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第一章 メザメハヒカリ 7~9

  7
 
「ふう……」
 和歌子はゆっくりと道を歩いていく。視線が上に向けられることはほとんどない。鞄の中に入っている一冊の本を思い出し、彼女はため息をついた。著者の名は加川霧子(かがわきりこ)。彼女は本職の精神科医としてよりも、文筆家として名が知られている。小説家ではない。実はエッセイストでもないのだが、書店ではエッセイコーナーに置かれることが多い。新書コーナーに並ぶ彼女の本は高校生や大学生に良く売れていた。和歌子も読者のうちの一人である。
 不思議な本だと思う。気がつくとその一節が頭を巡っている。
 
 ――思い込むことは簡単だ。疑うことよりもエネルギイが要らない。だから人は世界に対して従順なのである。無駄なエネルギーを使うことは、この世界の存続にとってマイナスしかもたらさない。たとえそれが逃避に過ぎなくとも、生存に有利ならそれもいいだろう。だが、ここで見逃されがちなのは、疑念に到達した少数派たちには救いが全く用意されていないことである。
 
 抽象的で、具体的な記述は一切ない。見ようによってはただの言葉の羅列である。実際彼女の本はそう言って批判されることもあるし、大抵の大人が見向きもしない原因もそこにあった。「加川の文章は頭がいいように見せかけようとしてわざと難解に書いたものだ」という批判も数多く見られる。
 だが、本当にそれだけだろうか……? 和歌子はそう思う。著者が何か大切なことを伝えようとしていて、それでもそれをはっきり書くことが出来ない事情があり、もどかしく思っているのではないか。
 今彼女の鞄の中に入っている本のタイトルは、「永遠の漂流」という名である。一体何が漂流しているのか、永遠とは何のことなのか、和歌子には全く分からなかった。だが、胸にわだかまる不安は確かにこの本からもたらされたのだと分かる。意味も理由も分からないが、ただそこにあることは確かなのだった。
「ふう……」
 悩んだ顔をしていたら、担任にどうしたのだと聞かれた。成績が上がらないことを気に病んでいると思われたのかもしれない。母親にも気遣わしそうな目で見られた。申し訳ないと思う。理は全く気付く様子もないが……。
 ――あいつ、一体何なのよ。彼の顔を思い出すと、和歌子は苛立ちを感じる。相変わらず、塾のある日には彼女のクラスのホームルームが終わるまで待っている。時々朝に同じ電車に乗り合わせると、学校まで足取りを合わせてついてくる。誤解してくれと言わんばかりである。だからと言って彼らが恋愛関係にあるのかというと、それはもう断じて違う。気の合う幼馴染、それだけである。だが、周りの目は明らかにそうとは見ていない。理はそのことに気がついているのだろうか。
「全く……」
 つぶやいた次の瞬間、彼女の体は地面に薙ぎ倒されていた。
 
