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第三章 マボロシハカゲ 1~3

  1
 
 ――放課後、屋上で待ってます。 
「…………」
 彼はそのメモを視線で追い、やがてふう、とため息をついた。
「俺、誰かに恨まれるようなことしたかなあ」
 靴箱をカシャンと閉めて、上履きに履き替える。メモは学生服のポケットに突っ込んだ。
「おはよう」
 背後からの声に驚いて、彼は体を硬直させた。首をめぐらせて彼女の姿を認め、小さく微笑む。
「おはよう」
「どうかしたの? ぼうっとして」
 首の角度にあわせてセミロングの髪が揺れる。
「ううん、何でもない」
 彼は不自然ではないように手を動かし、ポケットの上からメモに触れた。紙がこすれて、かさりと音をたてる。
 差出人の名前はなく、筆跡は女性らしい少し丸みを帯びていた。彼には心当たりがない。
「……ま、行ってみるか……」
 彼女はその呟きには気付かなかったように、彼の側をすり抜けて行った。
 
 ホームルームが終わった後、彼は誰も見ていないことを注意深く確認して、屋上への階段を上っていった。おそらく悪戯だろうとは思っていたが、だからといってすっぽかすつもりは彼にはない。そもそもそういう考えすら浮かばなかったのだが、そういうところが彼女に馬鹿正直ねと笑われる原因かもしれない。だが彼は別にそれで構わなかった。
 先生たち以外は皆知っている、鍵の壊れた屋上への扉。彼は警戒心もあらわにゆっくりとノブを捻り、音を立てないように屋上へと踏み出した。
 ――風が強い。彼は目を細めた。前方に人影が立っている。漆黒の髪を、肩の上くらい――彼女よりも少し短いくらいのところで真っ直ぐに切り揃えた少女。彼と同じ中学の制服を着ていた。少女は少しも笑っていない。屋上に呼び出して恋愛の告白をするような、そんな雰囲気では全くなかった。
 彼は静かに尋ねる。
「誰だ?」
「…………」
 少女は答えない。彼はふと、彼女が変わった瞳の色をしていることに気付いた。深い深い、翠の色。外国人のようには見えないが……。
 少女はやがて口を開いた。まるで何かを試すように、じっと彼を見つめている。
「『……』君ね? 私のことはミワって呼んでくれればいいわ」
「みわ? どこのクラスだ?」
「私、制服を着ているの?」
 ミワと名乗った少女は、涼しい顔で彼の懐疑の視線を受け止める。
「じゃあ、それは貴方が『私が着るに相応しい』と考えている服装なのよ」
「意味わかんねー」
 彼は軽く肩をすくめる。
「からかって遊びたいんなら他の奴にしなよ。俺も暇じゃねえんだ」
「そういうわけにはいかないわ」
 言い捨てて踵を返した彼の背後から、声が追いかけてくる。
「貴方は『…………』の『コア』になるのよ」
「え?」
 彼はドアノブに伸ばしかけていた手を止めて振り向いた。ミワの瞳が思いのほか近くで輝いている。いつの間に追って来たのだろう。
「そして、敵と戦うの」
「テキ?」
「この世界を滅ぼしたくなければ」
 ミワがまた一歩、近付く。彼は吸い寄せられたように、彼女の瞳をじっと見つめていた。底がないように澄み切った、その奥。
「貴方は、」
 ――『サクリファイス零号機』の『コア』になるのよ。
 その言葉が、彼の運命を決めた。
 
