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第三章 マボロシハカゲ 7~9

  7
  
 理がオフィスの扉をノックすると、間髪入れずに声が返ってきた。女の声だ。
「どなた?」
「あ、あの」
 こういうシチュエーションには不慣れな理は、少し慌てた。
「すみません、えっと、急で、予約とかしてなくて……」
「今は来客もないし、構いませんよ」
 声が徐々に近付いてきて、理の目の前の扉が開いた。見覚えのある美女の顔が、驚きに満ちる。
「あら、貴方……?」
「潮崎に聞いて来ました。八千代といいます」
「下のお名前は?」
「さ……理」
「理君、ね」
 乃江流は長い髪を指先で払い、微笑んだ。
「ようこそ。中へどうぞ」
「お邪魔します」
 理はぎくしゃくと頭を下げ、彼女の後に従った。
 パステルカラーの壁とソファ、木目調のテーブル。壁際に小さなサイドボードとデスクが置かれている。理は何となく幼稚園を思い出した。
「お飲み物は何がいいかしら。紅茶? コーヒー? それとも……」
「あ、じゃあ紅茶で」
 理は落ち着かない様子でソファを見つめる。乃江流はそれに気がついたのか、笑みを含んだ声で言った。
「どうぞ、お座り下さい」
「あ。どうも」
 理は座った後も視線が定まっていない。乃江流はポットに茶葉を入れ、お湯を注いだ。
「何か、お話があるのよね?」
「は、はい」
「それは潮崎さんのことかしら? それとも」
「あ、それも……あります」
 理はようやく心を決めた、というように視線を上げた。
「あいつ、最近やっぱりおかしいんで」
「貴方」
 乃江流は二つのマグカップを持ったままゆっくりと振り返った。口元には優しい笑みが浮かんでいる。
「潮崎さんのお友達なの?」
「ええ。幼馴染です」
 理ははっきりと発音する。
「大事な友達で……それで」
 膝の上で握り締めていた拳がかすかに震えた。
「俺は……多分、彼女が好きなんです」
「…………」
 乃江流が驚いたように目を見開いた。理は彼女を睨みつけるように見つめる。
「昔から、俺はあいつが好きだったんだ」
 彼らはお互いに一人っ子で、幼い頃からいつも一緒に遊んでいた。いつから好きになったのか、どうして好きになったのか、そんなことは知らない。しっかりしているようで意外にどんくさい彼女のことが気に掛かって仕方がない、それだけのことだ。――そして……。
「……俺は、ずっとそれが続くと思っていた」
 糸が切れたように、理はうなだれる。乃江流は黙ったまま彼に近付き、その目の前に紅茶を置いた。そして理と対面するような形でソファに腰掛ける。
「おかしいんだ。ワカも、俺も。なんか、記憶が混乱して」
 理のつぶやきは、既に独り言のようになっていた。
「転校していたはずの時期に、あいつと一緒にいた思い出がある。最近変な『夢』ばっかり見てるし……」
「変な『夢』?」
 乃江流は顔を上げた。その表情に笑みの色はない。俯いている理は、それに気付かなかった。
「そうです。変な、『夢』……」
「そう……」
 乃江流は一瞬目を閉じ、そして開いた。
「ねえ、理君?」
 理は構わず独りでぶつぶつとつぶやき続けている。
「『夢』って何かしら」
「え……?」
 その言葉に彼は顔を上げ、息を飲んだ。目の前に座る乃江流――彼女に変化が起こっていた。先ほどまで着ていたサマースーツは跡形もなく消え、彼女が今身にまとっているのは体にぴったりしたラインのボディスーツ。それも、銀色にぴかぴかと光っている。
 ――理ははっとした。彼は、彼女を見たことがある。以前、学校の体育館の屋上で……。
「『夢』って何だと思う?」
「え……」
 理はかろうじて口を開いた。答えなければいけない。何故かそんな気がする。
「『夢』……?」
 彼が答えられないでいると、ノエルはそれを許すかのように嫣然と微笑した。
「とある作家、加川霧子はこんなことを言っているわ」
 長い人差し指をぴん、と立てる。理の視線はそれに吸い寄せられた。
 
