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第三章 マボロシハカゲ 4~6

  4
 
 ある日の放課後、理は一枚のメモを片手に駅前のセンター街を歩いていた。一週間ほど前に乃江流と会った喫茶店の近くである。メモには、和歌子から聞いた乃江流のオフィスの住所が記されていた。
 彼女と話をしたい、と思った。和歌子のことも気になるし、また自分の「夢」のことも彼女なら何か分かるのではないか。カウンセラなら、話くらいは聞いてくれるだろう。
 商店街を中ほどまで歩き、細い路地に入る。さらに二十メートルほど進んだところで、理は足を止めた。細い間口のビルがある。七、八階建てくらいの高さで、玄関のこざっぱりとした様子からまだ建築されてそれほど経っていないのだろうと思った。
「…………」
 理は数分ほどただじっとそのビルを見上げていたが、やがて、
「――よし」
 意を決したように呟くと、扉を開けて中へと入っていった。
 

  5

「『ノア』は」
 乃江流は気だるげに呟く。
「私に彼女を消して欲しくないのかしら」
 その問いに答えるものは誰もいない。
「不要なデータはすぐにデリートしなきゃ追いつかないのに」
 人類を載せた箱舟たる「ノア」には余裕などないのだから。
「なのに、どうして」
 彼女には分からない。
「どうして私の邪魔を……?」
 時任輝也。そう目立つ男ではなかった。それでも、あの状況で彼は随分冷静に対応していたようにと思う。そもそもとっさにあの少女を救えたこと自体が驚きだった。避けられるタイミングではなかったはずだ――普通なら。
「あの男、何者なの?」
 乃江流は目を閉じ、男の顔の変わりに別のものを思い浮かべた。

 潮崎和歌子。
 そして、
 八千代理。
 
「記憶操作が上手くいっていないのね」
 それは恐らく、バグのためだ。
「やはり『ゴート』とは回路が違うからなのかしら。それとも……」
 乃江流ははっと身を起こした。閉じていた眼を開くと、そこは彼女のオフィスである。身を横たえていた来客用のソファに座りなおし、やや怪訝そうな面持ちでつぶやく。
「……彼が、来た?」

  6
  
「八千代君、すごい勢いで帰ったねえ」
 啓のいつもと変わらぬのほほんとした声を聞きながら、透海は週番日誌をつけている。
「何か用事でもあったのかな」
「知らないわ」
「…………」
 啓は僅かに眉を跳ね上げる。
「何かあったのかい?」
「どうして?」
「何だか不機嫌そうだけど」
 啓は透海の座っている前の机に腰掛け、彼女の顔を覗き込んだ。
「近いわよ」
 言われて啓は苦笑し、僅かに身を引く。
「透海さんって、自分の領域に他人を入れたがらないよね。警戒心が強いっていうか」
「普通だと思うけど?」
 透海は几帳面な細い文字を書きつけながら眼も上げない。
「…………」
 啓は口をつぐんだ。今日は木曜で、月曜から始まった彼らの週番は四日目である。月曜日の彼女の様子は普通だった。おかしくなり始めたのが火曜日。それ以来水曜、木曜と日を経るに連れて彼女の機嫌は悪くなっている。
 啓は尋ねた。
「月曜、僕何かしたかな」
「別に?」
 透海にとっては啓がそのような問いに至るということなどお見通しだったのだろう。真一文字に引き結ばれていた唇に、苦笑のようなものが浮かんでいた。
「貴方は何もしていないわ」
 透海ははっきりとそう言った。彼女の夜空のような色の瞳がまっすぐに彼の眼を射ている。
「これからも……そしてきっと、これからも」
「それ、どういう……」
 戸惑う啓を尻目に、透海は日誌を畳んで立ち上がった。
「じゃ、私帰るから。お疲れ様」
「ちょっと、北原さん!」
 啓は思わず大声を出して彼女の腕を掴んでいた。
「…………」
 透海はゆっくりと振り返る。
「手を、離して」
「君が何を言っているのか、僕には分からないよ」
 分かりたいのに。彼女のことを、もっと分かりたい。近付きたい。苛立ちのような、悲しみのような、怒りのような。何とも説明のつかない感情が彼を襲う。
「…………」
 透海は口元だけで笑った。
「そんなに私の機嫌を取らなくてもいいわよ」
「え?」
「敵とはこれからも戦う。それしか私たちの生き残る道がないのなら、ね」
「…………」
 啓はただただ瞬きを繰り返す。透海は彼から視線を外した。
「手を離して」
「僕は……」
「離して」
「…………」
 啓はしばらくの逡巡の後、彼女の腕から手を離した。離れていく彼女の熱が、名残惜しいとさえ思う。体のどこかがじくじくと痛かった。それがどこなのか、彼にはわからない。とっさに自己診断プログラムを走らせるが、どこにも故障はなかった。ではこの痛みは一体何なのか……。
「一つ、聞きたいことがあるの」
 透海は彼と目を合わせようとしない。痛みがじんわりと増した。
「私たちの敵のことよ」
「それは――」
「何も言わなくていいわ」
 透海に遮られ、啓は口を噤む。何故、自分は彼女の言う通りにしようとしているのか、わからない。だがそうすることでこの痛みはわずかでも薄らぐのではないか、そんな期待があった。
「ただ、頷くか否定するかだけでいい」
「…………」
 透海の伏せられていた瞼がゆっくりと持ち上がる。その瞳に映る自分は、見たことのない表情をしていた。やはり自分はどこかが壊れているのか……。
「私たちの敵は――」
 啓はごくりと唾を飲む。透海はささやくように、それでいてはっきりとその言葉を口にした。
 
「人間なのね?」