 
  8

 遡ること、数分。輝也はふと足を止めて振り返った。見知った顔とすれ違ったような気がしたのである。――うちの生徒かな? そう思ってやり過ごそうとするが、どうにも引っ掛かる。理由は分からないし、そもそもその人物が誰だったか思い出すこともできない。
「うーん……」
 結局彼は確かめるために引き返すことにした。――どうも嫌な予感がする。非科学的なことは信じない方ではあるが、彼は科学万能論者という訳でもない。いや、科学によって証明された部分については信用に値すると思っているが、科学というものはまだこの世界の複雑さに追いついていない。そういう意味で、人間という存在は世界の枠組みに完全に準拠した存在である。たとえ現在の科学で説明がつかなくとも、勘や予感というものは存在するかもしれない。輝也はそう思っている。
 特に、彼は――この世界が「夢」でできているということを、既に知っている。
 夕暮れ時の混雑した人波をかき分けて追うが、後ろ姿ではなかなか判別できない。もどかしさを感じ始めたとき、輝也はふと横を見た。ふらふらとトラックが近付いてきている。居眠り運転だろうか。
 どっと冷や汗が流れた。
 ――危ない!!
 そう思ったときには体が動いていた。トラックの進路上にいた少女の体を抱え、突き飛ばす。
 急ブレーキの音が響き渡った。
「…………」
 やがて、雑踏のざわめきが耳に戻ってくる。彼の下敷きになった少女が、怯えた目で見上げていた。
「せ、先生……?」
「え?」
 良く見ると、それは彼の勤める高校の生徒だった。受け持ちの学年ではないが見覚えがある。
 体を起こし、彼は矢継ぎ早に質問をした。
「うちの生徒だよね? 大丈夫? 怪我はない?」
「……はい」
 トラックは彼女の立っていた地点を通り過ぎて電柱に激突していた。運転手らしき男が慌てて飛び出してくる。見たところ、運転手にも通行人にも怪我はないようだ。
 おそらく誰かが警察をや救急車を呼んだだろう。それまではここにいなければならない。輝也はため息を吐いた。やっかいなことに巻き込まれたものだ。だが、もしあの時彼が飛び出さなければ……。少女も同じことを思ったのか、青い顔をして細かく震えている。
「君、名前は何?」
 尋ねると、意外にしっかりとした声で返事が返ってきた。
「潮崎です。一年C組の、潮崎和歌子です」
「……そうか」
「時任先生、ですよね。化学の」
「うん」
「…………」
 輝也は深く息をつき、道路に転がった眼鏡をかけ直した。細いフレームは幸い歪んでおらず、彼の顔にきちんとフィットした。
「念のために病院に行かなきゃね。あと、警察に話をして……。ご両親にもちゃんと連絡しないと」
「はい」
「大丈夫」
 輝也は軽く彼女の肩を叩いた。
「僕も一緒にいるから、君は心配しなくていい」
「……ありがとうございます」
 輝也はふと足元に落ちた一冊の本に目を留めた。転倒の衝撃で鞄から落ちたのだろう。拾い上げて彼女に渡す。彼女が礼を言って受け取る前に、彼の眼はタイトルを見ていた。
 ――「永遠の漂流」。
 輝也はふと思い出す。人類の残滓を載せて進む、孤独な方舟――「ノア」。
 
 
  9
  
「随分と野蛮なやり方をするんだな」
 突然掛けられた声に怯むことなく、女はゆっくりと振り向いた。
「あなたが、『ユダ』ね」
「そう」
 視線の先に微笑むのは、銀髪に赤い目をした少年――久遠啓。
 中層ビルの封鎖された屋上。そこのフェンスの上に軽やかに立つ女と、その女を見つめて冷ややかに笑う少年。どう見ても普通の者たちではない。
「君と会うのは始めてだよね。『イレイザー』」
「そうね。私も『エーアイ』とこうして話すのは始めてだわ」
「僕の名は久遠啓だ。……君には名前がある?」
「私は『ノエル』と呼ばれています」
 長い黒髪を手で押さえつけ、女は微笑した。やがて、笑みを消して眉を寄せる。
「あの男……今、私の邪魔をしたのは誰? 本来あり得ないのよ。『イレイザー』の仕事を邪魔できる人間がいるなんて」
「そうだね。彼の存在は、僕にとっても謎だよ」
 啓はにっこりと笑った。
「…………」
 ノエルは怪訝そうな顔をする。だが、啓は彼女よりも先に口を開いた。
「あと消去しなければならないデータはどれくらい残っている?」
 啓の問いにノエルは右の人差し指を一本立てた。
「一つ。彼女だけよ」
「…………」
「本来自動的に消去されていくから私がわざわざ出てくることもないのだけれど、彼女はちょっと……ね」
「なるほど」
 啓は納得したように頷いた。
「ちょっと手間がかかりそうだね」
「全くだわ」
 女の身につけているぴったりしたスーツは近未来的で、街中で見れば何かのコスプレかと見紛うようなものである。だが、そうではないことを啓は知っていた。
「こういう偶然の事故を装っても邪魔が入るのだとしたら……」
 「ノエル」は独り言のように呟いた。
「直接消すしかないかもしれないわね……」
「…………」
 啓は黙って「ノエル」を見つめる。その顔には何の表情も浮かんでいなかった。