 
  2
  
「――――!!」
 理が眼を開けると、そこは見慣れた天井だった。
「何だ、あれ……」
 手のひらはじっとりと汗ばんでいる。最近彼を苛んでやまない一連の「夢」。その続き。いや、今の「夢」こそが全ての始まりだったのかもしれない。
「『サクリファイス』……犠牲って意味、だよな?」
 つぶやいて、ぞっと身を震わせた。犠牲。ぞっとしない響きだった。
「そういえば」
 理は仰向きだった体を九十度右に回転させる。
「夢の中にも……ワカが出てきてたな」
 どういうことだろう。中学時代には離れ離れだったはずなのに。どうして「夢」の中では同じ中学に通っているのだろう。
「……なんで」
 短い髪の中に左指を埋める。
「なんなんだよ、これ……」
 胸の奥がざわめいていた。何か小さな穴が開いて、そこから徐々に闇が侵蝕してきているような――怖い。
「あの女」
 翡翠色の目をした女。ミワと名乗った、彼の「夢」をいざなう存在。
「久遠に似てる……」
 整いすぎた造形と浮世離れした雰囲気。それでいて何かを悟っているかのように全てを超越した虚無感。
「……ミワ、か……」
 理は再び目を閉じた。
 
 
  3
  
 輝也の住むマンションで、透海と彼は向かい合って夕食をとっていた。透海の両親はそれぞれ用事で外出しており、そういうときは輝也が透海の面倒を見ることになっている。
 彼の作ったクリームシチューをすすっていた透海は、ふと思い出したように手を止めた。
「ねえ、輝也さん」
「何だい?」
「『ノア』……あ、久遠君もだけど。何か隠してることがあるんじゃないかしら」
「たとえば?」
 輝也は首を傾げる。
「色々あるけど、一番は敵の正体」
 透海は視線を落とした。
「他の『アーク』の『コア』も言っていたわ。それだけは、『エーアイ』たちが決して教えてくれないって」
「敵のこと。気になっている?」
「当たり前よ」
 透海は苛立ったように、勢い良く水を飲んだ。空になったコップをテーブルの上に強く置く。
「訳の分からないものと戦えって言われて、殲滅して。戦いなんて、相手の正体が分からなきゃ本来やってられないことだと思うもの」
「謎は、恐怖を生むからね」
 うなずく輝也だが、透海は首を横に振った。
「怖くはないの。刺激を直接神経にインプットされても、やっぱり肉体があるのとないのとでは違うのよ。現実感がないっていうか……」
「へえ、そうなんだ」
 輝也は小さくため息を洩らした。透海が、自分の従妹が、世界の命運を賭けて戦っている――あまりに現実感のない「現実」。
「やっぱり機械が生体機能に迫るのは難しいことなのかな」
「そうなのかもしれない……」
 透海は急に声のトーンを落とした。「エーアイ」だからなのかな。そう言って悲しげに微笑んだ啓を思い出す。彼は人工知能だ。どんなに人間らしく見えても、人間ではない。
 気持ちを切り替え、彼女は話を続けた。
「私たちが呼ばれる時って、いつも既に『アーク』は戦闘配置についているのね」
「そうなの?」
 最近、透海と「ノア」や「アーク」にまつわる話はしていなかった。輝也は興味深く耳を傾ける。
「気がつくと目の前に敵がいる。そしてそれを倒せって言われる。どうして戦わなければならないのかもわからないまま……まあ、余裕がないから、一々気にしていられないのもあるけど」
 彼女は長い睫毛に縁取られた瞼を伏せた。
「時々これでいいのかなって、自分が間違っていないか不安になるの」
「…………」
「彼らの言っていることが本当だって根拠はどこにもないのよ。世界ってものが善や悪で割り切れるものじゃないことくらい私にも分かってる。向こうが攻めてくるから向こうが悪い、なんて言えないでしょう? 本当はこっちが攻めてるのかもしれない。向こうも自分たちを守って……」
 透海は言葉を切った。
 向こうも、自分たちを守って?
「……まさか」
「え?」
 輝也は思わず聞き返し、やがてあることに思い当たって息を呑んだ。
「……今、僕たちは同じことを考えているのかな」
「……分からない、でも」
 透海は思わず肘を突いて顔を覆った。
「もしそれが本当なら」
「全ての辻褄があう……」
 輝也のつぶやきを聞き、透海は小さく呻いた。
「どうしよう」
「透海ちゃん?」
 震える声に、輝也は腰を浮かした。
「私……人殺しなのかもしれない……!!」
「…………」
 輝也は言葉を失った。伸ばした手が、彼女の肩を掠めて落ちる。
「どうしよう……」
 透海は顔を上げることができなかった。