 ――夢を見る理由はただ一つである。それは現実を安定させるためであり、そしてそのことが同時に逃避をも誘導する。
 
「……ってね」
「それ、どういう……」
「どういうことかしらね?」
 ノエルは人の悪い笑みを浮かべながら理を見ている。
「う……」
 彼の背中から嫌な汗が吹き出した。

  8
  
「…………」
 啓は静かに息を吸い、そのままゆっくりと吐き出した。
「どうしてそういう結論に至ったのか、できたら教えて欲しいな」
「否定しないということは、肯定と受け取るわよ」
 彼を睨みつける透海に、啓は寂しげな視線を向けた。
「…………」
 薄い唇がわずかに開く。
「真実を隠すのと、嘘を言うのとは違う」
 啓はつぶやいた。
「僕は、君に嘘はつきたくない。たとえそれが『エーアイ』としては間違った選択だとしても……ね」
「…………」
 彼は少しだけ微笑んだ。
「どうかしてるな、僕」
「久遠君……?」
「君のせいだからね」
 彼はそう決めつけ、やがてため息をついた。
「それで――どうやって、君はさっきの結論に至ったのかな」
 彼は透海が何か言おうとする前に言葉を継いだ。
「そう――どうして僕らの敵が『人間』だって思ったのかって、ね」
「…………」
 透海は目を伏せる。
「簡単なことよ」
「かんたん?」
「ええ。ヒントは沢山あったから」
 最初のヒントは「敵の正体を『エーアイ』が『コア』となる人格に対して秘密にしなければならなかったこと」――それそのものだった。
「私たちに知られてはならない理由は何か。いくつか考えられたけれど」
「たとえば?」
「たとえば……」
 透海は顔を上げない。だがその口調はしっかりとしていた。
「それを知った私たちが、戦意を喪失する場合」
「…………」
 啓は黙り込む。
「戦意喪失に至るまでの経緯がどういうものになり得るのかまではなかなか分からなかったけれど、考えられるのは戦闘の大義名分が失われる場合。私たちは『世界』を守るためと言われて戦っている。それがもし、そうでなかったら……」
「なるほど」
 啓はため息混じりに相槌を打った。
「他には何があった?」
「……実際のところ」
 透海は半ば目を閉じている。
「敵についての情報は私たちにも直接与えられていたの。何といっても、戦っているのは私たちなのだから」
「…………」
 彼女はぽつりと呟いた。
「敵機は――あまりにも『アーク』と似過ぎていたわ」
「……ああ」
 啓は小さく納得の吐息を洩らす。透海は少しだけ彼の顔を見上げ、すぐに視線を床に落とした。
「私たちと無関係な存在だとするなら、機体の形や素材、武器の種類までもが全て似通っているなんて――そんなことあり得ないもの」
「……そうだね」
 啓は認めるように頷いた。――彼女はここで何か言ったところで騙しおおせるようなひとではない。だからこそ、僕は……僕は、彼女が……。。
「それで、もしかしたらと思ったの」
 透海の肩幅は狭く、うなじから腕にかけて、なだらかではあるが急なカーブを描いて落ち込んでいる。それが、いつになくひどく弱々しうに見えて、啓は困惑した。
「思いついてみたら、しっくりきたわ」
 透海は自嘲するような軽い調子で言う。
「『ノア』のような存在は一つじゃなくて……他にもある、と考えるべきだったのよ」
「…………」
 啓は息をするのも忘れて彼女を見つめた。
 ――決して知らせてはならないはずの真実。彼女は既にそれに到達している。そして……。
「ねえ」
 透海は顔を上げた。啓は一歩後退する。一瞬泣いているのかと思ったが、そうではない。彼女は微笑んでいた。
「そろそろいいんじゃない?」
「何がだい?」
 また、痛みが生まれる。だがそれは先ほどまでのものとは少し違っていた。頬の紅潮と、動悸を自覚する。啓は混乱した。これが故障ではないのだとしたら、自分は一体どうしてしまったのか。――彼女は一体、自分にとって何なのか。どうも彼女にはペースが乱される。先ほどの彼女はひどく弱々しくて、どこかに消えてしまいそうに見えた。それなのに、今はこんな笑顔を見せている。
「どうして、私たちは『敵』と戦っているの? それと――」
 透海はまっすぐに啓を見つめた。その視線は、いつもの曇りのない色をしている。彼は何故かほっと安堵した。その暗い色は、彼を落ち着かせてくれる。
「ノエルって人。一体何をするつもり?」
「…………」
 啓は躊躇った。彼の一存で彼女に全て明かしてしまう訳にはいかない。「ノア」をこれからも維持していくためには、破ることのできない不文律というものがあるのだ。彼女、は既にそのうちの一つを侵してしまっている。
 すなわち――彼女は他の方舟の存在に気付いている。
 
