」
「ああ」
「あの子、最近変なのよ」
「変? どういうことだ?」
「ええ」
 二人はどちらともなく目を合わせて頷きあった。
「何か、八千代君は感じない?」
「いや、別に……」
 いつも通り毎週塾には通っているし、登下校時に見かければ声を掛けている。特に変わった様子はないように思っていたのだが……。
「何だか考え事をしていることが多くて、ぼうっとしてるし」
「そうそう。話しかけてもうわの空っていうか」
「そんな感じなのよ」
「へえ……」
 理は首をかしげる。そんな風には感じたことがなかったのだが、どういうことだろう。事故に巻き込まれそうになったとはいえ、怪我はなかったらしいし、頭を打ったとも聞いていない。それとも、実はやはりどこかをぶつけていたのだろうか。それならそれで、さっさと病院に行けばいい話のような気もする。
 理はつぶやいた。
「何か悩みでもあんのかな」
「そうかもしれないわね」
 髪を染めている方の女が軽く背を屈め、じっと彼の瞳を見つめた。
「ちょっと聞いてみてあげてよ」
「何で俺が」
「何でって……」
 長身の女が腰に手をあて、首をかしげた。
「彼氏かどうかはこの際置いておいて。でも、幼馴染なんでしょう?」
「それは……まあ」
「もし良かったら、彼女のお母さんにでも話してみて欲しいのよ」
「そんなに変なのか?」
 さすがの理も気にかかって聞き返すと、彼女らはほぼ同時に深く頷いた。
「それに、最近食も細いみたいだから余計にね」
「本当、彼女ちょっと痩せたもの」
「……分かった」
 理は頷く。
「うちの母親にも話してみるよ」
「ありがとう!」
 ぱっと表情を明るくして喜び合う彼女らに、いい友達だな、と理は思う。その背後で――久遠啓が硬い表情で彼らの会話に聞き入っていたなど、彼には思いも寄らぬことだった。
 
 
  3
  
 その日、透海は学校帰りに本屋に寄った。自分の身長ほどある本棚の間を回遊していると、酩酊とした至福の感覚に包まれる。彼女は本が好きだ。幼い頃から一日数時間以上でもじっと座って本を読んでいるような、そんな子供だった。小学生時代が一番本を読む時間があったな、と透海は思う。中学生、高校生と進むに従って勉強が忙しくなり、読書に取れる時間は少なくなる一方だ。小遣いは増えたから買える本の量は増えているはずなのだが……。
 透海はハードカバーの新刊の棚に歩み寄り、さっと背表紙を視線で撫でた後、平積みになっている方に視線を落とした。ふと、隣りに立っている人物が自分と同じ制服を着ていることに気付く。顔を上げると、相手もはっとしたように彼女を見た。見覚えはあるように思うが、名前は覚えていない。だが、相手は彼女を見知っていたようだった。
「北原さん?」
「あ、……ええ」
 透海の心に過ぎった警戒心に気付いたかどうか。少女はにっこりと微笑んだ。
「はじめまして。私、C組の潮崎」
「潮崎、さん」
 つぶやきながら、記憶を掘り起こす。浮かんできたのは、教室で近くの座席に座っている少年の顔だった。
「確か、八千代君の友達……だよね」
「そう、そうなのよ」
 和歌子はどこかほっとしたような表情で頷いた。
「友達なの」
「潮崎さんは、何か本を買いに来たの?」
「ええ。……北原さんは『加川霧子』って作家知ってる?」
 透海は首を横に振る。初めて聞いた名前だった。
「ううん、知らない」
「そう」
 北原さんなら知ってるかと思ったんだけど……、と和歌子は呟きながら、新刊コーナーから一冊の本を抜き出した。
「その人の新刊が発売になったからね、買いに来たの」
「小説?」
「ううん、何ていうか……エッセイじゃないけど、一応エッセイってことになっていて。不思議な文章を書く人なの」
「そう」
 たいして興味も持たず、彼女が手にした本のタイトルをちらと見る。――「ノアの見た夢」。
「…………?!」
 透海はぎょっとして目を瞬いた。彼女の表情の変化に気付いたのか、和歌子が不思議そうに首をかしげる。
「どうかした?」
「何でもない」
 透海はすぐに笑みを浮かべた。その表情の切り替えは、彼女にとっては慣れたものだ。何気なく、話を向ける。
「面白いの? この人の本」
「最近は結構売れているのよ。この本屋にもコーナーができていたもの」
 和歌子の後をついて歩いていくと、確かにある一角に彼女の本が集められていた。ほとんどはハードカバーだが、一部は新書や文庫にもなっているらしい。
「お薦め、ある?」
 尋ねてみると和歌子は少し悩んだ後、一冊の本を手に取った。黒を基調にして装丁された文庫本で、タイトルはグレイでひっそりと書かれている。「doubled world――二重世界」という文字を読んで、透海は内心少し動揺した。
「デビュー作はこれ」
 透海は礼を言ってそれを手に取った。大して高い買い物ではない。
「読んでみるわ」
「もし良かったら貸すけど?」
「ありがとう。でも、買ってみるから」
 透海はにっこりと微笑む。和歌子は頷いて腕時計に視線を落とし、はっとしたように顔を上げた。
「いけない、私約束があったんだった」
「ごめんなさい、引き止めたりして。待ち合わせ場所はどこ?」
「この本屋の前だから、大丈夫よ」
 妙にそわそわとし始める彼女に、透海は不審の眼差しを向けた。
「じゃあとりあえずその本を買って、それからすぐに戻れば?」
「そうね」
 和歌子は頷いて足を速める。透海も後に続いてレジに向かった。
 
「和歌子さん、こっち」
 和歌子が声を掛けられたのは、彼女がカバーを掛けた本を鞄に直してすぐのことだった。
「あ、乃江流さん」
 和歌子はすぐに声の主に気付く。透海も一瞬遅れて足を止めた。
「お友達?」
 彼女らの視線の先で微笑むのは彼女らよりも十歳ほど年上に見える女性だ。長い黒髪が印象的で、知的な美人だと思った。
「え、ええ。高校の……」
 透海は軽く手を振った。彼らの用事に、自分は関係ない。
「潮崎さん、じゃあ私はこれで」
「あ、うん」
「ねえ」
 乃江流と呼ばれた女性は透海の肩に軽く手を掛けた。彼女の体がぴくりと小さく震える。
「良かったら少しお茶でも飲まない? お急ぎでなかったら、だけど」
「えっと……」
 困った表情を作り和歌子の顔を見ると、彼女もまた困ったように微笑んでいた。
「乃江流さんは、私が紹介してもらったカウンセラなの」
「カウンセラ?」
「そう」
 乃江流は頷く。
「いつも二人で顔をつき合わせて話していても煮詰まってくるから、たまにはお友達にも参加してもらった方がいいんじゃないかと思って」
 言葉を交わしたのは今日が初めてである。友達などとは到底言えない――透海は当惑するが、うまい断りの言葉が浮かんで来ない。口ごもっているうちに、乃江流が言葉を重ねた。
「大丈夫」
「時間は取らせないから」
「…………」
 透海の探るような視線をついとかわし、乃江流はヒールの音も高らかに歩き出した。