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第一章 メザメハヒカリ 1~2

  1
 
八千代(やちよ)君」
「え?」
 (さとる)はばっと体を起こし、目を瞬かせた。眼前には身を乗り出すクラスメイトの顔。銀髪に赤い瞳という一風変わった容貌を持つこの少年は、久遠啓だ。
「先生はまだ来ていないけど、チャイムは鳴ったよ。そろそろ起きた方がいい」
「そ、そうだな」
 実際のところ、彼は自分が寝ていたことにすら気がつかなかった。理は少し照れくさそうにしながらよれたシャツを引っ張る。久遠啓は教室で彼の席の後ろに座っていて、理は自然と親しくしていた。啓はかなり変わった少年でクラスの中でも目立つ存在だが、理はそういうことに頓着しない性分だった。
 理は体を起こし、振り返った、啓の隣り、つまり理の斜め後ろに座る少女がちらりと自分を見て、やがてすぐに視線を逸らした。北原透海。頭が良くて顔立ちも整っているのだが、無口で少々とっつきにくい印象がある。おとなしい、というのとは違う。少々わざとらしい控え目さ、という表現が正しいかもしれない。ただ、啓とは随分仲が良いな、という印象だった。というより、透海のそっけない対応にもめげずに啓がえんえんとちょっかいを出しているというか……。本人たちがそれを聞いてどういうかは知らない。
 夏休みの終わりと同時に転校してきた理だが、一か月半ほど経って大体同級生のことは把握できたと思う。先ほど挙げたふたりは、同級生の中でも異質だった。明らかにそうとは見られないように振る舞っている。だが、違う。
 啓は飄々とした笑顔を浮かべていた。
「お昼ご飯食べると、眠たくなるよね」
「久遠は少食だよな。いつも購買のパン一個とかしか食ってねえじゃん」
「うん、まあ……」
「そんなんじゃ、大きくなれないぞ」
「ぷ」
 実は彼らの会話を聞いていたらしく、透海が小さく吹き出した。どこに笑う要素があったのか、理には良く分からない。啓は苦笑を浮かべた。
「八千代君って体育会系だねえ」
「まあ、運動は得意だ」
「結局、バスケ部に入ったのかい?」
「おう」
 転校してきて以来どこの部に入ろうかと見学を繰り返していたのだが、先日ようやく正式に入部届けを出した。理は啓と透海の顔を交互に見比べ、言う。
「部活って……」
「あ。僕ら帰宅部」
「やっぱり仲良しだな」
「たまたまよ」
「えー?」
 電光石火の切り返し。啓は拗ねたように唇を尖らせるが、透海はそれに取り合わない。……やっぱり仲良しじゃないか。理は口元に笑みを含む。
 やがて、教室に教師が入ってきた。理たちは口を噤み、手元のノートをぱらぱらとめくる。白い紙面に書き込まれた、自分のお世辞にもきれいとはいえない文字たち。
「え?」
 不意に、そこから文字が飛び出してきたように見えて、理は一瞬目を瞬かせた。無論、見間違いだったのだが……。
 ――なんだ? 今の。
 指でごしごしと目をこする。力を込めすぎたのか、瞼がひりひりと痛んだ。
 
 
  2
  
 1年C組のホームルームが終わったのは、他のクラスと比べて随分遅くだった。潮崎(しおざき)和歌子(わかこ)は慌てて鞄に荷物を詰める。
「和歌子、何急いでるの?」
「今日は塾に行く日だもの」
 答える和歌子の声を掻き消し、
「和歌子、彼氏ができたのよ」
 別の友人がからかうような口調で言った。
「え、マジ?」
「だってこの間駅で一緒にいるの見たもの。あれ、八千代君でしょ? E組の」
「うっそー! 八千代君、私もいいなって思ってたのに」
「あんたは久遠君ファンだったじゃない」
「久遠君は綺麗すぎるから、見てるだけでいいのよ! 付き合うなら八千代君ね」
「ち、違うの」
 和歌子は焦って口をはさんだ。
「塾が同じだから一緒に行っているだけなのよ。付き合ってなんてないわ」
「またまたー」
「わざわざ待ち合わせて行ってて、その言い方はないわよねー」
「ほんとほんと!」
 きゃあきゃあと騒ぐ友人たちを放置し、和歌子は教室を抜け出す。――違うって言ってるのに。肩の辺りで切りそろえられた髪を軽く手で払い、ため息をついた。
 八千代家と潮崎家は同じマンションの隣人である。八年前、八千代家は転勤に伴って引っ越していった。ただしそれは一時的な出向らしく、部屋は売らずに賃貸物件としていた。今年度上半期でその出向期間は終わり、八千代家は隣に戻ってきたのだが、母親同士の仲が良かったためにあっという間に家ぐるみの付き合いは復活した。彼らは同じ塾に行かされることになり、帰りが遅くなるのは心配だという母親たちによって、理は和歌子のいわばボディガードを命じられたのだった。だから、塾帰り以外は共に行動しなくても良いはず、なのだが……。
 和歌子が急いで校門前のバス乗り場に向かうと、案の定理がそこで待っていた。背を向けて立っている彼の横に、特徴的な銀髪を持つ有名人が立っている。
「あ……」
 声を掛けようか掛けまいか迷っていると、先に理がこちらに気付いた。
「よう、潮崎」
 その声に、啓も彼女に気付いたらしく、振り返って会釈した。
「こんにちは、潮崎さん」
「あ、どうも」
 和歌子は軽く会釈した。彼女が目を伏せている一瞬の間に啓の表情には影が走り、だがそれはすぐに消える。和歌子も理も、それに気付く間はなかった。
「お前んとこのホームルーム、いっつも遅いよな」
 理は軽く唇を尖らせた。
「じゃあ待たなくってもいいのに」
 和歌子が小さくつぶやくと、
「何だって?」
 理は聞き返す。和歌子はふう、と大きく息をついて、
「いえいえ。お待たせしました」
 とわざとらしく一礼した。
「じゃ、僕はそろそろ帰るから」
 啓は足元の学生鞄を持ち上げる。
「おう、一緒に待ってもらってごめんな」
「ううん。塾頑張ってね。……潮崎さんも」
「ありがとう」
 啓はにっこりと微笑むと軽く片手を振って坂を下りていく。和歌子はその後ろ姿を何となく見送った。――綺麗なひとだと思う。だが、彼女は友達の多くのように彼に憧れを抱いているわけではなかった。何故かは分からないが、少し怖い。
「お前もやっぱり気になるのか?」
「え?」
 不意に掛けられた声に、和歌子は驚いて理を見た。理は、にやにやと嫌な笑みを浮かべている。
「久遠はライバル多いだろ。頑張れよ」
「…………」
 何を言われているのかを理解した和歌子は、怒りと脱力感のないまぜになった瞳で理を見つめた。――こいつ、私と噂になってること知らないのかしら。知らないでいて欲しい。でも、私だけが気をもんでいる今の状況も腹立たしい。
 理はきょとんとして和歌子を見つめた。
「どうしたよ」
 和歌子はふい、と顔を背けた。
「別に? 私は別に久遠君のこと何とも思ってないし」
「そうなのか?」
 理は驚いたように眼を見開いて、やがて何かに納得したらしくうんうんと頷いた。嫌な予感がする。
「……何よ」
「久遠は北原と仲いいしな。やめておいた方がいい」
「だから違うって……」
 北原という名前も知っている。学年トップの成績を誇る、理のクラスメイトだ。……だが、そんなことは正直どうでもいい。和歌子は再びため息をついた。