 
  9
  
「『夢』……」
 ノエルは歌うように告げる。
「『夢』もまた、現実」
「何を」
 理は動揺する。この女は何かとんでもないことを言おうとしているのかもしれない。だが、不思議と耳を傾けることしかできなかった。
「貴方は今、『夢』を見ているのかしら? それとも現実を生きている?」
「……そ、それは」
 理は俯いて考える。
 ノエルは急かすこともなく彼を見つめた。
「わ……」
 長い時間が過ぎ、やがて理は口を開く。
「わから、ない……」
 実際のところ、そんなことは彼に判りようがないのだった。彼は今まで「夢」の中で「これは夢だ」と悟れたことがない。特に最近は「夢」だと片付けられないほどリアルな「夢」を見たり、しかもそれが昼間に訪れることもあったり、「夢」と現実の境目がひどく曖昧になっているのだった。そんな彼に、ノエルの質問に答えることなどできるはずがない。
 まして今、目の前にいる彼女は現実味のない未来人のような格好をしているのだ。
「正直ね」
 ノエルはくすくすと笑った。
「でも、それが一番正しい答え」
「正しい?」
「そう」
 ノエルは顎を上げて頭上の方を眺める。
「そうね……貴方には見せてあげた方がいいのかもしれない」
「何を?」
「…………」
 ノエルは黙って窓際へと歩んだ。鍵を開け、一息に開け放つ。
 街はしんと静まり返り、音一つ聞こえない。まだ夕方だったはずなのに、空は灰色で薄暗かった。あまりにも異常な光景に、理は思わず立ち上がる。
「こ、これはどういう……」
「『ノア』が一時的にデータ処理を中断しているの」
 ノエルはそっけなく答える。
「もうそろそろメモリがパンクしそうなのよねえ……」
「のあ? めもり?」
 理は目を白黒させる。ノエルは振り向いて苦笑した。
「貴方、潮崎和歌子のこと以外は何も憶えていないのかしら?」
「え?」
 彼女の名前に反応し、理はノエルを見つめる。ノエルはその艶やかな唇でいくつかの単語を呟く。

「ゴート」
「サクリファイス」
「零号機」
「オペレータ」
「ミワ」
「実存人格」
「擬似人格」
「ワカ」

「あ……」
 ぶる、と理の体が震える。
 何かを思い出そうとしている、いや、彼は既に思い出しているはずなのだった。何故ならそれは全て――。
「ゆめで、聞いた……」
「…………」
 ノエルは再び窓の外を眺めた。
「ほら、見てご覧なさい。今なら見えるわ」
「…………」
 理は強張る足を無理に動かし、外を覗いた。ノエルの指に示された空を見上げ、あっと息を呑む。
 そこには月が――今この時間にあるはずのない月がぽっかりと浮かんでいた。いつもよりずっと大きく、そして薄く透き通っている。
「あれのことを、私たちは『幻月』と呼んでいる」
「げんげつ?」
「そう」
 理の耳のすぐ側でノエルが囁いた。
「あれが貴方たちの、世界だったものなのよ」